5-7.アリトラの得意分野
一階にある大時計を見上げながら、アリトラは二階からの喧騒を聞いていた。
リコリーの氷は一定時間が経たないと溶けない物で、展示室にいた六人以外の人間は、ガラスの器を潰さないように慎重に床を探っている。
アリトラは部外者なのでそれに関わることはしなかったが、少し面白そうだなどと不謹慎なことを考えていた。
「お疲れ様」
リコリーが珈琲の入ったマグカップを持ってきた。
「ありがとう。リコリーは一緒に探さなくていいの?」
「僕は軍の方に問い合わせをするように頼まれたんだ。帰るのはもう少し遅くなりそう」
大仰な溜息をつくリコリーにアリトラは愉快そうに笑う。まだ熱い珈琲を冷ますために、手で持ったまま息を吹きかけると湯気が宙に広がった。
「あ、もう帰ってもいいって言ってたよ。それ飲んだら帰りなよ。寒かったでしょ?」
「………そうだね。用事が済んだら帰る」
「用事?」
「リコリーに聞きたいことがある」
アリトラは赤い瞳を細め、そして静かに言葉を紡いだ。
「アタシの名前、言ってみて」
「………は?」
「可愛い妹の名前を言ってみてよ、おにーちゃん?」
リコリーの顔が次第に蒼ざめていく。中途半端に薄暗い空間でも、はっきりとそれはわかった。
「ねぇ、どうしたの?」
「………」
「言えない?言えないよね。アタシが此処に来てから、リコリーは名前呼ばなかったから、貴方にはわからなかったよ……ね!」
マグカップの中身を相手にかけると、明らかにリコリーではない悲鳴と共に相手が後ずさった。顔を火傷したのか、両手で覆った指の隙間から、青い瞳が睨み返す。
「なんで………」
「あのね、十二回じゃおかしいの。簡単な算数のお勉強だよ?」
「…………階段の魔法陣か」
「確かに左右に一人ずついる状態で右の部屋からスタートして、同じ状態に戻るには四回必要だよ。でもその場合、次の行動は右の部屋の人が左の部屋に向かわなきゃいけない。
でもあんたさっき、左の部屋の人が右に向かおうとしてたって言った。その場合、十回目か十四回目である必要がある」
往復を示すために指を左右に揺らしながら、アリトラは饒舌に続ける。リコリーと同じ顔をした誰かは、黙ってそれを聞いていた。
「ということは二往復分、余計な移動が発生している。さてこの二回とはなんでしょう?答えは簡単。リコリーが自分で試した分。なぜなら急に魔法陣を作り直す羽目になっちゃったから。ちゃんと動くかどうか自分で確認した。
じゃあなんで、アタシに説明する時にその十二回から二回引かなかったのか?それはあんたがリコリーじゃないから。確認したのを知らなかったから」
マグカップを持ったままの右手で、器用に人差し指を相手に向ける。珈琲の香ばしい匂いがまだあたりに残っていた。
「入れ替わったのは、暗闇になった時。変な話だよね。アタシの目の前には大きな大きな魔法陣が発光物質で描いてあったのに真っ暗だったんだよ。恐らく暗幕のようなものを用意して完全な暗闇にした隙に、リコリーと入れ替わった。ご丁寧に精霊瓶まで奪って。
自分の精霊瓶は何処かに隠し持っていたのかな?氷の蔦をあの範囲に広げられるほど高度な魔法が使えるなんて、貴方も結構優秀な魔法使いなんだね」
アリトラの視線が、未だ相手が持っているリコリーの精霊瓶に注がれる。
急に使役者から引きはがされた精霊は、まだ興奮気味に暴れまわっていた。
中に入った魔力は半分ほど減っていたが、氷の蔦を館内に張り巡らせたにしては減少量が少ない。恐らく魔法陣を使った分のみだと推測出来る。
「そして堂々と中に入って、皆が見ている前で杯を手に入れ、あたかも暗闇の中で盗まれたかのように騒ぎ立てた」
「そこまでして手に入れたものを、床に叩きつけたといいたいのか?」
「あれはあんたを油断させるためのフェイク。あそこで「此処に怪盗がいまーす」とかやってもよかったけど、蔦を取ってもらわないとどうしようもなかった。だから、一芝居打ってみた。本物はどうせ、アタシが言ったのと同じ手で隠したんでしょう?」
「そう。最初に刑務部の魔法使いの身体検査をする時に服に紛れ込ませておき、後で自分の身体検査をしてもらう時に取り返した」
リコリーの顔をした男は楽しそうに笑う。だがそれはアリトラが知る柔らかい笑みではなく、歪んだものだった。
元々人相がよくないリコリーの顔に、悔しいほど似合っている。
「賢い娘だね。しかし、今此処にいるのは俺とお前だけだ。怖くはないのか」
「怖い?」
「俺は無益な殺生はしないが、捕まらないためなら多少のことは止むを得ないと思っている。こんな風に」
男は顔から手を離すと、隠し持っていた小型拳銃を取り出して構えた。
脅しでも威嚇でもなく、即座に引き金を引こうとした刹那、アリトラの右足がその手を蹴り上げる。
少女に放たれるはずだった銃弾は大時計を撃ち抜いた。
何処か悲し気な音を立てて、時計の針が床に落ちる。アリトラはその短針を掴みあげると、レイピアの構えを取った。
「アタシも無意味な暴力は嫌いだけど、か弱い乙女に物騒なものを向ける者には容赦しないと決めている」
ローヒールの踵を高らかに響かせて踏み込んだアリトラは、鋭い一撃で男の右手を突き上げる。
剣ではないただの鉄の棒は、無論握り手もなければ重心も違う。しかしその剣筋は一切揺れることなく、男の手から拳銃を引き離した。
男は二度目の驚愕を顔に浮かべる。
「はぁっ!」
鋭い息吹。アリトラは男の間合いに入ると短針の先を顎に突き付けた。男は喉仏を上下に動かして、唾液を飲み込む。
「………なんなんだ、お前」
「アタシ?カフェの店員だって言ったでしょ。軍人に化けてた怪盗さん」
愛嬌のある営業スマイルを見せた一瞬後、アリトラの左足が男の鳩尾にのめり込んだ。大理石の床を滑るように倒れた男は、忌々し気に舌打ちする。
「カフェの店員がそんなに動けるか」
「剣はお菓子作りの次に得意なの。それよりもアタシの片割れ返して。返してくれたら何も言わない」
「へぇ、見逃すと?」
「だって油断してるからふっ飛ばせたけど、真っ当に勝負したら、アタシの負けな気がするし。大体、泥棒になんか興味もない。リコリーの顔して色々やったことのほうがムカつく」
「変わった娘だな。……お前の兄は、あのソファーの下だ。怪我はさせていない」
「ならいい。さっさと帰ったら」
「言われなくてもそうするさ」
男はリコリーの精霊瓶を床に置く。
アリトラは一瞬それに気を取られたが、再び顔を上げた時には怪盗の姿は何処にもなかった。