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第四話 鬼

 今年の花見はどうせ独り。正確に言うと今までだって同じようなものだったと思う。

 私は柔らかな土の上にござを広げ、庭の三部咲きの桜を見上げた。それは憎らしいほど枝振りが良く。

 今宵、つい先日のみぞれがちな空が嘘の様。気味の悪いぐらい冴えた三日月に照らされた雲が瑞兆(ずいちょう:めでたい事が有る前兆)みたいに流れていく。明日には気温が上がるというから、花はもっとほころび見頃に近づく事だろう。

 私は桜が嫌い。巷じゃその香りが大流行の様だけど、本当はそんなの、有って無い。多分こんな香りだろうって言うイメージだけが先走り。優しそうだとか、瑞々(みずみす)しいそうだとか、可憐そうだとか。みんな勝手な事ばかり言っている。

 桜、桜。花のくせに香りもせず、ましてや実の生らない花なんて。まるで紙に書いた

“セックス”

って文字みたいにみたいに無味乾燥で空々しく

“現実”

はそこには無い。だから私は右手をそっと胸元へと差し込み、肌に吸い付くみっしりと重い、水とも脂とも肉ともつかない半球体を掌で実感した。そう、信じられるのは

“実体”

揉めば跳ね返り、つまめば疼く感覚を運んでくれる、これこそが現実だ。 

 この夜、私は着物を着ていた。若い頃から着慣れているせいかなぜか落ち着く。窮屈だ、そう言う人も多いけど、私はそこが好きなのだ。

 私は着付ける時、大切な人への贈り物を包む様に細心の注意を払いながら装う。一枚一枚を重ね、一糸の乱れも無く定石を踏み、お作法と言う縛りの中に自分を置きながら。そして出来上がった完璧であるはずの姿は、ほんの少しの手心を加えた瞬間、全てが皮を剥ぐ様に綻ぶ一面を持ち。その裏表のある艶かしさが好きだった。

 どうせ、独り。誰にも見られやしない。そう思っていた私は、着崩れる事をなかば楽しみに、つけるはずの補正具を使わず、肌に直接襦袢を羽織っていた。だからほら、左手を衣紋(首の後ろ)に差し入れ、開ける(はだける)様にその手を滑らせ乳下に向かって引き降ろすだけで、あれ程整えていたはずの様相がいとも容易く弛んでしまう。正面が割れ、乳を露にする事すら簡単だ。ほら、こんな風に。昔から赤子に乳を含ませるときはこうして来たのだから。

 子供を産んでいない私の乳首は、そう、花びらの色だ。磁器の様な乳白色に淡い染め付け。綺麗だと、女の私でさえそう思う。不意に思い立ち、不細工に張り出した若い枝に手をかけた。簡単に手折れると思い枝を引くと、みしみしと鈍い音で皮が剥がれ、いかにも未練がましく本体から離れるから。私はその女の様な執念深さから素早く目を反らし、私の花びらとそれを比べてみる。

「でしょう?」

私の方が薄くて可愛いピンク色。まるで、処女だ。昔から桜は処女のシンボルだから。私の方が良い、私の方が良い。その時不意に風が吹いた。強風だ。そして私の蕾は見る見るうちに硬く引き締まり、まるで枝についたまま歳を取るぶどうの粒の様に干涸びて。……みっともない。

 その刹那、何かが私の手を取った。多分、鬼だ。それは私の手を持ち上げ、ヒュン! 鋭い音をたて枝を振り下ろした。張り付くような痛みが乳房に走り、頂点にはもっと醜い皺がよる。

「興ざめだわ」

私の唇を借りて誰かが呟く。耳に届いた嘲笑に、思わずもう一度、今度は自分の手で枝を振り下ろした。それからもう一度。ピシッ、ピシッ、と枝がはぜ、心臓の上にミミズ腫れが残る。でも良いの。それを見とがめる人なんて誰もいやしないから。桜、桜。実を結ばない花。何をやっても虚しくて、握りしめていた枝を放った。惨めだった。

 仕方が無い。私は着付けた時からそうであったかの様に衣紋を深く抜き、前を繕い、何事も無きを装った。

 している帯は博多独鈷(仏具文様の博多織)。堅く織られた絹帯は良く締まる。身に添う様に躯に巻き付ける時に響く、シュルシュルという音も良い。多分ほとんどのオンナが分からない、蛇の這うような絹鳴りの音が私は大好きだ。これを身につける時、私は蛇の鱗を身に纏う。その帯は弛むという事がないから、着物の胸元がいかに乱れようとも腰回りは揺らぎもせず、足を開こうにも上手くいかず、時として煩わしい。だから私は股割またわりをする。着上がった後、着物の上から太腿辺りに手を押し割る様にねじ込み、そこから少ししゃがみこむのだ。今晩も庭先に出る前にいつもの様にその動作を繰り返していた。まるで自分の

“女の中央”

に向かって拳を着き入れるかの様に。

 25を過ぎるまで酒はほとんど飲めなかった。そして今は、一升瓶を側に置く。盃は縁が欠けた古い湯呑みに紙やすりをかけ磨いたもので、つまみは天豆。それから一盛りの塩を舐める。花の盛りは目の前。でも、来たと思ったらすぐに散るんだ。女と一緒だね、そう笑いながら杯を煽る。

 どこかの書物で見た事が有る。

『吉野の山に鬼が住む』

『春の宵、狂気の桜に鬼が練り歩く』

と。かの地は遠いけれど、鬼どもはここまで足を伸ばしてくれないだろうか。それならば、一番上等な高杯に盛り込みをし、お待ち申し上げるものを。我を喰らえと言わんばかりに。

 なんて寂しい。独りが寂しい。肌も心も全てが冬枯れの中。独酌も慣れた。誰も一緒に飲んでなんかくれやしない。手の中の酒の器が一番人肌に近いなんて。

 鬼でもいから、慰めて……。ああそう、むしろ、人ではない方が良いのかもしれない。紅い血潮と無縁であっても構わない。鋭い牙とその爪が、私の皮膚を皮一枚で剥いでくれ、喉の奥から泣き叫んだその時にこそやっと、私は自分が人間だって思うんだ、きっと。


“桜”

なんて、なんて縁起の悪い花。散るを暗喩あんゆするその名前。綺麗、かね? 散るその姿を。風に散らされ舞い上がり、やがて路面を汚すだけの過ぎていく花びらに手を振りながら

『また、来年も』

なんてね。本当にその来年が有るかどうかなんて、誰にも分かりゃしないのに。

 いっそ、何事も無きが如、道を踏み外せれば良かったんだ。先など考えず、無責任に、自堕落に。無駄に

“叶う”

事を願わずに。

 私はまだ半分は残っている酒瓶を持ち上げ酒を注ぐ。ゆらり、水面の三日月が私を笑うから、素早くそれを飲み干し、過去を飲み込む。そして再び注いだそこには、変わらぬ風景が映っていた。

 風が流れ、雲が行き過ぎる様子を眺めていた。ぼんやりと、自分の一生って長い様で短いなって思ってた。その時、生け垣の向こうに影が揺れた。黒いシルエット、少し大柄な男の姿。

「鬼かしら?」

ふふふ、と思わず笑い声が漏れた。酒に酔っての幻覚だと思いながら

『やっと鬼が迎えに来てくれた』

と喜んだ。でもそれは現実で。

「風邪を引かないか」

そう言ったのは見覚えの有る男。疲れた様な生温い風が私たちの間を横切った。


      五話へ続く

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