第七話 白昼夢
私の実家は無駄に広かった。しかも廊下は板張りで、掃除機だけじゃ綺麗にならない。だから硬く絞った雑巾で磨く様に拭いてゆく。面倒臭くないと言えば嘘になる。その上何年かぶりに味わう鈍い痛みは、しゃがみ込む度に私の体を軋ませた。でも古い家というものは磨けば磨く程味が出て愛着が沸くものだから、結局は頑張ってしまい。最後に残った仏間の掃除が終わった頃には、心地よい疲労感と共に軽く汗ばんでいた。その香りは昨夜の情交を私に思い出させてくれ……。息を吸い込む。僅かに残る彼の肌の香りとサンダルウッド(白檀)。それに咽せた。
これは、いけない。捕らえられてしまいそうな想いに引きずられながら、何とか体を動かし洗い物をすませるものの、流しの横に鎮座している彼の使った湯呑み茶碗についつい目が行ってしまい。添えられた太い指と、含む様に啜る口元が蘇る。
激しかった。獲物に襲いかかるライオンさながら指先が両の襟にかかり、わらわらと開けられる胸。噛み付く様な愛撫に導かれ、あげた悲鳴は彼の喉の中へと堕ち込んでいく。
あの映像を思い出し、どうしようも無い欲情に囚われてしまった私は、まだ日が高いというの
「一回だけ、ね」
誰もいない独りの家だと分かっていながら、周りの気配を気にしつつ、こっそりと自室の布団の中へと潜り込んだ。一人で
“する”
事にやるせない気持ちも有ったが、今更抵抗は無い。今までだってずっと自分で自分の体を満足させて来た。しかし昔と今では想いが違う。今日の私は、満たされない要求を自分の指で晴らすというよりも、彼に呼び覚まされたオンナの本能を鎮めたいという、贅沢な望みが有った。
昨夜、彼の手は私の足首に触れた後、下から上へと這い上がり、器用に着物の股を割った、ぱっかりと。紅い下履きの中、二本の足は僅かに震えていて。指。指が這う。女の躯のしなやかさを知るその腕が、強い力で私の肉に食い込み、求め。
「桜子」
私の名を呼ぶその唇が、花びらの先端を転がし舐めたかと思うと、内側の柔らかさではさみ込み、引き千切る。悲鳴を噛みしめた。激痛だった。未知の世界が恐怖だなんて、初めて身を以て知った。でももう、引き返せない。
充血、していた。全ての血液が体の底に集まり、神経という神経が一点に。拳を作り唇に当て、うめきを堪える私。でもふと気づく、違うのだと。私が欲しているのは
“耐える”
事じゃ無い。
“狂気を、解き放つ”
だから彼の頭をつかんだ。もっと、奥!! 奥へ、奥へ!! 欲しい、欲しい、欲しい。でも、欲しいものは弱くか細い葦なんかじゃない。杭が欲しい。私を打ち付け、現世に躯も心も留め置いてくれる、そんな食い込むような熱情が。
重圧。体を押しつぶす様な重圧を。これは夢なんかじゃないから、もっと、ずっしリと。息もできず、むしろ、止め。ジェットコースターに乗っているかの如、吹き飛ばされそうな風圧に縛り付けられ、逆らう事の死を予感しながら、吹き飛ぶ瞬間を待つ。柔らかな私の全身に力が入り、私は彼を締め上げ、縋り付き、叫ぶ。
『生きたい!』
感じた瞬間、目の前に光が走った。体は絶叫し、壊れてしまうとうねりねじ曲がり、彼から逃げ出そうとした。すると唸り声の厚い手が私の骨盤にかかり、
“逃げるな”
と強く命じ。痺れ、反り返りながら空気を求め喘ぐ私に被い被さり、見せしめの様に責め立てる。
だから弾けそうな意識の下で自分に言い聞かせた。
『もっと貪欲な、いっそ鬼になれ』
と。オンナを楽しみ、快楽を我が身に染み込ませ、生きる事を貪れ、と。
未開発の私。今まで
“オトコ”
では一度もイッた事が無く。どうやれば濡れるのか、乾いた心じゃ分からなかった。でも私は瞬時に別の生き物に産まれ代わったのだ、そう、オンナに。水を得て、潤い、私は進化したのだ。だから、逃げながらも喰いらい付く。
躯で覚える。感じるという事を。これはきっと、産むという事にも似た恍惚感。痛く、苦しいともがくその先にある、天国。多分、死ぬという事もこういう事なのだ。
その瞬間の彼の瞳は、まぎれも無く私を見つめていて。私達は全く別の人間でありながら、確かに、一つになっていた。だから瞼の裏に彼の姿を映し
「真ちゃん!」
その名前を叫んだ。私は体に残っていた昨夜の情炎を迸らせ、爆発しーーー果てた。じんじんと痺れ、もう動く気力は無かった。昨夜の寝不足の睡魔がここに来て私を襲い、暖かな日差しが子守唄を歌う。それから後は、独り緩やかな罪悪感に包まれながら、鬱々と夢の中へと彷徨い落ちて行った。
第八話へ つづく