7-9.幻獣の休息
その頃、セルバドス家では幻獣が物音も立てずに居間を歩いていた。
先ほどまで居座っていた暖炉の前には餌皿が放置されている。中には小麦粉と蜂蜜を練り合わせたものが大量に入っていたが、それも今は幻獣の胃袋の中にある。
居間とつながったキッチンでは、ホースルが夕食の仕込みを行っていた。その背中を見つめながら、幻獣は静かに近づいて行く。
やがてその距離が、跳躍すれば十分に届くほどまで狭まると、幻獣は床に爪を立てて、前足に力を入れた。後足で床を蹴れば、容易にホースルの背を捕えられる。
幻獣がそれを確信して、構えた瞬間、ホースルが背を向けたまま口を開いた。
『やめておけ。消し炭になりたくないだろう?』
それはフィンの国の言葉でも、まして大陸の言葉でもなかった。幻獣はその言葉を聞くと、毛を逆立てて威嚇の姿勢を取る。
『貴様、人間ではないな。何者だ』
『ナ族なら当ててみるがいい』
振り返ったホースルは、冷たい目で幻獣を見下ろす。幻獣は負けじと睨み返していたが、やがて何かに気付いたように目を見開いた。
『シ族か! 何故シ族が此処にいる』
『愚問だな。答える義務はない。私は娘が招き入れたお前に敬意を払って食事を振る舞った。我らの盟約では、それで十分なはずだ』
『あの娘と息子はお前が人間との間に作った子か。なんと愚かな真似を。キ族のようにその血脈を汚すのか』
ホースルは剣呑に目を細める。血のように赤い瞳は、感情の揺るぎがない。
『良いことを教えてやろう。それ以上くだらないことを言うなら、殺してやる』
『無駄だ。私と貴様は同じ……』
『同じではない。私はシ族のリン。冠名はキャスラーだ』
『……キャスラーだと?』
幻獣は大きな体を一度震わせた。
『馬鹿な。キャスラーが子を成すなど無意味だ』
『わかった。死にたいのだな』
右手を構えたホースルを見て、幻獣は一歩退いた。
『待て。私は貴様に敵意はない。あれば、昨夜のうちに襲い掛かっている』
『それは私の正体を知らなかったからだろう。知った今、お前は私の子供に危害を加える恐れがある』
『貴様の子に手は出さないし、貴様とも敵対するつもりはない。此処に来たのは本当に偶然だ』
ホースルはその言葉にも眉一つ動かさなかったが、幻獣の毛並みを見て、朝のことを思い出す。
双子が心底嬉しそうに、その毛を撫でていた光景は、少々腹立たしいものもあったが、微笑ましいものだった。幻獣の命など奪っても少しも心は痛まないが、子供達の笑顔を曇らせたくはない。ホースルはそういう男だった。
『お前の名はなんだ』
『私はナ族のソル。ナ族の第一階級である。我が一族の名に賭けて、貴様とその子供に手出しをしないことを誓おう。だから、その物騒な殺気を解いてほしい』
『私に命令をするな』
そう言いながらもホースルは殺気を解いた。
「ふん。意外とまだ言葉を覚えているものだな。長いこと使っていなかったから、思い出すのに苦労したが」
夕食の支度のために切っていた人参を摘み上げ、幻獣へと放り投げる。口でそれを受け止めた幻獣は、躊躇いもなくそれを噛み砕いた。
『それで、お前は何をしに此処に来た? アリトラが見つけた時には随分弱っていたようだが、天候を操りでもしたか?』
『御名答。実はこの国の祭りが好きで、たまに見に来るのだが、今年は無粋な輩がいたようなのでね。事前に排除したまでだ』