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第九話 欲望の鳴き声

残酷な描写が有ります。苦手な方は絶対に回避願います。

 ちゃぶ台を間に、彼のすぐ斜め隣に座る私。結局二人で酒を飲む。彼は一言も発せず、私も何も言わない。結局、男と女はこういうものかもしれない。会話じゃないと。何しろ彼の目は私の躯の上を泳ぎ、時々落ちては再び、舐める様に這い上がる。 

 私を啜るかの様に彼の唇が茶碗の水面をかき乱す。それに応えるが如く、つぼめた口でこくこくこくと清酒を流し込み、夜に備えた。空きっ腹に染むのを覚悟して。

「何か欲しいものは有るかい?」

不意にそう問われ

「種子」

私はとっさにそう言った。呆れた様な顔を見せる男の、あぐらをかいたその膝に乗る様にちょこんと座り、

「子種」

それが欲しいと。彼の耳元に被さる心持ち巻いた黒髪に指絡ませながら、息を吹く。

 子種の無い男なんて、男じゃない。石女が女じゃ無い様にね。だから

「種子が欲しい」

と繰り返し、ついっと彼の顔が見える所まで体を引いた。

 さぁ、心見せてよ。くれるんでしょう、欲しいものを。だからあなたの覚悟を見せて。見返す彼の目は濁っていて。それでいて明確な意図を持ち、動いた。

 桜が舞う、鬼が舞う。庭の桜の木の枝が柳の様にしなり、蛙が死にものぐるいの跳躍を見せるがごとく、鬼が踊る。

 その夜、私の部屋に彼を誘った。六畳一間。二階の奥部屋。降り出した雨に、窓からは朧月。ぼんやりとした影が揺れる。

 どうせ今晩も飲むのだからと、布団は延べてあり。そこに二人で転がる様になだれ込んだ。

「あはははは」

笑う私。でも彼はにこりともせず、私の顔を両手ではさみじっと見つめた。

「狂ってるから」

何か言われる前にそう言った。この収集のつかない気持ちを分析なんてして欲しくない。

「要らない、の?」

彼の手の中をすり抜け、引き返し、両手を彼の首にまわす。滑らせる様に、誘う様に。嫌とは言わせない様に。彼は、欲しがっている。私の本能が教えていた。彼は私のオンナが欲しいのだ。彼の雄が蠢く匂いを肌で感じ

「来てよ」

夜が始まる。 

 今晩の彼はいやらしく、前回にも増して楽しんでいた。その上

「今、子供ができたら俺の親父の生まれ代わりか?」

事が終わり、仰向けになりながら手を額に当てながら彼はそう言った。

「なんだか、シャレにならんなぁ」

その言葉はむしろできて欲しい、そう言っているみたいで怖かった。

「馬鹿な事言わないで」

背を向けた私の躯に、太い腕が巻き付いて

「何そんなに真剣になってるんだよ。冗談じゃないか」

のどの奥で笑う声が聞こえた。 

       

 嫁いでから3年ぐらいしてからか。ふと心に沸き上がる絵が有った。

『安達が原の鬼婆』

子供の頃に忍び込んだ煤け(すすけ)た土蔵の奥底に。茶箱の隅に隠された怪奇絵本の見開きの世界に彼女は住んでいた。

 縄で結わえられ、逆さまに吊るされた産み月の妊婦。くくりつけられた梁がその重さで軋み、囲炉裏端の炎が長く豊かな髪を焼き尽くし

『タ・ス・ケ・テ』

柔らかな体を持つ女の瞳が泣く。そしてその目と差し向かう凝視、鬼婆。干涸びた乳房のオンナ、それが彼女。包丁を研ぎながら見上げるミイラの様な肉体は、不意に視線を

“こちらの世界”

に向けたかと思うと、はげかけた表装のへりを乗り越えて、今という時代にやって来た。オドロオドロした色彩が土蔵の空気に墨流しの様にとけ込んで私を圧迫し、彼女の背負う異形の世界に恐怖を感じた。

 と同時に、見てはいけない物を見てしまったその背徳感に、密やかな興奮を覚えた事も確か。

 湿った紙の匂い。高窓の鉄格子の隙間を縫う木漏れ日。そこからは陽炎が揺らめき立ち。妊婦が回る。口輪をすげられ、半裸の素肌に縄かけられて、その足首は高く梁に。くるっ、くるっ、くるっ。その横に座る老婆が包丁を研ぐ。シャィッ、シャィッ、シャィッ。

『ぼちぼち、食べごろか』

守銭奴が市場で品定めをする目つきで見上げながら。

 あの頃、一人で空を見上げながら思ったものだ。鬼女が欲したのは、きっと胎児だったのだと。臨月の腹は重い。腹に荒縄が食い込むから、児はくくられ下へと下がり。妊婦は恐怖のあまり現状が分からず、ただ目を細め、がむしゃらに許しを請う。助かりゃしないのに。

 砥石が鳴く。

『童はまだ大きくなれる、ちとまだ早い。でも、今宵割くしかなかろうて。この女は産みどきに入ってしもうたからに。このままではじき産まれてしまう』

本当に食したいのは胎盤だ。鮮血がみなぎり、生の鼓動を伝え。それを母体から根を抜く様に引き剥がす。———何よりもそこには女の“性”があるのだから。

 彼女に

“本当の子供”

はいない。多分私と同じ、石女。なによりも、鬼ではなかった、最初からは。彼女にも人としての少女の時代が有ったのだ。初々しく、ささやかな日常に笑い転げ、悪しを知らず。

 やがて月日が経ち、良人おっとも家族も亡くした

“成れの果て”

は、女の根底を喰うようになる。母と子をつなぐその絆を。生きるという事を他人から奪い取り、我身とし、再び女として君臨する日を夢見る。

 妊婦の露出した腹。その一番皮膚の薄い所が張っている。まるで騙されやすい老女が神仏にお金でも差し出すかの様に。そこを一直線。力なんかいらない。引き、さえすれば良い。

 生暖かくぬめる血。私が、いや、ほとんどの女が月に一度は嗅ぐ事になるあの匂い。金属を含んだねっとりとした甘い香りを。それを手に受け、指に散らし、ゆっくりと滴り落ちる様を見て。

「生を!!」

そう叫ぶ。

 私の心に住む鬼が踊る。かかとを大地に打ち付けて。彼女は何を喰らいたいの? ホルモン剤を飲めば解決するの? それともすでに子のいる男の元へと嫁ぎ行く? その男から子を奪い、親の地位をかすめ取る? 略奪こそが快楽のループ?

『違う!』

それは形にならず、ヘドロの様に異臭を放ち、ぶわぶわと揺らぎながら宙に舞う。私の欲望は別の所にある。……知ってる。でもその正体は分からずにいた。それでも、少しずつ、確実に……。

 寝息を立てる男の躯に寄り添った。まわされていた腕にごく自然に力が加わり、私は彼の胸の中に引き込まれ

「ふうっ」

ため息の様な吐息を吐いていた。

 知っているのは、薄い胸板と丸く切りそろえられた爪、別々の夜具。でも、彼は違う。男だ。

“自制心と激情”

優しい口付け、こめかみから額に。頭を撫でられ、髪をすかれ。眼を見開こうとする私のまぶたにも。彼はその最中何も言わない。でも、見つめている。太くてごつごつした指が首の後ろを捉え、唇を被い尽くすキスを繰り出し。もう片方の手が女をまさぐり、ぬめりを泳ぐ。瞬間、身じろぎもできないほど強く押さえつけられ。喘ぎながら私は男を感じ。汗ばむ素肌から、欲を吸い取る。濡れた躯が重なる。突き上げる原始的な要求。

『もっと!!』

何も考える事なんか無い、そう思い知らされる。私はオンナで在りさえすれば良い。

 そのまどろみの中、答えが降りて来そうだった。まるで桜が散るかの様に、扇を高みから落としたかの様に、ふわり、ふわり。右に左に。そして私に降り積もるその寸前、雪の様に溶けて消え、私はそれの正体をつかめずにいた。


              第十話へ 続く


『安達が原の鬼婆』について

諸説色々有ります。ここにおいては、彼女が昔見た絵をもとに空想しているシーンとなります。

また、その絵はこちら(コピーペースとしてリンクしてください)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/YoshitoshiAdachi.jpg

になります。『 安達が原の鬼婆』の絵としては非常にポピュラーかと思います。

残忍な絵になりますので、ご覧になるときはご注意ください。


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