1話『ヒロイック・シンドローム』
────どうしてこんなことになったんだろう。
アスファルトの車道を紅で汚しながら、僕はなぜかいつも以上に速く働く頭で考えた。
「死体が増えたわね、エーデルワイス」
回想しようとする僕の脳に、喪服を着た若い女の声が響いた。
後ろにスーツを着た大男たちを従えたその女の容姿はたいそう整っていて、その佇まいからは女子アナウンサーや歯科衛生士のような清潔感が感じられた。
ただ一つ。地面から伸びて、女にまとわりつく黄土色をした触手を見ないように努めれば、の話であるが。
女が冷たい目で見下ろしているのは僕じゃない。
その視線の先にいるのは、エーデルワイスと呼ばれた雪のように白い髪の美しい少女だった。
外見年齢は15歳ほどで、年の割にシンプルな白いワンピースに身を包んでいるが、ひとたび華美なドレスや装飾品を身につければ、絵本に出てくるお姫様のようになってしまうのではないか、とか、そんなことを考えてしまうほど美しかった。
……そこまで考えて割と自分に余裕があることに気づく。
「なん、で……?」
少女は、ぱっちりとした蒼玉のような瞳を、いっぱいの涙で潤ませながら、汚らしく地面に転がる僕に向けて問いかけた。
────なんで?そんなこと、僕が知りたいよ。
そうだ、いつも通りの日常だったはずだ。
学校帰りに友達に誘われて、柄にも無くカラオケに行って、夜中までダラダラ過ごして、適当に解散して家路についた。どうせ誰も待ってはいない家だ。門限を気にする必要もなく、呑気に深夜の街を歩いていた。
ああ、この時不自然に思っておくべきだったのかもしれない。
夜中とはいえ、仮にも大都会の一角なのに、街には僕以外に人も車も無かったことに。
だんだん、思考するのも辛くなってきた。
ええと、なんだったか……。
それから……僕は喪服の女と強面の男達に追われていた、『エーデルワイス』と呼ばれている彼女とぶつかって……それから……。
……ああそうだ。
彼女に伸びた茶色い『触手』から咄嗟に彼女を庇ってしまい、僕は地面に倒れたんだ。
────視界の端には、わけがわからないと言った様子でぼろぼろと涙を流すエーデルワイスが見えた。
僕の最期を看取ってくれる人だ。とにかく、顔が見たい。誰かの顔を見なければ、不安で頭がおかしくなってしまう。
しかし、血を流しすぎたせいか、瞳に映る景色はだんだんと色彩を失っていく。
モノクロの風景、痛みを感じなくなった身体。死の存在が、いよいよ実感を帯びてきた。
そんな中で、少女の雪のように白い髪だけは、変わらず僕の網膜に焼き付いてくれる。
「死体は手筈通りに処理しなさい」
真っ黒な喪服の女は、タコの足のようにうねる鉤爪を撫でながら部下らしき男達に命じた。
すぐさま黒ずくめの強面の男達が、人ひとりがちょっきり入るであろう麻袋のような布をテキパキと取り出す。
(ああ、あの袋に詰められるのか……嫌だなぁ……)
僕はもうすぐ死ぬのだろう。だけど、あまりにも突然過ぎて短い人生を儚む余裕すらなかった。怖いとも痛いとも思えなかった。
いや、ただ単にそれを感じる機能が麻痺しただけなのかもしれないが。
もとより無個性を絵にしたような人生だったのだ。
死に様だけでも格好よく彩れたのなら、それでいいかなと。
そんな諦観にも似た満足感がじんわりと湧き上がっていた。
まだ目が見えるうちに僕の腹を穿った女の触手を見た。
パラリと鉤爪から粉のようなものが零れ、アスファルトに落ちてゆく。
散らばり地面に吸い込まれていくように見えなくなったそれは、ただの砂のようだった。
ただの砂のカタマリが、ほんの数十秒前に僕の脇腹を刺し貫いたのだ。
「ッハ……」
あまりの現実感の無さに、思わず笑いがこみ上げてくる。
こんなのは夢だと叫びだしてしまいたかったが、言葉は内臓から逆流して溢れ出す血液に邪魔されて紡げなかった。
白い少女が僕の体にすがりつき、何事か叫んでいる。
「────、────っ!!」
そんな声が、僕にはひとつも聞き取れなかった。
まずいな。どうやら聴力も失われつつあるらしい。
彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃになっており、せっかくの美形が台無しだ。
つまるところ、僕は彼女の美しさに惹かれて、状況判断能力を失った結果、酔狂な英雄的行動をとってしまっただけだったのだろう。
ああ、クソ。結局ただの自己満足じゃないか。
少女は洋服のポケットから、高そうな白いハンカチを取り出し、僕の傷口に当てた。一丁前に止血のつもりだろうか?
(ばか、何やってるんだよ。早く逃げろよ)
僕がせっかく柄にも無くかっこつけたっていうのに、僕に構って君が死んでしまっては本末転倒じゃないか。
「が、ぼ……げ……っ、…………!」
駄目だ。
無理に声を出そうと試みるが、人間、限界というものがあるらしい。
せめて指の一つでも動かせれば。
「頭は生け捕りにしろという命じられたけれど。まあ、『上半分』だけでも持ち帰ればいいかしらね」
喪服の女が砂の触手に手で号令を下す。
大蛇のようにうねる触手の先端が、ゆっくりとエーデルワイスの方を向いた。
あの、僕の内臓を抉った鉤爪が、だ。
(……や、めろ…………)
声も出せない、体も動かせない。
もはや僕に出来ることは、胸の内で吠えることのみ。
(やめろ)
鉤爪がエーデルワイスに振り下ろされる。
鋭く重い砂の刃は、あと一秒もせぬうちに彼女を物言わぬ肉塊に変えてしまうことだろう。
……そんなの、駄目だ。
せっかくヒーローみたいに命を懸けて守ったというのに、彼女が死んだら僕はどうなる?
(やめろ……!!)
この感情は彼女の為のものでは無い。
ただ、自分の死を無意味にしない為に、僕は必死に血反吐を撒き散らして叫んでいた。
「やめろォォぉぉおおおおおおおおおおおッ!!」
────唯峰豊架の哮りが天を衝いた瞬間。
「あ」
それは誰が漏らした声か。
少し遅れて目に映る全ての景色が反転し、僕の記憶はここで途切れた。