第十話 母と子と
寝起きの彼は
「腹が減った」
と笑った。自分の服を着るではなく、押し入れの奥から引き出した丹前を直接素肌に身に纏い。
「飯が食いたい」
と。
「この季節なら、鯛が良い」
悪びれた風も無い姿に、思わず笑いながらも従っていた。多分、相性がいい。夫だった男には悪いけど、やはり彼とでは駄目だったんだ。結局茶漬けを啜りながら、梅干しを齧り、会話をするでもなく二人で過ごした。
連絡が有ったのはその週末あけの早朝。桜は一気にほころび、昨日までさりげなく身の回りに侍っていた男は今晩も来ると言い残し去っていった。だから、
「もしもし」
受話器ごしに聞くその声を忘れかけていた。
「助けて欲しい。君だけが頼りなんだ」
一瞬、
『どなた?』
と言いそうになった。
門の外で私を迎えたその男は
「済まない。でも、来てくれてありがとう」
と頭を深く下げ降ろし、私を丁重に招き入れた。それは私が初めて見る姿。
「母が夜中に急に倒れて、本当にどうして良いか分からなくて。今病状は安定しているけど、でも、こういう時に何をすれば良いのか、妻も僕も皆目見当がつかなくて」
赤く腫れた目が小さく肩をすくめ、家の奥からは赤児の泣き声が近づいてきた。
男の子は可愛らしくむずがり、それから抱いている女は恨めしそうに私を見つめた。それでも
「ありがとう、ございます。わざわざ来てくださって」
そう囁いた。夫も変わり、そして彼女も変わっていて……動揺した。しかし
「いいのよ。どうせ今日は仕事がお休みだったから」
平静を装った。
朝の電話で聞いていた。赤ちゃんには障害があった、と。私と別れた直後、羊水検査の結果が届き。義母は荒れたようだ。電話越しの彼の口調から察した。
「そうなの。大変だったわね」
それ以上、私はなんて切り返せば良かったのだろう。
私しか頼れない、そう懇願する彼が哀れで、罵る言葉は頭に浮かびもしなかった。かといって同情するでもなく。一度は縁があった家だから。助けてやるのは義理だと思った。何となく、
“本物の鬼にはなりたくない”
今の私はそう思ったのだ。
彼女の実家は遠く、助けにはならないという。私の元の夫は、こんな日だというのに会社に行かなければいけならず
「プロジェクトリーダーなんだよ。済まない」
再びに頭を下げた。彼が家を出るタイミングで赤ちゃんが吐き戻してしまい、私達は玄関に二人きり。
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
それは忘れてしまいたいと思っていた習慣。彼は
「ああ、行って来るよ」
昔と変わらない言葉を返し、二人同時にハッと気がついた。それは有り得ないのだと。
「母はあの様に気難しい人だから。君が苦労しているのに守ってあげられなかった僕が悪かったと、今なら思うんだ」
彼は振り向き、唐突にそう言った。
「あの頃の僕には、家族を守る覚悟が無かった。でもこうして、苦境に立たされたやっと分かった気がする」
その苦境の意味が、赤ちゃんのとこだと言う事はすぐに察しがついた。
「君を裏切って捨てて、それなのに困ったときだけ頼るだなんて、調子のいい男だと思うだろう? でも、これしか思いつかなかった。どんなになじられても、家族を守らないといけないんだって。母や加代子が困らない様にしてやるのが男の責任だって、それで……」
言葉に詰まった彼は、必死で私の目を見つめ返し、唇を噛んだ。———もう、分かったわ。
「良いのよ」
家の事は何もできなかった彼。きっと親類縁者の連絡先も義母が管理していて、知らない。そう、何もかも分からないに違いない。きっと新しい奥さんも、子供に手一杯で他の事なんかできなかったはずだから。
緊急入院した義母の下着や日常品をまとめるため、彼女と二人、家に残った。そこでようやっと
「大変だったわね」
と声をかけられた。彼女は一瞬無視するかの様に顎を引き締め、うつむいた。
仕方が無かった。常識で考えれば、彼女が私を追い出したのだから。いたたまれないのは当たり前。それなのに、一番大変な時に私がこうして上がり込み、辛かろう。
「そんなでもないです」
それは背中越しの返事だった。
勝手知ったる何とやら。私は
「邪魔するわね」
と台所に入り込み、シンクの下を開けた。そこには一年前と変わらず古びた瓶が有り。義母が大事にしていた糠床をかき混ぜ胡瓜を取り出した。少し酸味を増しているその香り。
「この糠床、一日一回かき混ぜないと、痛んで嫌な匂いを出し始めるわよ」
だから気をつけて。
「重いだろうから外に出しておくわ。あの人にはあなたから言ってね」
小さく頷く彼女の気配を感じながら、光沢を放つ胡瓜を切る。お米は多分炊いていないだろう思って、来る途中のコンビニでパック入りのご飯を買って来ていた。それをチンして、うさぎ模様の見慣れない茶碗によそった。
「食べないと。あなたが倒れたら、誰も赤ちゃんの面倒を看れる人、いないんでしょう?」
初めて見たときのふっくらした彼女の面影は無く
「頂きます」
そう言って箸を持った彼女の指は私よりも細かった。
産後の肥立ちが悪く、しばらく床に臥せっていたという。その世話で無理がたたり、あの義母が倒れたと。それは私には想像できない姿だった。私は彼女が食べている間、義母の部屋に行き荷物をまとめる。あの人が好きだったシャネルの香水の香りが立ちこめ、入院しているというのが嘘の様。すぐ後ろで障子が開き
『あら、桜子さん。私の部屋で何していらっしゃるの?』
そう声をかけられそうな気がした。
面会に行った彼女は思いのほか元気そうだった。
「あのこの事だけど」
低いけれども思いのほかはっきりと響く声がまず自分の言いたい事を言う。
『来てくれてありがとう』
『迷惑かけたわね』
なんて社交辞令は無い。私が来る事は多分息子から聞いていたらしく驚きもせず、神経質そうな、狐の様な顔も変わらない。でも私はそれを遮った。私はもうあなたの言う事をおとなしく聞くだけの
“嫁”
じゃない。
「お礼は要りませんよ。それに大丈夫ですから」
“あのこ”
が誰だろうと今の私は構わない。目の前で一瞬のたじろぎを見せる老女を私は振り切る。
「ここに来る前、親戚の皆さんやお稽古関係の人達で連絡を差し上げた方が良い人達を新しいお嫁さんに教えておきましたから。それにヘルパーさんが家に来てもらえる様に手配もしておきました。有料ですけど、買い物と掃除、洗濯、毎日来てもらえます。これであなたのお嫁さんも息子さんも困りませんよ」
すると
「ええ、そうでしょうとも。桜子さんだったらそういうお手配は簡単にできると思っていましたよ」
そう言いながら殺した様なため息をつき、
「着替えはベッドの下の引き出しに入れて頂戴。それから洗面道具は床頭台の引き出しにね」
彼女は口を閉じた。そして黙々と片付ける私をじっと見つめていた。
「大体こんな所ですので。私は帰ります」
長居をする場所じゃない。私はさっさとしまい終わると、持って来たハンドバックを手に取った。すると彼女は荷物を入れて来た紙袋を指差しこう言った。
「これは家に持って帰って頂戴」
彼女の言う家は、実家の事だ。少し面倒だと思った。嫁ぎ先には寄らず、まっすぐ家に帰るつもりだったから。それにたかが紙袋。
「退院する時にお使いになるでしょうから、置いておかれた方が良いですよ」
すると彼女は私の言葉を無視し
「桜子さんにあげたお着物だけは家に残っていますから。家に行くついでに持って行って頂戴。邪魔なのよ」
そう横を向いた。桐の箱に収まった古い昔着物の事だとすぐに分かり、反射的に
「いいえ、お母様」
そう呼んでいた。
「私は頂けません。あれは置いていったものですから。お嫁さんの加代子さんに差し上げてください」
むしろ要らない、そう思った。しかし
「今の嫁は古いしきたりを知りませんから。それにあの着物は私が誂えたもの。誰にやろうと私の自由です。何より、着てもらえないんじゃ、お着物が可哀相でしょう? だったらあなたが着なさい」
彼女は言い放ち、ナースコールを手にした。
「次の検査がもうすぐ有るから、手水に行かせて頂きます」
帰れ、と。
『ありがとう』
は最後まで無かった。
とぼとぼと歩き実家の呼び鈴を鳴らすと、彼女がまるで待っていたかの様に出迎えた。腕の中には片時も離さずあの子がいて
「そろいの帯揚げも、と電話が有りました。箱ごと持っていって欲しいって。必ず持って帰ってもらう様にと言われたんですけど、何の事か分かりますか?」
あやしながらも困った風情で私を見た。着物に合わせた小物の事だった。義母はお着物一つ一つにこだわりが有り、この着物にはこの帯とこの小物を、と厳しく決めていたものだ。面白みが無く、融通が利かない。私は密かに呆れていたものだ。
「ええ、分かります」
押し入れの収納ケース。
「それも持って帰る様にという事ですね」
彼女は頷き、私は心の中でため息をついた。
その古びた絹は老けていた。多分戦後の復興期に誂えた品物なのだろう。私が去った後も丁寧に手入れをされていたらしく、櫃を開けると目に染むような樟脳の香りが漂った。あの頃、受け取ったのは義理だった。家がらみの行事の度、機嫌をとるつもりで着たものだった。ここを離れた今にして思う。これはきっと彼女の青春だったのだ。これを着た私に、彼女は若い日を思い出していたのだ。
不思議な気分だった。古い紅型。江戸の下町でよく作られた伝統の染め。今では版も職人もいなく、望んでも手に入らない。それからお召し、黄八丈。(全て着物の種類)良家のお嬢様らしく、しつらえはたっぷりと。お袖も長く、裄(袖の長さ)もゆったり。襦袢もお揃い、帯もずらり。薔薇に童子におしどり。みんな軽やかに笑っていた。こうやって手にしてみるとよく分る。この艶、重み、そして技術。その当時は最高の贅沢品だったのだ。そしてきっと義母にとっては今もなお。
荷物をまとめ、発送の伝票を書き玄関に置く。帰り支度を終え、暇を告げる間際、私は彼女の存在に耐えきれずこう聞いていた。
「ねぇ、怖くなかった?」
突然の質問に彼女は動じなかった。それどころか、何を問われたのかすぐに分かり
「私達の子だから」
そう答えた。その子はとてもいい子で
「だぁ」
と笑いながら抱っこする母親の胸をつかんだ。
“ おっぱい ”
そう言っているみたいに。
「分かっても、産もうって、みんなで決めたんです」
その表情には決意のようなものが見えた気がした。その時どこかで携帯が鳴り、彼女は素早くそれに出る。
「うん、大丈夫」
口の端がレシーバーに向かって微かに笑った。
「落ち着いてるから。孝ちゃんもいい子にしているよ。それでね」
ちらり。視線をこちらに向けた。
「桜子さんがヘルパーさんの手配、してくれたから。これから契約に来てくれるんだって。早速今日からお願いできるよ。だから身の回りの事は大丈夫、安心して」
夫からだと分かった。いや。元夫というのが正確だ。
「お母さんの所寄ってから帰るの? うん、いいから、謝らなくても平気。でも夕ご飯は買って来てもらえる? 無理しなくて良いよ。“春の行楽弁当”? フェァしてるんだぁ。ちょっと楽しみ」
電話の向こうには、私の知らない男の姿が覗き見え、失礼と分かっていて
「あなたも、無理、しないでね」
聞こえたかどうかは分からない。それだけを言って家を出た。
タクシーに揺られ長い道を。私は引き返す。並木の両脇の桜はほころび始め五部咲き。一番良い季節。まるで雲の上を滑っているようだった。
彼が男じゃなかったんじゃない。私が彼じゃぁ女になれなかったのと同様、あの人も私じゃ男になれなかったのだ。
もしかしたら私は負け組なのか。互いに育つ未来を描けず、完璧にでき上がった既製の男を求め過ぎたのか。厚みのある真ちゃんの背中を思い出しながら、不思議な感触に落ちていった。
どこかで微かに桜の香りがした。
桜ノ宵ニ 十一話に続く