急
あれからもう10年近く、あの町には帰ってない。
今日だって大学で出会った婚約者のーーーもう、あと三月もすれば妻になるーー彼女が彼に会いたいと言わなければ、きっとこの地に足を踏み入れることはなかっただろう。
彼女と二人、ゆっくりと階段を降りて改札を通り、そして駅を出れば、懐かしい香りとでかでかと立っている銅像が僕らを出迎えてくれた。
すぅ、と息を吸い込んで、空を仰ぐ。やっぱり、鼠色のままだった。
………これからあのマンションへ、達弥さんに会いに行く。
本当は、招待状を送るのみに留めるつもりだった。
しかしそれでは僕のためにならないと、直接話をすべきだと主張する彼女に急かされ連絡を取った。
達弥さんは突然の連絡でも喜んでくれ、更には迎えに行こうかとまで言ってくれた。
その様子に少し肩の荷が軽くなったが、さすがに迎えは断った。
こちらが急に言い出しておいて迎えに来させるのは気が咎めるし、何より、自分の足であの場所に行き、彼女を案内したかったのだ。
なぜと言われると言い淀んでしまうが、なんとなくそうすべきだと感じたのだ。この地を、彼を、僕が会わせるべきだと。
そうすれば、きっと―――――
「和弥さん」
不意に呼びかけられ、ハッとする。
彼女は心配そうに僕を見ていた。
「ごめん。行こうか。」
彼女はただ頷いた。
あのマンションは、駅から15分ほどのところに鎮座していた。
昔と変わらない高級そうなエントランスをくぐり、キーを使って中に入る。
そして少し大きめなエレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
それからあの部屋まではあっという間で、僕の気持ちの方がまだ整っていない状態だった。
部屋のドアを前に、立ち尽くしてしまう。
そんな情けない僕に、彼女はそっと重ねた左手に指を絡めてくれた。
ー大丈夫ー
そう彼女に笑いかけられて、やっと、微かに震える指でインターホンを押した。
『はい。』
「……和弥です。」
『今開ける』
ドアから出てきたのは、あの頃とあまり変わらない達弥さんだった。
少し不器用で、穏やかな達弥さん。そして男として憧れる、デキる仕事人。
「よく来たな。」と、僕らを歓迎し中へ促してくれる。
「おっさんの一人部屋だから、汚くても多少は許してくれ」
そんな冗談も、入ったリビングも、ベランダの景色も、あの頃とほとんど変わりなかった。
けれど、リモコンや座布団など知らないものもある。
「お茶で良かったか?」
「あ、すみません。ありがとうございます。」
二人の他愛のない会話が、どこか遠く聞こえた。
「えーと、その。電話でも言ったけど僕の彼女。…で、11月に結婚する予定。」
僕の下手くそな紹介に彼女は「佐々木京香と申します。」と、そつなく名乗る。
そんな僕らをどう思ったか分からない。ただ、達弥さんは僕をよろしく頼む、と眉尻を下げて笑った。
それから、昔話をした。得意不得意だけでなく、彼女にひた隠しにしていたもう一つの趣味まで暴露された。
しかも、彼女はそれを知っていた上に「隠していたいようだから」と口を閉ざしていたことが判明していまい、ひどく居たたまれなかった。
しょうもない足掻きとして、僕は達弥さんの失敗談を言ってみた。
そんな調子で、なかなかにむず痒い時間は過ぎて行った。
丁度区切りの良いところで、彼女が「ではそろそろ」と席を立った。
それに達弥さんも同意し、席を立つ。
僕を先頭に、玄関の方に行く。
ちゃんと彼女を紹介できたことに安心した。目的は達成できた。
けれど、どこかやり残した思いを抱えて、長くない道を歩いていく。
玄関で靴を履き、ドアの外へと出た。じめっとした空気が肌を撫でる。
「では、また。」
そう言って、達弥さんがドアを閉めようとしたとき。
「待って。」
僕はつい、呼び止めてしまった。
本当につい、ポロリとこぼれていた。
そんな僕に達弥さんも驚いていたが、僕もおどろいた。
どうしよう。
その先が続かない僕を見かねてか、唯一何の動揺も見せなかった彼女が「せっかくですし、もう少しお話しては?」と僕を残してホテルへ行った。
彼女が先に行った後、僕と達弥さんは趣味部屋に入った。
昔、二人で作った模型たちが少しだけ色あせて、しかし埃はかぶっていない状態で置かれていた。
相変わらず多忙らしい達也さんに、ここまでの状態を維持する時間はないだろう。
その証拠に、この10年でここまで色があせている。また忙しさを理由に一度出してしまわないまま、掃除もさぼっていたのだろう。
それでもきっと。僕が来ると言ったから。だから、この部屋は。
…無性に、堪らない何かがこみ上げてくる。
この部屋に来てから、僕も達弥さんも口を開いていない。妙な沈黙が部屋に広がった。
妙なはずなのに、決して気まずくはなかった。
考えてみれば、飯のときも、テレビを見るときも。模型を前にしても僕らはあまり話す方ではない。
喋りたいことや聞きたいことがある時に話して、あとは黙って勝手にくつろぐのが僕らだった。
あの当時だって。あの写真を見て、僕が一人、勝手に気まずくなって逃げただけだ。
ただ、それだけのこと。
嗚呼、どうしてだろう。
言いたいことも、言うべきことも。
聞くべきだったことだってたくさんあるはずなのに、咄嗟に何にも出てこない。
「和弥。」
顔をむけると、変わらない、あの優しい目が僕を見ていた。
こうして改めて対峙して、はたと気づく。
いつの間に僕は、達弥さんの背を超えていたのだろう。
いつから、達弥さんの髪に白が混じるようになっていたのだろう。
一体、どれほど僕は―――――。
知らなかった―――否、改めて確認することも無かったこと。
これに気がついたと同時に、やっと、僕はずっと言いたかった一言が分かった。
どうしてこれに思い当たらなかったかさっぱりだが、とにかくちゃんと口にしよう。
僕も達弥さんも、こういったことはてんで駄目らしいから。
これも、いつか母が言っていたように僕が父似の”不器用さん”ゆえなのだろうか。
「ありがとう。
―――――――――――――父さん。」
この時。僕は初めて、あの優しい目に薄い膜が張ったのを見た。
ドアの外に出ると、やっぱりじめっとした空気が肌にまとわりついてくる。
エレベーターを降り、エントランスも出て駅近くのホテルへの道を歩いた。
あぁ。
僕は父のようになれるのだろうか。
母が評したように「素直で優しい不器用さん」と、愛おしそうに、そう評されるような男になるだろうか。
藍色になった空の下、また少し軽くなった肩になんだか目が熱くなった。
それからホテルの部屋に戻って、彼女と話をした。
彼女はよかったね、と笑ってくれた。
翌日。僕は彼女と二人、僕が3年と少し過ごした街を見て回った。
知っていた場所も、初めて見る場所もたくさんあった。
夜には新幹線で、初めて買ってみたご当地弁当に舌鼓を打った。
また来ようねと笑う彼女に、僕は、そうだねとうなずいた。
29歳ーーーー来年には30になる僕の、夏の終わりのことだ。
end.




