序
本ベルが鳴る。
「ご利用ありがとうございます。この列車は、○○行でございます。---」
ゆっくりと進み出し、若そうな声のアナウンスが流れる。
真ん中あたりのセミクロスシートで、僕らは並んで座っていた。
物珍しげに景色を楽しむ彼女を横目に、僕は鼠色の空を眺めていた。
『 父 と 母 』
僕が9歳のとき、母が死んだ。
母は未婚の上身寄りもなかったので、僕は母の親友夫妻に引き取られた。
はじめのうちは訳もわからず茫然としていた僕だが、元が単純なせいか。
割とすぐに永井の父さん母さんになつくようになった。
10歳のある日、学校の宿題に自分の生まれたときの話を聞いてくるというものがあった。
僕は馬鹿正直に母 さんに「僕が生まれたとき、どうだったの?」と聞いた。
今考えるとそうとう困らせただろうと思う。
それでも母さんは丁寧に話してくれた。
「出産には立ち会ってないけどね。次の日にお見舞いに行ったとき、見たことないくらい幸せそうな顔であんたを抱えてたよ。」
覚えてる?と聞かれてうなずいた。
母のことははっきりとは言えずとも、覚えている。よく笑う、やさしい手をした人だった。
僕が「これは何?」「じゃああれは?」「どうして」を繰り返すのを嫌な顔一つせず、何でも教えてくれた。僕の頭を撫でながら答えてくれるのがうれしくて、何にでも「何」「どうして」と尋ねていた。
でも、父のことはあまり教えてくれなかった。
けれどあまりにしつこかったのか、たまに「あんたの父さんはね、あんたに似て素直でやさしい人よ。」と困ったように笑って話してくれたことがあった。それから「あんたもあの人と同じ、不器用さんだね。」とも。
それを伝えると、少し驚いていた。母さんも知らなかったらしい。
母は僕についてはどんなことでも話してくれたのに、父親についてだけは一言も話してくれなかったという。
そんなでも「もしものときは」と言う母の頼みを受けてくれた父さんと母さんには本当、感謝しかない。
12歳のとき。母さんが母のアルバムをくれた。
写真と、いつどんな場面なのかが丸っこい字で簡単に添えられたものだった。
これは母の趣味で作られた、お手製アルバムらしい。
母さん曰く、大部分は学生時代の旅行写真らしいが、新しいものには僕や僕と母とのツーショット写真なんかもあった。
貰った当初は読めない字がいくつもあったけれど、これでいつでも母に会えるような気がして少しうれしかった。このアルバムは、今でも一番母とのつながりを感じるものだ。
13歳の春。母さんの兄が日本に帰ってきた。
いつも通りに部活から帰って見知らぬ男に「お帰り。」と言われたときの衝撃は忘れられない。
すぐに母さんの兄だと名乗られたのだが、正直母さんが帰ってきて肯定してくれるまで安心できなかった。
聞けば母さんの兄ーーー達弥さんは、仕事でアメリカに居たのだとか。
でもその前はフィリピンだったり、ドイツだったりと世界を転々としていて今回ようやく日本での仕事に落ち着いたのだと言う。
達弥さんが見てきた色んな国の話はとても面白く、たびたび話をせがんだ。
15歳の冬。父さんの転勤が決まった。
関西だった。
遠いのと、たぶんこっちに戻っては来ないだろうとのことで二人は何度も話し合い、結果僕の受験が
あるからまずは父さんだけで行くことにしたらしい。
申し訳ないなと、子供ながらに歯がゆかった。
すると、次の休みの日。母さんから聞いたのか達弥さんが「俺が和弥の面倒を見るから、二人で揃って関西に行け。」と言った。
どうしてか分からないけれど、初めて見る――少なくとも僕は――達弥さんの鬼気迫る様子に父さんたちはしぶしぶ言葉に甘えることになり、僕は達弥さんと暮らすようになった。
達弥さんの部屋はとても広い。何でマンションに噴水?があるんだよ。
今でもたまに思うが、当時は本気でヤバいところに来てしまったと思ったくらいだ。
…まぁ、実際は若い頃に恋人と住むつもりで買った部屋だったらしい。写真を撮るのが好きな人だったと。
だから景観の良い部屋にしたのだけれど、その人には出張でロンドンに行っていた間に振られてしまったのだとか。
少し寂しそうだった。
16歳の秋。僕は模型作りを始めた。
きっかけは今となっては思い出せないが、ついついのめり込んでいた。
けれどなんだか照れくさくて、しばらくはこっそり――本当にばれないようにやっていた。
が、やはりというか。
どうにも表に出やすい、というか人よりだいぶ不器用らしい僕はあっさりと趣味を知られてしまった。
慌てた僕に、達弥さんは嬉しそうに笑った。なんと学生時代には達弥さんもしていたという。
今は作ってはいないが、展示があったりしたら見に行くらしい。
そんなことがあって僕と達弥さんの趣味部屋ができ、休日にはリビングで黙々と作るようになった。
たまたま、こっちに来ていた母さんには盛大に笑われた。
どうも、二人並んだ背中が妙にしっくりきてしまったのが面白かったらしい。
何てことない話ではあるが、当時の僕にとって達也さんとのこの不思議なつながりは特別なものであった。




