6-2.ギル・セルバドス
「シトラム・ベルセ殿がいたな」
特別列車『リンカード』の食堂車で紅茶を飲みながら、黒髪の老人は呟いた。所々白いものが混じってい入るが、全体的に若々しい。口から顎にかけて薄い傷がついていて、そのせいで唇が少し曲がっていた。かつて軍に属していた頃、前線部隊で負った傷の一つであるが、その事を自ら語ることは少ない
「お知り合い?」
向かいに座ったアリトラは首を傾げて尋ねる。
老人はそれを聞くと眉を寄せた。青い瞳には窓の外の景色が映っている。
「知り合いというほどでもないが、まぁ良く社交界で見かける。ベルセ書房を知らないのか?」
「本屋さんでしょ? でもあまり行かない。リコリーならわかると思うけど」
「リコリーはまだ回復しないのか」
「うーん、もうそろそろ? 三半規管弱いのに、谷底なんか見てるから酔っちゃうんだって言ったのに」
「アリトラは平気なのか」
「全然大丈夫。それにケーキを前にして酔ってる暇なんかない」
老人はアリトラが先ほどから手放さないメニュー表に目を向けた。
「何を食べるか決めたか」
「それがね、アタシが食べたいケーキは紅茶とセットに出来ない。でも紅茶も飲みたい。別々に頼んでもいいでしょ、お祖父様?」
老人はおねだりをする孫娘を見て、思わず緩みかけた頬を慌てて引き締めた。
中央区第二地区に居を構えるセルバドス家の当主であり、双子の祖父でもあるギル・セルバドスは、素直に感情を顔に出すことを良しとしない傾向があった。
末娘が産んだ双子の孫は年齢相応以上に打算的で強かであることを知りながら、ついつい甘やかしてしまう。そんな己をよくないと思いつつも、止められないのがギルの欠点だった。
自分に厳しく人には甘い。そんな男にとっては、双子が揃って「お祖父様」と呼んでくれるのが至福のひと時でもある。婿養子である得体の知れない商人について思うところがないわけでもないが、双子が真っ当に育っている以上、文句を付けるわけにもいかない。
「好きにするといい。出費のうちにもならん」
「ありがとう、お祖父様」
アリトラが嬉しそうに言った時、食堂車の扉が開いた。いつもより顔色が悪く、目つきも二割増しで悪いリコリーが、ゆっくりとした足取りで進んでくる。不機嫌なわけではなく、単純に具合が悪いのを抑え込んでいるためだった。
「もう起きて平気なの?」
「……動いていたほうが楽なんだよね。それにお腹空いたし」
「えー、食べて大丈夫?」
リコリーはアリトラの横に座りながら首を振ることで肯定した。
「谷底見てたらクラクラっとしただけだよ」
「あまり無理はするんじゃないぞ。お前は誰に似たんだか貧弱なんだから」
ギルがそう言うと、リコリーは眉を寄せた。
「貧弱は言いすぎです、お祖父様。アリトラだって誰に似たのか頑丈すぎます」
「アタシは父ちゃんに似たんだもん。どれ食べる?」
アリトラは自分が見ていたメニューを片割れに差し出した。
「どれも美味しそう。甘くないのもあった」
「アリトラは何にするの?」
「ヴァイオレット・ドリーム。スミレの砂糖漬けを使ったケーキなんだって」
「うわ……甘そう……。僕、レモンのタルトがいいなぁ。さっぱりしたのがいい」
二人がケーキと紅茶を決めると、ギルは食堂車の中にいたウエイトレスを呼び止めて注文をした。落ち着いた色合いの、少し古風なデザインの制服を着たウエイトレスは、笑顔で注文を受けてから、隣接する厨房車両へと消える。
「列車の中の厨房ってどうなってるのかな」
アリトラが興味津々で首を伸ばし、扉が閉じる寸前の厨房車の中を見ようとする。だがギルはそれを嗜めるように手を軽く叩いた。
「やめなさい、行儀の悪い」
「ごめんなさい、お祖父様。でも気になるんだもの」
謝罪しながらアリトラは席に座りなおす。普段は着ない、シルク生地のスカートと中のペチコートが擦れあって音を立てた。
「特別列車なんて乗るの初めてだし」
「小さい頃に一度、ホースルがお前たちを乗せたはずだぞ」
「そんな小さい時の話覚えてない」
「……僕覚えてるよ」
頬を膨らませるアリトラの隣で、リコリーが口を開く。
先ほどまで客室で横になっていたため、シャツには少し皺が寄っている。それを隠すように羽織ったジャケットは艶の良い毛織だった。
「三歳か四歳だったと思う。二人でパンケーキを半分こして食べた」
「本当?」
「うん。それしか覚えてないけどね。今回みたいな豪華列車じゃなかったと思うけど」
「こんな列車乗れるの、最初で最後かもしれないもんね。ちゃんと満喫しなきゃ」
政府高官であるギルが、東区で開かれる合同議会に出るのに長距離列車を申し込んだところ、鉄道会社の手違いで勝手にキャンセルされてしまっていた。その詫びとして同じ日に発車する特別列車のチケットを渡された。
一人で乗るのも勿体ないので、双子に一緒に来るように告げたのが数日前のことである。最初は乗り気でなかった二人だが、特別列車のパンフレットを見るとすぐに意見を翻した。
「ドレスコード付きの列車なんて素敵。上流階級って感じがするよね」
「東区に入る直前で、有名な寺院が見れるんですよね。徒歩では行けない場所だから、是非肉眼で見たかったんです」
「それに一流ホテルの食事も味わえるって書いてあったし」
ねぇ、と双子は嬉しそうに顔を見合わせる。ギルはそれを見て少しだけ表情を緩めた。
「はしゃぎすぎないようにな」
「はい、お祖父様」
「気を付けます」
その時、食堂車に一人の中年の男性が入ってきた。
黒いスーツを着て、胸ポケットにレースのハンカチを入れている。茶色い髪と口髭は丹念に手入れされていて、灰色の瞳には落ち着きがある。
男はギルを見ると、大股で近づいてきてテーブルの前で立ち止まった。
「セルバドス殿。こんなところでお会い出来るとは思いませんでした」
「先ほど見かけたのだが、挨拶が出来ず申し訳ない」
「なんと。これは気付きませんでした。無作法をお許しください」
男は双子にも視線を向ける。二人が丁寧に挨拶をすると、ギルが紹介をした。
「末娘の子だ。この列車のチケットが偶然手に入ったから同乗させた」
「お孫さんですか。以前にご次男の息子さんとはお会いしたことがありますが、もっと若い方もいらしたんですね。シトラム・ベルセです。どうぞ、よろしく」
シトラムは簡潔に自己紹介した後、もう一度ギルの方を向いた。
「ところで、伯父を見かけてないでしょうか」
「同乗しているのかね」
「えぇ。伯父は何しろ列車に乗るのが趣味ですからね。でも一人で乗らせるわけにもいかないでしょう。それで俺や兄弟達が同伴することが多いのですが、目を離すとすぐにいなくなってしまって」
「申し訳ないが、見ていないな。見かけたら、甥御殿が探していたと伝えよう」
「ありがとうございます」
食堂車の中に他の客がいないのを見ると、シトラムは踵を返して出て行った。ギルはその背中が廊下へ消えたのを確認してから、独り言のように呟く。
「一人か」
その言葉を怪訝に思ったリコリーが顔を上げた。
「どういう意味ですか? 今の人、ベルセ書房の関係者の方ですよね?」
「会長の三人の甥のうちの一人だ。長男だったか三男だったか忘れたが、年子だから大した差はないな。最近、会長が引退を表明したとかで、誰が後継者になるか話題になっている」
「どうして? 本屋さんの後継者が誰になるかって、そんなに話題になるの?」
素直な感想を口にしたアリトラに、リコリーは呆れた目を向ける。
「ベルセ書房はただの本屋じゃないよ。店内のカフェ経営から始まって、今じゃ各地域の病院や主要施設にもカフェを開いているぐらいだ。アリトラだって知ってるはずだよ。「レンクスの森」っていうスタンディングカフェ」
「え、あれってベルセ書房が経営してるの?」
それは駅前にもある小さなカフェで、椅子はなくテーブルだけが置かれたスタンディング形式の店だった。そこでは珈琲の種類からミルクの量、砂糖の色まで事細かに指定することが出来る。「貴方だけの一杯を」がキャッチフレーズで、アリトラがよく読んでいるファッション誌には、そのカスタマイズについてしばしば特集が組まれるほどだった。
「スタンディングカフェも、ベルセ書房が最初に始めたんだ。それだけでどれほど大きな会社かわかるでしょ?」
「それだけ大きな会社なのに、後継者が決まってないの?」
「まぁそれだけ大きいから、色々あるんじゃない? 父ちゃんみたいな自営業とは訳が違うよ」
厨房の扉が開き、ウエイトレスが出てくる。先ほど注文を取った者よりも年上だった。
「お客様」
ウエイトレスは申し訳なさそうにギルに声をかける。
「大変申し訳ございません。こちらの不手際で用意していたケーキをご提供出来なくなりました」
「何かあったのかね」
「機材の故障です。急いで新しいものを準備しておりますが、一時間ほどかかるかと」
「故障は仕方ない。形ある物、壊れることは当たり前だ。一時間後なら提供出来るのかね」
「はい」
「ならば、一度紅茶の提供も中止してもらえるか。後でケーキと一緒に持ってきて欲しい。……二人ともそれでいいな?」
双子は揃って頷いた。元より二人は多少食事の提供が遅いぐらいでは苛立ちもしないし、大抵のことには寛容だった。
それよりも思わぬ空き時間が生じたのに気付いたアリトラは、顔を輝かせて祖父を見る。
「お祖父様、だったら列車の中を見学してきてもいい?」
「好きにしなさい。但し、他の人に迷惑をかけるんじゃないぞ」
ギルはそう言った後、思い出したように続けた。
「車椅子の老人がいたら、ベルセ殿かもしれないから声を掛けるように。甥御さんが探していたと教えて差し上げるんだぞ」