第十三話 面(おもて)
縁側の床が微かに軋む。服を着ているから、下になった背中はさほど擦れず痛くない。それでも彼は体重をかけず、唇の一点で交わった。
「桜は、美味いな」
胸元の響きが体中に染み渡る。
「桜餅に、桜鯛、桜えびに、さくらんぼう」
「食いしん坊」
馬鹿馬鹿しい言葉遊びについ笑いながら応えてしまい、私達はまるで子供のようだと思った。でも次の瞬間
「それに、桜子」
不意に
「桜貝」
私の両足は高く持ち上げられ、その股を割られ、朧な月の光を浴びた。恥ずかしさを隠し
「食べ物じゃ、ないっ」
思わず抗ったものの、彼は、
「いいじゃないか」
笑いながら私の全てを曝し上げ
「桜子はどこもかしこもピンク色だ」
舌なめずりをした。
「ここも、あそこも」
そして指が這う。芋虫の様にじりじりと迫り上がるたくし上げられたスカートのその奥。
「ここなんか」
その小さな音に
「奥まで」
全身が桜色に染まる。血が流れ、火照りーーー絡めた。足、指、躯。ああ、そして最後の一つを。———今私は生きている!
服を脱ぐのももどかしかった。開けられた胸元と、彼のベルトのバックルのカチャカチャとなる音と、荒い吐息。手首のボタンも外せない。擦り合う肌の隙間と、彼のワイシャツの滑らかな感触。私の右足にはストッキングとショーツが引っかかり、大きく広げ、空を仰ぎながら彼の背中に巻き付いて。中身の無いストッキングの片側は、さながら帆船の帆のように彼の後で揺れる。
やがて男の激しい鼓動が私を打ち付け、まるでセックスを覚えたての若者の様な情熱で私達は番った。
今まで観察するに、この男は避妊という事を全く考えていないらしい。事が終わり、ゆっくりと引き抜かれた彼の後、服を汚すのは嫌だからとそろそろ動いてスカートをずらすけど
「あっ!」
結局は無駄な努力で。とろりと溶けた情熱がまるで生き物のように私の体から流れ出し、太腿を這い、床とスカートの際に染みを作った。着ている服が洗濯機で洗える服で良かった。そんな風に苦々しく思う私を、
「まぁ、できたときはできた時だから」
彼の指は私の内腿をそっと撫で、
「もしかしたら、もうできているかもしれないじゃないか。だったら今更避妊しても、な」
見当違いの方向で笑った。
「とりあえず、この次の生理が来たら用意するから」
その一言を嬉しいと思い、同時に悲しく、私はうつむいた。
彼に人指し指と中指を摘まれて、引っ張られるように二階への階段を昇る。滴りそうな下半身を内股にして引き締めながら。
ドアも閉めず、立たされたまま、服脱がされて、
「綺麗だ。」
って言われ。それを本当だと思いたかった。こんなとうのたった女の体を。
窓には桜の花びらが舞い、吹き付ける。まるで吹雪。春嵐だ。鎹も無く、しがみつける訳も無く、ひとひら、ひとひら、雑草を引き抜くかの様に木から離され。
ああ、明日朝には満開が葉桜に変わる。咲き過ぎた。
この人の望みはなに? この関係を? いつまで? でも、それは本当に? 答えが怖い。私の中の鬼がまた、縁に手をかけやって来る。とその時、
「集中しろよ」
唸っているかのような音が鳴り、
「そんなに下手か?」
不意に片手で顎を押さえられ、睨まれた。
「何考えてる」
心地よげに胸を嬲っていたはずの指が食い込み、
「前の男とは比べるな」
痛い、そう口元が歪んだものの、声は出ず。彼が何を言わんとしているのか遅ればせながら気がついた私に、まるですれ違うかのように
「悪かった」
ため息が聞こえた。
「ご免、俺が悪かった」
ごろん。仰向けになり、もう一度、セリフとは裏腹な深いため息が聞こえた。
「敵わんよ」
二人の間に距離が空き、つむじ風が舞う。
あっさり見切られたと思った。いや、飽きられたのか。だから遠くへ蹴たぐられていた布団を引き寄せ、私なりの虚勢を張った。
「帰れば」
と。その方が良い。背を向けた。
集中できなかった訳じゃない。それより、邪心に囚われた。やはり、酒が抜けると夜は冷え込む、そんな女なんだ。
諦めかけたその時、
「嫌だ」
滑る様に入り込んだ腕が私を抱きしめた。
「ここが良い」
彼の火照りは収まっていて、ただ優しく
「追い出すなよ」
と呟いた。
明け方の夢は静かな能楽堂の上だった。老松の茂る闇の中、音の無い世界。どこからともなく灯された蝋燭の炎に、宙に掛けられた能面が照らし出される。白く、赤く、時に蒼く。その一つ一つを私は手に取り顔につけていく。
でも全部違う。私の
“顔”
じゃない。
正直、こんなものを美しいと感じた事は一度もなかった。表情の無いのっぺりとした白い顔、表面だけで薄ら笑いを浮かべる女の顔なんかは得にそう。糸の様に細い目は他人の心の内を見透かす様で寒々しく、中途半端に開いた歯の覗く口元は、言いたい事が有るなら言えよと言いたくなる。
奇天烈を狙った動物の面もそう。般若も然り。歪めた両眉に見開かれた瞳。でもよく見るとその寄せられた眉根は泣いていて……。若い女の狂気。その根源は恋しい男を想って狂うの意。
私には想い焦がれる男なんかいやしなかった。薄情な人間には、鬼になれるほどの情がない。
その時、とくん、と心の底で何かが動いた。無かったわけじゃないと、何かが蠢いたのだ。そう、私の中の、オンナだ。
動揺する私の目の前に、不意にうつむいた般若の面が迫り上がってきた。その肌の色は黒々とし、剥き出しの歯に、ひひの様に粗野な表情。
『鏡だ』
そう思った。これが私の本心なのだ。
人間らしく、恋を問うているんじゃない。もっと醜く、そして原始的。情さえも切り捨てようとする私。
『生きたい』
唯、それだけ。それを人の言葉で発する事のできない、もどかしくも愚かな。私は黒い般若だ。
本当は人になって求められたい。互いに与え合い、温かく。それができずに、鬼面になる。野獣になれば、感情を恥ずかしいだなんて思わずに済むのだから。
目が覚めたのは寒かったから。被っていたはずの布団は彼に取られ
「全く」
そう言いながら私は泪を堪えた。体に回されている彼の腕だけは温かかった。
十四話に 続く