第十四話 散る花
案の定、桜は散った。一夜で半分に。窓越しに見下ろす庭の地肌には、朝露で散った花びらが層をなし張り付き、入れ墨の様な文様を作っていた。
あれから私は眠れず、その上まだ5時だというのに彼は起きて出して、
「早いな、もう目が覚めているのか」
と何事も無かったかのように笑った。くたびれたシャツをズボンにたくし込みながら。
「ああ、俺はこれから一週間新潟だよ。全く人をこき使う」
そう言う割りに、疲れを見せるでもなく
「家帰る前に何か軽く食べれるものをくれないか。着替えたらすぐ新幹線だしな」
彼は私以上にこの家に馴染んでいた。
「まるで通婚みたいね」
方眉を上げながらちゃかすと
「まぁな」
と答え、にやりと笑いながら
「男の本能ってヤツかな」
無精髭を撫でた。
「無理してまで来る必要無いのに」
二杯目の煎茶を差し出しながら愚痴を吐いた。すると
「そんな事も分からないのか」
呆れ顔が私を見ていた。
“何を”
私は問い返す事をはばかった。
その上、家を出るその間際
「お前は馬鹿だ」
彼はいきなり振り向いたかと思うと、パジャマにガウンの私を抱き寄せ、強く抱いた。そう、私は馬鹿だから……。独りよがりで世間知らずな馬鹿な女だから。身悶える私の耳元に
「どうして俺が前の二人と別れたか、教えてやるよ」
荒い息が吹きかかった。
「頭で考えたからだ。今のお前みたいに」
何を言ってるの? 今更の様に慌てて彼を押しやろうとするけれど、その腕は堅く私を放さない。
「こいつと一緒になれば社会的に安泰だ、とか、多分平凡だけど堅実な家庭を築けるだとか。これはこうで、あれはどうで。分析して、タグつけて、良しって思ったからだ。言葉じゃ言えない気持ちに従ったんじゃなかったからだ」
私はぽかんと口を開けて彼を見上げていた。結婚には条件が付きものだ。どうしてそれが間違っているのか、彼の言っている事が分からなかった。それに私は頭で考えられる程、お利口さんじゃない。ましてや、真ちゃんと一緒になったらどうなるか、なんて、思いもしなかった。
「いや、分かってる」
彼は私の頬を両手で挟み込むと、語調を荒げた。
「お前が俺の名前呼ぶのは、イク時だけだって、気づいているか?」
「あっ!」
その言葉の恥ずかしさに思わず顔を背けそうになるけれど、彼がそれを許してくれず。
「たまには自分の本能、信じろよ」
彼の唇が私に触れ、それからもう一度キツく抱きしめられて……。
「また来る」
と去っていった。
その5日後の事だった。義母は精密検査が終わり無事家に帰ったと連絡をもらい、私はどこかほっと胸を撫で下ろしていた。
あの憎しみが、今の私には無かったから。よどみを抜け、小川のせせらぎに戻れた鮎のような気分とでも言うのだろうか。そして、電話越し
「良かったわね」
“あなた”
そう言いかけて口を閉ざし
『そうなんだ、さくら……』
彼も私の名を呼ぼうとし、互いに口をつぐんだ。おかしかった。ふたり、失笑に似た含み笑いを漏らしていた。
もう、私たちの関係は終わった事なのだ。それを証明できた気がした。
『君も、幸せになって欲しい』
彼が言う。それは多分、本当の気持ち。
「ありがとう」
それも、本当。もしかしたら私たち夫婦は、別れて初めてお互いが分かったのかもしれない。
「あなたも、末永くお幸せに」
この日生まれて初めて、春の風をさわやかだと感じた。桜の散るを、良し、そう眺める事が出来た。庭にはピンクの波が泳ぎ、青葉が空に向かって手を延ばしているようだった。
でもその気持ちは長くは続かなかった。その夜は曇りがちで足下がとても暗く、挙げ句に仕事が長引き残業になり、電車もまばらになっていて、かなり帰りが遅くなった。そして駅を抜けて歩く途中、後ろから照らされるフロントライト、減速、停車のブレーキ音。全身に緊張が走った。
いつもはわざと左の道を歩く。そうすれば運転席から遠いから。いざという時の安心の為に。道を聞かれるのすら、嫌だから。それなのに……。脇のすぐ近くでした窓の下がる機械的な音に鳥肌が立った。ポケットの中で携帯を持つ右手に力が入り、走る、心を用意した。
知っている。逃げる、そう思った瞬間、絶対に迷っちゃいけない。もし誤解だとしても、そのおくれる1秒が、全てを決めるって。知っている。その瞬間、
「桜子!」
怒りに満ちた声が聞こえ、私は恐怖に目を見開き、動くはずだった体を止め彼を見た。
「そんなんだったら、仕事、辞めちまえ」
彼は運転席の中から私の恐怖を見つめていて、挙げ句、私を罵った。
「脅かさないで」
止めようにも、声の震えは止まらずに。
「脅かさないで」
そう再び、気がついたら泣いていて
「仕事、辞めろ」
静かな声を聞きながら、抱きしめられていた。
「せめて夜は、な」
助手席に座らせられ、家の途中、あの公園の脇を抜け、一直線に家へと向かう。彼だけがスムーズだった。
家の鍵すらも言う事をきかず
「古いから」
そう言い訳をし、取り上げられて、ため息をつかれ。
「だったら、取り替える必要が有るんじゃないのか?」
彼の大きな手の中では、鍵すらもおもちゃみたいに見えた。
「疲れているの」
ジャケットを脱ぐ私に
「良いよ」
彼は言う。何が良いのか分からない。
結局風呂場に連れて行かれ、二人で入ろうとする仕草に慌てた。夫、いや、前の男というのが正解だろうか。それとも、ああそうだ、今は元夫って。その、元夫、とも一度も一緒に入った事が無い。
「嫌よ」
そう逃げ出そうとし、
「いつまでたっても、子供だなぁ」
と笑われた。
子供なら、まだ良い。彼に明るい所で肌を見て欲しくなかった。もう、姥桜。酒も入らず、ましてや明かりの下で現実を見て欲しくなくて。
ねぇ、気づいていないわよね。本当の私は、こんなに愚かで子供じみている。本当はね、セックスって、楽しめなくて、今まではお酒の力借りて勇気だしていたのよ。ねぇ、辛いのよ。これからの現実が、怖いの。
手を引かれる。ねぇ、私は……愛されているの? でも、愛って、何? あなたは何も求めないの? 私はあなたに応えられるの? かたちが無い。モノでもない。ましてや、言葉でも無くて。
分からないから、辛くって、戸惑う私に
「良い子だから、落ち着いて。一緒に入るだけだから」
その言葉に従い。
きっと彼は詐欺の才能が有るに違いない。騙され、揺られ、結局生温い湯につかりながら、溶かされた。でもなぜか、当たり前の様に騙される自分が嬉しかった。
ぐったりと座らせられた私の髪を彼が洗う。
「何だか、好いね」
その、好いって事が悪いって、彼は気づかない。
桜ノ宵ニ 十五話につづく