6-6.サロンの余韻
サロンの長椅子に腰を下ろしたシトラムは、ブランデーの入った紅茶を気付け薬代わりに飲んでいた。倒れる演技をしたら、若い添乗員が淹れてくれたものだった。気遣いが出来る女性は嫌いではない。少なくとも、我儘な老人よりは何十倍も良い。
カルロス・ベルセは有能な経営者であったし、人望もあった。それはシトラムも素直に認める。自分を含めた三人の甥に対しても、極めて平等な扱いをした。それぞれに販売部門の一分野を任せて、その経営手腕を何年にも渡ってその手腕を見極めていた。
シトラム達はそれぞれ期待に応えようとした。だからこそ、伯父の言葉には我慢がならなかった。
「……しかしそれも終わりだ」
煩わしいことは全て終わった。
特別列車は他の一般列車と同じ路線を使用しているため、途中で停止することが出来ない。終着駅まで走ると車掌は申し訳なさそうに言ってきたが、シトラムには好都合だった。こんな渓谷の途中で停止されたら、動き出すまでの間、さめざめと泣いていなければいけなくなる。演技で流せる涙は一分が限界だった。
状況としては絶望的ではあるが、まだ伯父は死亡したとは見做されない。行方不明者として処理される。伯父の捜索が行われ、打ち切られるまでの数日間で、すべきことを済ませ、シトラムは安定した生活を手に入れることが出来る。
こみ上げる笑いを抑えようと背を丸めた時、誰かがサロンに入ってきた。
シトラムが顔を上げると、先ほど伯父の「事故」に居合わせた若い男女の姿があった。その姿を確認しながら、シトラムはゆっくりと記憶を呼び起こす。
あの二人は末娘の子供だとギルが言っていた。つまり制御機関管理部のシノ・セルバドスの子供ということになる。シトラムは話したことはないが、聡明な才女であり、制御機関の主要人物として挙げられる。繋がりを持っておいて損はなさそうだった。風貌からして外国の血が混じっているようだが、それは大したことではない。シトラムは純血主義者であるが、それよりも利益を重んじることに躊躇いはなかった。
「ベルセさん」
黒髪の少年の方が声を掛けた。シトラムは力ない笑みを浮かべて、それに応じる。
「やぁ。先ほどは災難でしたね」
「ご身内が大変な目に合われて、お察しします。無事に見つかることをお祈りしています」
シトラムはその返事に満足をする。自分は災難に見舞われた哀れな男だと、周囲に思ってもらう必要があった。
ソファーから立ち上がり、温くなって酒の匂いが増した紅茶を一口飲む。それから、ゆっくりとした足取りでサロンの中央にあるテーブルへと移動した。
「私もそう願っていますよ。伯父は強運の持ち主だ。案外、線路にしがみついて助かっているかもしれませんからね。どうですか、君たちも」
「お邪魔じゃないですか?」
青い髪の少女が尋ねる。黒いドレスはシンプルなデザインで、背が高くて平坦な体つきを上手くカバーしている。シトラムはそれだけ確認してから、愛想の良い笑みを返した。
「一人で鬱々しているのは性に合わないんですよ。話し相手がいたほうが気が紛れる」
「ではお言葉に甘えて。リコリー、何飲む?」
「紅茶かな」
「じゃあアタシ、ハーブティーにしよっと」
少女はテーブルに並んだカップを二つ取り、手際よく準備を始めた。シトラムはその傍らで立ち尽くしている少年の方に声を掛ける。
「まだ名前を聞いていなかった気がしますが、よろしければ」
「あ、すみません。僕はリコリーで、こっちが妹のアリトラです。といっても双子なので年齢は一緒ですけど」
「双子とは珍しい。仲がいいのもそのためですか?」
「そんなに仲は良いとは思いませんけど、まぁ小さい頃から一緒に行動するのが癖になっていて」
苦笑しながら答えるリコリーに、アリトラが紅茶を差し出した。
「ありがとう」
「流石、いい茶葉が揃えてある。何杯か飲んだほうが得かも」
「ケーキ入らなくなっちゃうよ」
穏やかに会話をしている双子を見ながら、シトラムは少し警戒をしていた。妹のアリトラに比べると、兄のリコリーは随分とおっとりした大人しい性格をしているようだった。
だが、先ほど項垂れていたシトラムの横で、伯父の転落を疑義していた言葉は覚えている。「本当かな」と、リコリーはバルコニーの向こう側に視線を向けながら考え込んでいた。何かに気付いた可能性は否定出来ない。
「……ここからだと、バルコニーが見えないね」
リコリーが紅茶のカップを手にしたまま呟く。部屋の中央にあるテーブルと、その上に並んだ珈琲サイフォンやお湯を沸かすための装置などが邪魔をして、バルコニーの全貌は見えない。
もしそこに車椅子に座った誰かがいたとしても、まず気付けない。シトラムはそれをわかったうえで仕掛けていたが、突然リコリーがそんなことを言うので、少し動揺した。
「目撃者のご婦人は、淹れたばかりの珈琲を持っていた。部屋に入ってからこのテーブルで珈琲を淹れて……、開いている扉に気付いて目を向けた。その時、ベルセ老人が落下した……」
「悲鳴とかは聞こえなかったよね?」
ハーブティーを淹れながらアリトラが疑問を重ねる。熱湯により解れた茶葉から溢れるのは、スノーミントの香りだった。フィンの北部でしか採取出来ないハーブで、美容効果があると若い女性には人気がある。
「聞こえなかったね。落ちそうになったら悲鳴の一つぐらい上げると思うんだけど」
「伯父はもう年でしたからね」
シトラムは慌てて口を挟んだ。理由はわからないが、どうやらこの二人は事故に対して疑問を抱いているようだった。シトラムとしてはこの二人を即刻追い出したい気分だったが、此処に留まるように言ったのは自分であるし、それに「伯父は事故だ」と言い張るのも不自然である。
従って、不自然でない程度に二人の疑惑を反らす必要があった。
「咄嗟の時に大声を出すことが出来なかったんですよ。体力がね、落ちていましたから」
「でもご婦人は違う。あれだけ声が出せる人です。目の前で落ちかけている人を見たら、何かしら口にするんじゃないでしょうか。「危ないわよ」とか「気を付けて」とか」
「もう既に伯父が手すりから落ちるところだったかもしれませんよ。それまで気付かなかったのかも」
「……手すりは結構高さがありますよね。僕の胸元ぐらいだから、一二〇センチかな。ベルセ老人は背が高いんですか?」
シトラムは考え込むふりをして、思考を巡らせる。下手な受け答えをして、伯父の事故のトリックを悟らせるわけにはいかない。リコリーという少年は想像以上に頭が回るように思えた。
「私と同じぐらい、ですね。とはいえ年を取って腰が曲がっているので、実際には君と変わらないかもしれませんよ」
「そうですか。……あっ」
リコリーがふと声を上げて、進行方向右側の窓に小走りに近づく。窓の向こうには山々が並んでいたが、その狭間に白い石作りの城が見えた。曇り空を背景としているおかげで、その白さが際立っていた。
「ヴィンス寺院の旧山門だ。綺麗だなぁ」
「綺麗かなぁ?」
感動しているリコリーとは真逆に、冷めた様子でアリトラが呟く。
「リコリーの趣味ってよくわかんない」
「趣味じゃなくて教養って言ってよ。王国史中期の業火戦争を語る上でなくてはならない遺跡なんだから。特に山門の鐘は今でも現役でね、一日に一度それは素晴らしい音を奏でるんだ」
リコリーは書物で読んだ知識を口にしながら、食い入るように目を凝らす。
「山門の下に太いロープがあって、それを引っ張ると上にある鐘が揺れて鳴るんだって。何度も左右に揺れながら音を鳴らす様子を見て、かの女流詩人クライス・アルシェは『大いなる祝砲』を書いたと言われてる」
「ふーん。そういえば、ベルセ老人は何のために身を乗り出したのかな? リコリーみたいに、何か見たいものが外にあったとか?」
「小さな遺跡群や、有名な山もあるから、ありえない話じゃないよ」
「でもバルコニーからわざわざ見なきゃいけないの? 折角、全部ガラス張りなのに」
アリトラは考え込みながら言葉を続けた。
「どうしてもバルコニーに出なきゃいけない理由があったのかな?」
それは裏を返せば、理由がなければ不自然だということになる。だがシトラムはその手の疑問は予め想定していた。突発的な行動から生じた事態ではあるが、何も策を練らずにいるほど愚かではない。
「外の空気を吸いたかったんですよ、きっと。乗客が外に出れるのは此処だけですからね」
「あぁ、なるほどね。前にも乗っていたなら、知っていて当然だし」
「えぇ、伯父は閉塞的な空間を好まないので、前に乗車した時は大変このサロンを気に入っていましたよ」
「確かにこのサロンは魅力的。お二人の客室からは近いんですか?」
「えぇ。車椅子でも使えるのは八号車だけですからね」
そう答えてから、シトラムはあることに気が付いて口を閉ざす。
アリトラはその様子に気付く素振りはなく、しかし純粋な疑問を顔に浮かべて問い返した。
「じゃあどうしてこっちを先に調べなかったんですか? 食堂車より近いでしょ?」
「……いや、最初に見た時には、伯父がいなかったんですよ」
少々苦しい言い訳ではあった。アリトラという少女はどちらかと言えば直感型のようだった。リコリーとはタイプは違うが、その分言動に注意が必要に思える。
「どこかですれ違ったのかもしれませんね」
「……そうですか」
シトラムの今の返答は、明らかに不審を抱かせてしまったようだった。
だが、アリトラはそれ以上は何も言わずに、視線を他へと移す。その先にはバルコニーから回収された車椅子があった。
「高そうな車椅子。特注品ですか?」
「えぇ、前の車椅子は五年も使い込んでいたのでね。中央区の有名な家具職人に頼んで作ってもらったもので、今日受け取ったばかりなんですよ」
背もたれは柔らかな革張り。肘掛けには磨きこまれた木と、綿をたっぷりと詰め込んだクッション。車輪のホイールは豪奢な細工があしらわれている。伯父のために作った車椅子は、小さな中古住宅が買えるぐらいの値段がかかった。だがもうそれも無意味である。
列車がカーブに差し掛かり、車椅子のホイールが回った。そのままサロンを横断するように流れた車椅子は、窓の外を見るのに夢中だったリコリーに激突する。避けるどころか全く気付かなかったリコリーは、腰に強打をくらって悲鳴を上げた。
「痛い……」
「もう、鈍いんだから」
アリトラは仕方なさそうに言いながら、まだ転がろうとする車椅子を掴んだ。
「シトラムさん、この車椅子のストッパーってどこですか?」
「え?」
「ストッパー。止めておかないと危ないと思う」
「あ……、いや。それは私の部屋に持って帰りましょう。此処にあっても邪魔なだけですからね」
これ以上、この双子と話すのは得策ではない。そう判断したシトラムは車椅子を口実にその場を離れることにした。アリトラの手から車椅子を受け取り、柔らかいグリップを握りしめて絨毯の上を転がす。
二人が背後で何かを話している気配がしたが、それを気にしては負けだと言わんばかりに、シトラムはサロンの外へと出て行った。