第八話 対価
その日、夫の隣でうつむきながら口の端を持ち上げた彼女。まだぺしゃんこなお腹にそっと守るかの如く添えられた両の手。可愛い、新婚の奥さんの様なシルエット。でも、分かっちゃいないわね。
「くすっ」
堪え切れずに漏らした声に、潜む柳眉が
「桜子さん!」
たしなめた。
「あら、ご免なさいね。でも良いじゃないですか、最後ですし。笑ってお別れさせてくださいな。それに私、今日を限りにこの家とは縁が切れるんですから、もうあなた様の嫁ではございませんのよ」
だから、
“こちらの方を可愛がって頂戴”
と。
何しろ夫だった人は知らない人はいないと言う一流大学出のお坊ちゃんだから。一族郎党その大学で、子供が産まれたらすぐに幼児舎に入れられる様に手はずが整えられている事を、私は嫁いだときから聞かされて続けて来た。
『亡くなった私の夫は、現塾長の勢家さんの同窓だった事ですし。ご遠慮申し上げても、色々とご便宜頂く事になるでしょうから、今から大変だわ』
お母様はほんの風邪でもその大学系列の病院じゃなければ受診できないと駄々をこねるほどのプライドを持っていらっしゃる。
『だってそうしないと、先生の面子を潰す事になるでしょう?』
と。
だから、ね、出来損ないなんかじゃ駄目なのよ。完璧じゃなきゃ。産まれて来る命が、
『五体満足であれば、もう何も要らない』
なんて、この家に限ってないから。だから目を凝らして良くごらんなさい、あなたの周りを。鉄の格子が見えるでしょう? そう、あなたは私の代わりに牢獄に入ってくれるの。
私が差し出した彼から受け取った宝石の数々を、子供の様に上目使いに見つめる彼女。健康そうなまるまるとしたほっぺは、不倫だとか略奪愛とはまるで縁が無い様で。ただ、無邪気。
でもね、彼女は一生、姦通の緋色を背負うの。ほら、目の前にあるルビーみたいな色をね。
映画の
“ スカーレットレター ”
みたいで素敵。まるで
“本物のロマンス”
ね。
義母はテーブルに差し出されたそれを満足げに見ていた。まるで、こうだ。
『これは我が家の嫁の財産。こんなに素晴らしい宝石を受け継ぐ事が出来る新しい嫁は、なんて幸せなんでしょう』
勿論、前の持ち主は義母。彼女は嫁を持ち上げながら、実は自分を讃えてる。だからこそ、そんなもの、要らない。
「これで全部でしたかしら?」
問う私、頷く夫。でもね、一番肝心なものを忘れているわよ、あなた。
「これも、でしたわね」
薬指から外したそれを、私の指より一回り太い彼女の掌に握らせた。唖然とした表情を浮かべた彼女に
『アリガトネ』
感謝するわ。
メールでしか会話を交わさなくなった友人がたしなめる。
“ 慰謝料、沢山貰わないと! 裏切られたんだから!”
でもね、いいの。
「婚姻生活が破綻した後の性関係は、不貞じゃ有りませんから。不法行為にならないって、野々村弁護士先生がお怒りでしたわ。慰謝料なんか必要ないって」
ごもっとも。手を叩いて拍手してやりたかったわ。お母様、万歳。天晴よ。私達の関係は最初から
“裏切る”
なんて言えるほどの繋がっていなかったって事よね。
ねぇ、あなたは私が受けた仕打ちを垣間見てどう思う? 私は目の前の少女に向かって心の奥で問いかける。
『あなたが勝ち取った地位がいつまでも安泰だと思う?』
名家の嫁と言われ一族揃って諸手を上げて迎えられ、結局子供を孕まなければ用済みとばかり、下げられる。
きっとあなたには自分の十年後なんて怖くなんか無いんでしょうね。ええ、そうよ。私もそうだったからよく分るわ。こんな日が来るなんて、露程も思った事は無かったから。
そんな私をみんなは
『可哀相』
と言う。でもね、感謝しているから。あなたに。だから全てを受け取って。返品なんて、嫌ですからね。
200 万という数字を貰い、家を出た。それが私の
“10年間”
だった。もう、十分だ。
それ以来、実家に戻って生活をしていた。保健、年金、税金、食費に光熱費。普通の暮らしには意外とお金がかかる。全てを父にまかせる訳にはいかず、私も働かなければいけないのは当然の事だった。お茶やお花の免状は持って入るものの、今のご時世、それで飯が食えるほど甘くない。ましてや私は一度も働いた事のない、社会を知らない女だった。
それでも拾う神様はいる。着物を着る事を条件に、知り合いのつてで見つけた料亭の仲居のパートは時給がすばらしく良く、正社員とまではいかなくても、女一人が細々とでは有るが食って行ける収入を得る事が出来た。そしてこの日は週末。一年近くを過ごし慣れたとは言うものの、金曜の夜は目が回るほど忙しく、体は崩れそうになりながら、張り付いた笑顔を通し仕事を終えた。なにしろ、お金を稼ぐってこういう事だって、産まれて初めて実感していたから。私の夫だった男も、きっとこんな思いを隠しながら私達を食わせてくれていたのだと、今更だけど気がついて。
「悪い事、していたのかも」
私と彼との関係にばかり気をとられ、労る事の無かったあの頃の暮らしを反省したりもした。その気持ちを引きずりながら、料亭を後にする客に向かって頭を下げた。そして馴染みの客が帰りしな、靴べらを手にしながら振り返り、
「ああ、そうだ」
私の手に折り畳んだ紙幣を握らせて。描かれていた樋口一葉が
『自立せよ』
と言いながら私にしかめっ面を見せた。
「ありがとうございます。こんなに沢山」
それでも私は嬉しさを隠す事無く礼を言った。
頂いたチップに機嫌を良くし、帰り道、閉店間際のスーパーで叩き売りの平目のお造りを買った。それはお義母様が大嫌いだったお魚。
「こんなに美味しいのにね」
私はほくそ笑み、家までの数百メートルの道のりを歩く。誰の顔色を見るでも無く、好きなものが選べるその喜びを味わいながら。
何とはなしに嬉しい気分で門を越え、玄関に抜ける途中、
「誰!」
庭先で揺らいだ影が有った。さすがにこの夜は素面。いいかげん歳がいっているとしても23時の闇に息づく気配は怖く、ポケットの中に隠していた手に力がこもり、叫ぶ為の心の準備をした。
「遅かったな」
不意に現れた少し赤いその顔は、日本酒の匂いを漂わせながらふてくされた様にそう言うと、私の手から荷物を取り上げた。
「……何しに来たの?」
男は問いに答えてくれず。背を向け、庭に入り込んだかと思うと、見覚えのない酒の瓶を持って私の目の前に戻り、それを玄関に向けて軽く振った。どうやら一人で瓶ごと酒を飲んでいたらしい。早く家の鍵を開けろ、と言わんばかりの態度。そのくせ彼がすると傲慢だと思わないから不思議だった。
「気をつけろ、こんな時間まで出歩いていて。何考えてるんだ。そこまでして働く必要が有るのか?」
彼はまるで保護者でもあるかの様に苦い声で叱った。
「そりゃもう」
10年以上前のことを言っている、そう思った。口調とは裏腹に彼は心配してくれているのだ。
「ありがとう」
思わず微笑んだ。
「でも、大丈夫。もう子供じゃないから。防犯ベルは2つ持ってるし、携帯にもGPS 付けて」
ポケットの中から開いた携帯を取り出し彼に見せ
「電話帳、一番最初は警察の番号。2回のプッシュでつながる設定よ」
私は肩をすくめた。
「いつでも覚悟しているの」
“女である事の負の財産”
は、今に始まった事じゃ無い。
目の前にちらつかせた画面を初期画面に戻し、気がついたらほっとため息をついていた。無事に家に帰って来た。多分もう安心しても良いのだから。鍵を取り出し玄関を開けた私に
「苦労したな」
察しの良い彼が呟いた。
「そんなでもないよ」
私はアレ以来男に気を許せない。だから夫にも気を許せなかった。でも結局それは良い結果になった訳で。情が移り、捨てないでくれと泣き叫ぶ事だけは免れた。今じゃ面影も思い浮かばないほど。だから、全てが悪い訳じゃない。
物事には対価が有る。失っても得る事が。それよりも……。
“今”
を私は感じている。
彼が再び私に会いに来た。この目の前にある現実。背中越しに感じる春を呼び込む強い力。あの夜以来花冷えが続き、桜の蕾は停滞していた。それが、今晩ほころぶ兆しを予感した。そう、私の中で。
第九話へ 続く