第五話 呼び水
目が合った気がした。真っ黒い瞳、それは鬼の赤い目とは違う。彼がここに来たのは偶然ではなく、来たいと彼が思ったから来たはずで。それなのに今更何を考えているのか、彼はぼんやりとした表情で私を見つめ立ち尽くしていた。その姿はまるでオズの魔法使いに出て来る心の無いブリキの木こりさながら、木偶の坊だった。だから、
「こちらへ」
私から手招きをした。その手の甲が、戻りしなに一升瓶を倒し、
「あっ!」
とっく、とっく、とっく。水よりも濃度の高い純水が大地にこぼれ滲みていく。
「酔っぱらいめ」
彼の声は不必要に現実的。大股が駆け寄り、遅れて慌てる私よりも早くそれは元に戻されてしまい
「飲みたい夜ってのが有るの」
先んじて、言い訳を言っていた。あきれられると思った。昔の夜鷹(一番格下と言われた娼婦)でもあるまいし、ござの上で独り茶碗酒なんて。でも返って来たのは
「分かるよ」
というため息と、私なんか映っていない乾いた瞳。その彼は
「お父さん、大変だったね」
義理堅くもそう言った。
「あなたこそ」
大変だったわね。少し伸び過ぎた前髪が一房、はらりとその額に振りかかり
「一緒して、良いか?」
聞かれて頷いた。独りは、寂しい。そしてきっと彼も、寂しいのだ。
彼は勝手に家の中に入り込むと、ほどなくして戻って来た。そして
『注げ』
とでも言うかのように目の前に湯呑み茶碗を差し出した。掌に乗るのは、見慣れたはずの器。でも父が手にしている時よりも華奢に見え。父が小さくなったのか、それとも彼が大きすぎるのか。酔った頭に幻覚を見せようとしているようだった。
私は座りながら少し上品に一升瓶の口を右手で持ち、脇で抱えながら注ごうとするけど不安定。結局右足の膝を立て、瓶の中央を支える。
ああ、でも気をつけないと。着ている着物は絹だから。洗い張り(注1)は値が張るもの。染みが黴を呼び、絹が腐る。腐った絹は絹じゃない。だから、慎重に。
ゆるゆると立涌の文様(注2)でそれが流れ出し、のっちりとしたリズムが私の太ももに刻まれる。とその時、彼の盗み見る様な視線を足下に感じ、思わずそっと右の足先を前に差し出してしまっていた。腰巻きは紅絹だから、膝を立てる事で現れた扇情的な赤い色が彼の目を捕らえたに違いない、そう思いながら、足袋の隙間から覗く白い足首が月夜に照らされそこにある黒子が彼の心を捕らえてくれます様に、と体が動いていた。
彼の眼に映る私が少しでも魅力的なオンナで有りたい、そう心が欲したのだと気がついた瞬間、ぞわり。何かが私の中で蠢いた。
視線を感じる。物欲しげな雄の視線。産毛がそれを捕らえ、逆立つ。春の宵、空気は何かを孕んでいて、鼻孔を男の体臭が満たした。これは、夢じゃない。彼と目が合い、お互い息を止めた。酒は流れ出し、男のジャケットの袖を濡らす。彼が鬼なのか。私が鬼なのか。
「ご免、ね」
伏せ目がちに酒を置き、濡らした彼の手をそっと撫で、拭き取ったはずの酒を舌の先で舐めた。意に反して動きを止めてしまった彼。私は上手に誘えなかったのだろうか? もしや、大それた事をしただけでお終いなのかもしれない。不安が心を過ったものの、その思いはすぐに消えた。彼の体が、
“男の反応”
を見せていたから。だから首元をくゆらしながら、着物の合わせがほんの少しずれる様に膝を崩し、私は自分の茶碗を取り上げ誘う様に唇に酒を含んだ。彼は何も言わず杯を干し、緩慢な仕草で
「酔えない」
と言ってはもう一度、盃を重ねた。甘すぎるはずのその味を、彼は苦そうに飲み干す。風の噂で聞いていた。彼が離婚した事。それから再婚の予定が流れた事を。私と同じ。全部流れて何も残っていない。だからこれは、傷を舐め合い、慰め合う、そんな行為なのかもしれないけれど。
「ねぇ」
私は
“考える”
という事を未来へ先送りし、しなだれかかる様な仕草で彼の首に両の手を巻き付けた。持ち上げた腕の所為でお袖が肘の下へと滑りゆき、
『お着物を着ていて腕を見せるんて、なんてはしたない!』
そう叱責する義母の声が聞こえるようだった。でもね、とってもうっとりとした気分になるの。絹が肌の上を滑り、見せてはいけない所を見せるって、ね。それからね、してはいけないって言われた事をするのは、とっても魅力的じゃない?
私は自然に浮かび上がる笑いを止める事無く腕に力を込め、顔を引き寄せ、男の少し厚めの唇を上唇と下唇で挟んだ。柔らかな内側が擦れ合い、私は蛭の様に吸い付く。彼は嫌とも好いと反応しないけど、私は楽しんでいる。夫、いや、夫だった男の肌以外私は知らないから、人というものが同じ唇でありながらこんなにも違うものかと戸惑い、それがこの年になって初めて分かった事に奇妙な高揚感を覚えた。まるで進化を楽しむ原始生物になった気分だ。
彼は目を開けながら私の瞳を覗いている。だから私は瞼を閉じる。見たくなんか無い、ただ、溺れたい。歯の隙間からほんの少し舌先を差し出し、上唇のふくらみを舐めた。少し荒れ気味の唇は私の唾液でぬるりと潤い
「なぜ、笑う」
彼が問う。
「嬉しいからよ」
自分がオンナだって分かるの。感じるの。腹の底が充血してね、男を迎える準備をしている、それが分かるから嬉しいの。あれほどつまらないと毛嫌いしていたその行為を、喜んで迎え入れようとしている今の自分が嬉しいの。この年になってやっと、私の中でオンナの本能が目覚め始めた、そう思えるの。今の私は、生きている。
酒臭い甘ったるい息が二人の間で渦巻いていた。でもきっとそれは私が吐き出している欲望の香り。生暖かいくせに芯には寒い春の風が行き過ぎる。救われる為には今一度、熱を。このままで本当の春が来る前に、私は凍え死んでしまう。だからそっと立ち上がり、丁度昨日掃除を済ましたばかりの
「納屋に」
そう誘い手を引いた。彼はその手をするりと放したが、それはささやかな足掻きだと私には分かっていた。だから私は先に行く。彼を置き去りに。
懐には一升瓶。こんな寒い夜を乗り切る為に、春を呼び込む嵐を起こす為。私は本当のオンナになってみたかった。
第六話に続く
注 1 洗い張り
着物特有の洗濯方法。仕立てている糸を全て解いてから洗い、もう一度縫い直す。
注 2 立涌文様
波の様な線が縦方向で規則正しく並んでいる、日本古来の文様の一種。
参考サイト http://www.ikiya.jp/crest/warituke/tatewaku.html