3-8.謎の血痕
「遺体の靴裏には血がついているにも関わらず、足跡は残っていなかった。仰向けに倒れて胸の部分から血が大量に流れていたから周囲は血まみれだったけど、そこにも目立って妙な箇所はなかった」
でも、とミソギは書類をめくりながら続ける。そこには現場の様子がペンで描かれていた。血痕があった箇所は赤、人は黒、その他の物は青のペンが使用されている。
人の形をした枠の中、丁度腰に当たる部分に赤い円が描かれていた。
「現場の状態の図解だ。腰のあたりに血痕が残っていたと書かれている」
その図だけ束から抜き取ったミソギがテーブルの中央に載せると、アリトラが首を伸ばしてそれを覗き込む。
「傷は胸だけ。靴の裏に血がついてたってことは、刺された直後に出来た血痕?」
「そのようだね。さっき説明した通り、遺体は動かされている。犯人が何かを隠すために遺体を動かした……と考えるのは普通だけど、この図を見ておかしなところに気付いたかな?」
「おかしいところ?」
首を傾げたアリトラとは対照的に、ロゼッタが手を叩く。やはりどこかお淑やかな仕草が目立つのは、その出生によると思われた。
「擦過痕跡がない、ということでしょうか? アルコの説明ですと、遺体は死んで間もないころに動かされた可能性が高い。足元にあった筈の血痕が腰の下に位置しているということは最初に倒れた位置から下へ移動させたということですわ。となると服などに引きずった際の血の掠れなどがあるはずです。恐らくそのような痕跡がないので、おかしいと仰っているのでは」
「その通り。此処を読んでご覧」
ミソギは図に添えられた文章の一部を指でなぞった。その指の動きに合わせるようにアルコが読み上げていく。声に動揺はなく、軍人らしい落ち着きがあった。
「血痕Aは乾燥しており、被害者の衣服への付着は認められず。……被害者の胸部から出た血痕Bは乾燥しており、衣服への付着と地面の付着面の矛盾は認められない」
「どーいうこった?」
リッタが疑問符を投げると、今度はアリトラがそれに答えた。
「要するに、胸から出た血は乾燥するまで遺体が動かなかったことを示しているのに、どういうわけか腰の下にある血は乾燥してから遺体が動いたことを示してるってこと。単純に考えたらあり得ない」
「ってこたぁ、魔法か」
魔法使いが国の八割以上を占める国において、その結論に至ることは決しておかしくはない。しかしその場にいた全員が、それに否定はしないものの、率先して同意を示すことはなかった。
「何のために?」
呟いたのはメーラルだった。
「理由が見出せません。そんなことをする必要が犯人にあったのでしょうか」
「そりゃあれだろ、犯人にとって都合の悪い血痕だったとか」
「でしたら洗い流したりすれば良いはずです。何も乾燥させてその場に残すこともないと思いますが」
被害者の胸から血が流れだして地面に到達するまでに、足元の血痕を乾燥させて、被害者をその血痕の上に載せる。何のためにそんなことをしたのか、疑問に思うのは誰もが同じだった。
「血を乾燥させる魔法って難しいのかな? えーっと」
ミソギは四人を見回す。先程、ロゼッタが精霊瓶を持っていたことを思い出し、視線をそこで止めた。
「ロゼッタ嬢、説明出来るかい?」
「魔法はあまり得意ではないので、多少間違いはあるかと思いますが……。乾燥させる魔法は、初級魔法を知っていれば簡単に出来ます。要するにその場所だけ気温を急上昇させて水分を飛ばせばよいだけですから。逆に血を洗い流したり、分解して消滅させるとなると、魔力を少し多く使うことになりますわ」
「君たちの中で魔法が使えない者は?」
誰も手を挙げなかったが、アリトラが口を開いた。
「アタシ以外は精霊持ち。乾燥魔法はアタシでも出来るから、全員可能ってことになる。これがもっと難しい魔法なら、容疑者から外れることが出来たんだけど」
「逆に、空瓶だから乾燥魔法しか使えなかったって解釈も出来るかもな」
リッタが意地悪く言う。
「そうなれば、あんたの容疑が深まる。何しろ、この中じゃ一番実戦型の剣だ」
「冗談。アタシだったら血痕を隠すのにこんな手は使わない。死体を横にずらせば、胸から流れる血と混じってわからなくなるでしょ」
「あー、それもそうか。んじゃなんで、犯人はそんな面倒なことをしたんだ?」
「それがわからないから悩んでる。面倒なことをするには、それだけの理由があるわけで……」
アリトラは首を傾げながら、もう一度図面を覗き込んだ。
「乾いた血痕には何か残ってなかったんですか?」
「報告書では特に妙な点はなかったようだよ。靴裏に血が付着していたから、被害者が一度踏んだことは確かだけど」
「足跡のようなものは?」
「見当たらなかったね。その図面にも足跡の記載はないだろう? 少なくとも目視では検出できなかったってことだよ」
「……ふぅん」
赤い瞳を瞬かせ、アリトラはそう呟いた。何か数秒考え込んでいたが、ふと立ち上がると、メーラルに声を掛ける。
「剣、貸して」
「私のですか?」
「ミソギさんのは癖があるし、アルコの軍刀が一番扱いやすいから」
メーラルはアリトラの意図がわからないながらも、壁に立てかけていた自分の軍刀を手渡した。男性用よりわずかに短く作られているが、剣を持った人間でなければその微妙な差はわからない。
アリトラはメーラルを自分の前に立たせると、その胸元に鞘に入ったままの剣を突き付けた。
「いきなり剣を向けないで下さい。ヒヤリとします」
「アルコならこれが抜刀でも避けられる」
「難しいことを言いますね」
二人の間には剣の長さ分の距離があった。アリトラはそれを確認してから納得したように剣を下ろす。
「ミソギさん。これまでの通り魔事件で、凶器の詳細は特定されていないんですよね?」
「被害者達の証言などから、ロングソードの類だと考えられている。特殊なものではないようだから、詳細が絞り込めていないんだよ。今回の事件も同様にね」
「違うの、ミソギさん。これは猟犬の犯行じゃない」
全員がその発言に驚いた表情を浮かべた。
「どういう意味だい?」
「ずっと、乾いた血痕の意味を考えてた。アタシでも出来るような簡単な魔法。それで隠せるものってなんだろうって。それって裏を返せば、乾燥させるだけで解決するものってことにならない?」
アリトラは鞘に入ったままの剣を持ち、饒舌に話し出す。ミソギはその姿を見慣れているが、他の三人は呆気に取られている様子だった。