第十七話 延縄(はえなわ)
その週末。金曜の夜11時。酒を飲みたくても飲む気にもなれず。ひとりテレビを見ていた。
ぼんやりと。この次彼に会ったらなんて言おう、そんな事を考えて。
『何しにきたの?』
『お終いって、言ったじゃない。』
それとも
『会いたかった。』
?
彼に側にいて欲しい。本当は、好き。でも、出来ないから。
私たちはある意味適齢期で、親族が近い。その分期待が怖かった。
もうこれ以上、裏切れない。
チャイムが鳴り、玄関を開ける。
「よぅ。」
と。少し伸びた髭。差し出される紙袋。
予感は有った。
そして結局、やって来た彼の顔を見たら何も言えなくて。
「飯、食ったよな?」
そう問われ、頷く以外に出来なかった。
紙袋の中には、蒲鉾。
「明日の朝、わさび醤油で。」
それは、目で分かる。細められ、物欲しげに。でもこの夜だけはしたくなかった。だからにじり寄る彼に
「嫌。」
を告げた。この奇妙な体調を知られたくなかった。
「俺に飽きた?」
パジャマに手をかけようとする指を払い
「あなたはそればかりね。」
振り切る。
「したくない気分ってのが有るの。今は、駄目。」
露骨に表情が曇り
「分かったよ。」
諦め顔が背を向けた。
彼が風呂へと立ち上がり、洗い物をすませた私は先に二階へと上がった。
彼はどうするのだろう。結局私の布団ぐらいしか寝る所は無いのだから。もしかしたら勝手に奥の間の押し入れをかき回すかもしれない。それとも、帰る?
彼に任せる、彼次第。そう言いながら、たいした選択肢も与えず。私は投げ出している。きっとそれは
“ 本当はここに居て欲しい。”
それを言葉で言い表す事の出来ない、悪あがき。
冷えた寝具。霊廟みたいに温まらない。
この季節はいつもそう。一度温かくなったかと思うと、過ぎに転落し冬へと逆戻りだ。
予期していても、身にしみた。
その時、
「早いな。」
音も無く。実体が横へと滑り込んだ。それが当たり前かの様にひとつしか無い上掛けを引っ張りながら。つられて転がり。
そこには洗濯の匂いのするシャツと温かい躯。
「なぁ、桜子。父さん落ち着いたら、俺のマンションに来ないか。」
まるで おやすみ とでも言うかの様にそれは聞こえた。
「冗談でしょう?」
丸く見開かれた目が
「お前は今まで冗談で一緒になろうって言われた事が有るのか?」
と返すから
「馬鹿じゃないの。」
吐いていた。
もう、いけない。だから言ってしまった。
「私、石女なのよ。知っているの?」
本当は知らないって、そう思って。知らないでしょう?だからそんな風に言えるのよって。それは牽制の言葉のはずだった。
私を抱いていた腕が弛む。船を留めていたロープが解けるかの様に、あっけなく。
その沈黙にほらって思った。あなただって親の期待に応えなきゃいけないって思うでしょう?それからいつかは自分の子供が欲しいって。だってね、こんな私だって、思うんだもの。
軽蔑を込めて
『ほら、ごらんなさい。』
開いた唇を、彼が遮った。
「知っている。」
フリだと思った。この場を誤摩化す言い逃れだって。でもそれは
「お父さんから聞いているから。」
の一言で覆された。
頬を撫でる彼は笑っていて。
今、彼はなんと言った?父と言った?
頭の中で警鐘が鳴った。何故ここに父が出てくる?父は何を話したの?そしてあなたは?
漠然と、悔しかった。
本当は知られたくない女の秘密を、男同士で勝手に共有しているなんて。惨い。
その上父を引き合いに出し、私を追い詰める気なのかと。
青ざめたのが自分でも分かる。
それを
「だからってお前に価値がない訳じゃないじゃないか。」
そんな言葉が追いかけてきた。
「俺が欲しいのは子供じゃない。桜子だ。」
言葉が詰まり、どうして良いか分からず首を振り。
「お前は子供を産む道具じゃない。分かってる事じゃないか。」
「嘘だわ、そんなの。分からないわ。」
夢を見るのは辛いのよ。
「信じないんだから。」
鬼、鬼、鬼。能の面は女顔が多いから。そして私は、鬼面の般若。嫉妬する女。でも、誰に?誰に嫉妬する?そう、それは、幸せになるはずだった、私の姿。
全て、幸せ、なんて、夢物語。
「お前が気づいていないだけで、みんな喜んでくれている。」
「分からないわよ、そんな事。」
突然、柵の中に追い込まれた事に気がついた。逃げ場が無い。
「大丈夫だよ、桜子。」
再びの抱擁は柔らかかった。
「ゆっくりいこう。今までが急ぎすぎた。」
私は現実が怖い。
二人初めて
“ 服を着て ”
一緒に夜を越えた。パジャマの私と、下着だけの彼。
桜ノ宵ニ つづく
次話が最終話になります。