第十一話 深紅の衣
次の日の早朝、二つの大きな段ボール箱が玄関に届いた。中身が分かっている分、開けたくないと思った。封を切ったら最後、見ないわけにはいかず、手入れをしなければいけなくなるから。でも、今日は晴れ。こんな空の青い日に古着物に風を通さない手はない。庭では桜の枝がざわざわと揺れていて、意気地の無い私をあざ笑っているかのようだった。仕方がない、私はカッターを手にとった。陰干したらそのまま今日中に仕舞うのだと心にそう決めて。
広げた着物の枚数はざっと二十着、全て義母の見立てたお品物。居間はみるみるうちに錦の波で埋め尽くされ、色とりどりの刺繍や絞り(着物に模様を入れるために技法)の咲き乱れる様子はまるで花畑の様。その最後、
「何だったのかしら、これ」
箱の一番下から取り出したたとう紙は、実は10年間で一度も見た事がない品物だった。施された四君子(梅・蘭・竹・菊の四つを指す)の透かし文様が
『私は時別』
と主張していて、記憶に残っていない事を不思議だと思った。その表には柏木敬子の名前が朱で消され、
“佐藤桜子様”
と義母の筆で私の旧姓がくっきりと書かれており、間違いなく私宛。昨日それを見た時いぶかしく思ったものの、つまらない押し問答をするのも嫌でそのまま段ボールに詰め込んだのだった。そして多分中身は私が袖を通さずに終わった、最後に仕立てをお願いした江戸小紋だと思いながら紐を解く。しかし
「あっ!」
私は目を射抜いたその色合いに、思わず声を上げていた。中から出て来たのは紅花で染められた真紅の腰巻き。弾ける様に浮かんだ言葉は
“ 女の象徴 ”
ぶ厚い生地には鳳凰の底模様。なんて豪華なんだろう。私が持っている紅絹の腰巻きが、ペーパーナプキンの様に安っぽく霞んだ。まるで吉原の花魁が使っていた、そう言われても驚かないほどのっちりとした、ベルベットの様な肌触り。織りすらも誂えものだと言われても驚かない。有り得ないほどの存在感。
それを内に秘めるかの様に纏う、その映像を。女の肌に乗り、滑り、絡み合う感触を、素肌の温かさと弾力と絹のそれが一致する瞬間を閃光の様に感じた。
「義母様……」
突風が吹き、家の梁が微かに揺れた。庭先の桜の花びらがふわり、窓の隙間から入り込み目の前をよぎる。
亡くなった時、棺に入れたいもの、特別なもの。もしこれが自分のものだったら、私はどんなに豪華な留袖よりも辻が花の振り袖よりも、これを持って旅立ちたい。そう思えるほどの深紅だった。
何故あの人はこれを私に託したのか。こっそりと人目につかない様に。その答えが怖かった。きっとあの人は気づいている。私がその意味に正解する事を。
悶々としながらもその晩は仕事で。閉店間際、私は一人のところを店長に呼び止められた。
「軽く飲みにいかないか」
なじみの客が誘ってくれているという。その向こうでひょいと私に向かって頭を下げる影が有った。ピンクのロレックス、40代前半、手広くお店を経営していると。
“事足りている男”
だと思った。
これだけ男が嫌いでありながら、私はよく
『男好きするね』
なんて愚にもつかない事を言われる。多分今夜もそうなのだろう。お酒は口実、目当ては体。だから暗い店内で横に座る彼の薬指の指輪をそっと指先で撫でながら
「ですけどね、私が欲しいものっておやすくはないから、ね?」
さざめく店の中、目を伏せて、相手を覗き込む様に。こんな私だからなのか、男をいい様に扱おうと思えば扱える様になっていて
「何かな?」
ほら、喰い付いて来た。
「言ってごらんよ」
自信ありげね。耳元に唇を寄せると、目の端で彼の頬が弛んだ。
「・・・・赤ちゃん」
唖然と固まる表情を見ながら、正面まで体を戻した。
「いやぁね、冗談よ」
動揺する間も許さず、微笑みながらそう言ってあげる。馬鹿ね、見え透いているのよ。
「ご免なさいね、驚かせた?」
みんなが笑ってその場を取り繕う。他のホステスさん達もすぐに全てを忘れさせてくれる。でもね、彼と私の間には見えない線が敷かれたの。
いとまを告げる私に送ると言った彼は、一言の断りですぐに身を引いた。
「私がいなくても、楽しく過ごされてね」
夜は長いから。
昨日炊いた筍を摘みながら空をみていた。薄曇り。いっそ泣いてしまえば良いのに。縁側はひんやりしていて、それでも慣れないウイスキーで体は温まっていた。口の中には春の灰汁。眠れなかった。風が吹く度、木の枝がさざめく。ざぁっ……ざぁっ……。ずいぶんとほころんだ花の間、はらはらと、はらはらと。
「あっ……」
もう、散る。まだ、満開じゃないのにね。
「季節が変わった」
星空を見上げながら先日の彼は言っていた。
「オリオン座の位置が変わったから、もう、春だ」
そんな事を言われてもピンと来ない。星なんて、みんな一緒。
「桜子には分からないかな?」
ええ、そうよ。
「分からないわ」
私に分かる事なんか無い。そんな会話を思い出した。でも、確かに、季節は、変わった。
世代が変わる様に。あの義母の女の時代が移ろった様に、私も終わる。
心の中で真っ赤な腰巻きがはためいていた。それはあれほど艶めいていながら、子供のおしめの様に小便臭く、若い頃はさぞ美人だったあの人を、まるで童女の様に思い出させてくれた。
十二話に 続く