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第六話 狂い咲き





 私は狂っている。それぐらい、知ってる。それよりもこのまま、このまま狂わせて欲しい。ふとした瞬間にまた現実に戻ってしまう、そんな自分が苦しい。

『父さんも心配しないで。それより早く良くなって退院してよ。大丈夫、こうして私が戻って来たんだから、家の心配はしないで』

『佐伯の伯母さま。お気落ちなさらないでくださいね。私もこうして近くに住んでおります。何かございましたら、飛んで参ります』

『ええ、そうなんです。ご縁が無くて昨年実家に戻って参りました。もしどなたか良い方がいらっしゃったらご紹介ください。いえ、ほんの冗談ですよ』

気丈さなんて、嫌い。分別も、結局生きていくのに邪魔なだけ。きっと私は狂っているほうがいいのだ。

 そして今の私は、狂っている。

 不妊外来なんか大嫌いだった。内診台も、中途半端にしきるカーテンも、足下の隙間から見えるナースシューズも、冷たいクスコー(内診器具)もエコーも。あの匂い、清涼感を売り物にする合成化合物。薄っぺらいピンクの壁紙がアメリカのファストフードみたいなコメディを思い出させてくれ。その日

『確か今日は排卵日でしたよね』

義母からふられる朝一番の会話。羞恥心を忘れてしまっていた私達。

『ええ、そうなんです』

微笑みを絶やさず答え、ああ、今日も抱かれなくてはいけないのかって思った。彼は出がけに義母から念を押される。

『今日は早く帰って来る日ですからね。桜子さんを待たせてはいけませんよ』

知っている。待たされていると思っているのは、あなただ。

 夫の夜はまるでブリキのおもちゃのよう。時間はのろのろと過ぎた。

 だからといって人工授精の方がまだましだったとも思えない。そこまでしてあの人の子を産みたいと思わなかったから。義母がその話を持ち出した時夫が示した猛反発に、私は嫁いでから初めて彼を男らしいと思い、たったそれだけの事なのに畏怖させ覚えたものだった。

 いつしか、子を宿す、その事を恐ろしいと思う様になっていた。肌の匂いが嫌いだった。彼の匂いが、男の匂いが大嫌いだった。赤ちゃんと言う未知の生物は、私の中で形を変え、日増しにエイリアンの様な存在にすり替わって行った。

 でも、今の私は違うのだ。どうせ孕まないと知りつつも、この男の子ならばと本能が告げている。彼は他の誰とも違う。今この場で、私をオンナにしてくれる。そして彼も同じだという事を、肌で感じていた。

 今の私は

“人間”

以前に

“動物”

だった。

 この時初めて結びついた。生きる事は、狂気だ。抗えられない強い力に攫われ、本能の声を聞き。ヒトの道を忘れる。

 観音開きの扉を薄く開け、振り向き様、磨かれた板の間に彼を引き込んだ。力なんて要らない。彼のシャツの裾を少し引き出し、掴んで揺らすだけ。

「こっちよ」

全てがひんやりとしていた。

 先に腰を下ろし彼を迎える。でもその前に

「ここは寒いわ」

もう一度一升瓶を持ち上げた。うっすらと端の欠けた茶碗に清酒を注ぎ終わった次の瞬間、

「あっ……」

酒瓶は男の手に渡り、まるで徳利でも扱うかの様に軽々と口を付けられていた。喉が鳴り、彼の眼差しの先には私がいる。

 とっとっと動くのど仏をうっとりと見ていた。彼が飲み終わり、左手の甲でぐいっ、口元を拭う、それが合図。私は自分の手の中のそれを一息で飲み干した。

 熱が私を支配する。これは生まれて初めて感じる

“熱”

だ。

「来て」

私は歓喜を八掛け(裾の裏布)の隙間から覗かせた。高窓から真っ直ぐ差し込む月の光が二人を照らす。

 着物の着付けはお紐が多い。そのぶん複雑で、着崩す事は簡単でも知らない人には上手に脱がせる事は難しい。そこが、良い。私は若いが取り柄の小娘じゃない。こんな時でも全裸になって年増の崩れかけた体のラインを曝すのは嫌だった。そして何よりも、躯に食い込む腰紐がもたらす緊張感が、まるで命綱の様に最後の理性を留め置いてくれる、そう感じていた。

 私は本当の自分を隠しながら、みっしりとした彼を受け入れた。高い天井のぽっかりと開けた空間が私たちを見下ろし、手の届きそうな月の影が笑っていた。

 明け方、納屋の隅に捨て置かれた古い茶箱から引きずり出した布団に温々と包まりながら目を覚ました。一番最初に感じたのは、暖かさ。顔に当たる冷えた空気とは対照的な、湿りを帯びた潮風の様な空気。ざらざらと硬い無精髭が私のおでこを擦り、胸を覆っている腕を重くて辛いと思った。でもそれはもう少し味わってみたいと思える痛みだった。

 子供の頃の私にとって、彼はとても大きなお兄ちゃんだった。その距離はなまじ年が近い分、大人よりも大きく感じたもので。それが今、こうして男と女の関係を結んだなんて、小学生の頃の私には思いもつかない事だったろう。

 目を覚ましたのち、男は避妊を忘れていた事に慌てた。

「申し訳ない」

彼はきっと

『酔っていたから』

そう言い訳しそうになりながら、何度も押しとどめたに違いない。むしろ私にはそれで良かったというのに。だから笑い飛ばしてやった。

「どうして? 子供が出来たら、私はあなたと結婚してあげないといけないの?」

女性が妊娠したら、男性は責任を

“取ってあげて”

結婚をする。当然と言えば当然なのだろう。でもね、でもそんなの、傲慢だわ。私は、私。私は抱かれたのではなく、抱いたのだから。

 彼は不思議そうに肩を落とし、着こなれたジャケットを羽織った。私の肌には初七日の抹香の香が残っていた。


               第七話へ続く


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