第2話 橋を走る夜
僕が油断してたことは、否定しようもない事実だ。
十日間以上、危ない目にも会わず静まり返った道をたんたんと歩き続けてきた僕は、控えめにいっても、ありえないぐらい気を抜いてた。
まず、知らない土地を歩いてるのに、目の前すらちゃんと見てなかった。
結界石の光を制御して明るくしたり暗くしたりしたい、というのが僕のここ数日の課題で、それに没頭してた。
胸の中にある石は、自分の一部であるようなないような、とても微妙な感じがしてる。
たとえば自分の手は、目で見てなくてもどうなってるかはっきり感じられる。それと同じように結界石も感じたい。
神経みたいなものを結界石に通せないか。そんなことを考えて、いろいろ念じてみたりしてたんだ。
なぜ、そんな優先度が低そうなことに熱中してたのかと聞かれれば……やっぱり、何も起こらない旅に退屈してたんだと思う。
地面に置かれた板みたいなものが目に入ったとき、やっと僕は我に返った。
これ何だろ? 橋?
目を上げて周囲を見回して、ぎょっとした。
さっきまで穏やかな草原の一本道を歩いてたと思ったのに、雰囲気が全く違う。
僕が立ってるのはぬかるんだ地面。足元のすぐ先は浅い水たまり。
見ると水たまりが、ずーっと続いている。
これは、いわゆる湿地帯というやつだ。
目の前の板切れは濡れずに歩くために設置された木の橋で、水たまりのあちこちに点在する小島の間をジグザグに繋いでるようだった。
まだ夕方になる少し前だと思うけど、空は重苦しい雲に覆われて暗かった。
しかも雨が降り出してる。まずい降り方だ。たぶん小雨じゃすまない。
草原に引き返して、今日は安全なところで早めに休むべきか?
僕は歩いてきたほうを振り返って、ええっ!? と言いたくなった。
振り向いても目に映るのは水たまり。そして、水たまりを縫うように続く、ようやく道とわかるぐらいの道。
僕はすでに、だいぶ湿地帯の中に入り込んでいたのだった。
それでも、ここで引き返せばよかったんだ。
なのに僕はしばらく迷ったあと、先に進むことを選んでしまった。
こういう場所にはどこかに、必ず安全に休める場所があるはずだ。そこまで行こう、と考えた。
ギシ、ギシ、と鳴る粗末な木の橋の上を、急ぎ足で歩いてゆく。
少しずつ雨の勢いは強くなる。シャツはもうぐっしょり濡れて重い。
ただでさえ寒がりな僕にとって、この状況は気力が萎えそうなぐらいつらい。
どうしてこうなった、と思いながら、足を速める。
小島にたどり着いて次の橋に乗るときに、足を踏み外して水たまりに踏み込んでしまう。
意外にも水はけっこう温かい感じがした。
もういっそ、このままザブザブと水たまりを突っ切ってしまおうかと一瞬思う。
いやいや、と自分にツッコミを入れ、小走りで橋を渡りはじめる。
どのくらい木橋を渡っただろう。
ほとんど夜のような暗さの中で、僕の目が、ちょっと先にある建物のようなものを捉えた。
喜び勇んで走り寄ってゆくと、大きめの小島に東屋のようなものが建っているのがわかった。
木の柱が四本、それに斜めに板屋根がかけてあるだけ。
休憩所と呼ぶのもおこがましいぐらいの粗末な作りだけど、雨がしのげるだけで僕には有り難い。
屋根の下に走り込んで、重たいシャツを脱ぐ。カバンも取る。
地面に座り込んで、はー、と脱力した。
時間は早いけど、もう今夜はここで泊まろう。それ以外ない。
僕は柱の一本に寄りかかり、パタパタと屋根を叩く雨の音に耳を傾けた。
☆★☆★☆
夜が更ける前に、雨はやんだ。
僕は東屋の外へ出て、背伸びをする。
月が出てる。水たまりに月が映ってキラキラしてる。
虫だろう、光の粒みたいなものが水面近くを飛び交ってる。
いくつか、びっくりするぐらい大きくて輝く光点がある。あれも虫なんだろうか……。
さっきは酷い目にあったと思ったけど、こうやって見ると、きれいな景色だ。
ここに泊まるの、悪くないな。
僕はこの期に及んでも、とことん油断しきっていた。
あたりは暗いけど時刻的には夜になったばかりで、疲れてるけど眠くはない。
僕はまた、結界石の制御を試してみることにした。
東屋の横の地面に座って、意識を集中する。
昼は手と同じように石に神経を通すイメージでやってたけど、これはダメだ。石に神経はないだろう。
だったら……石の周囲に、柔らかい手みたいなものを想像してみる。
胸の中で石をそっと守っている女神の手。この手を通して石のご機嫌を取る。
手をすぼめて石を握れば石の力が高まり、逆に手を広げたら石は休む……。
あ、できた!
桃色の光がすうっと薄くなり、ごくわずかに光るだけになる。
やった! これで夜でも見つかりにくくなるだろう。
でも、少し疲れた。手と顔を洗おう。
僕は立ち上がって水辺へ歩き出す。
ザバアアアン! と、すぐ横で物凄い水音がした。
巨大な黒い影がしぶきを上げてぶつかってきて、僕の背をかすってゆく。
たまたま僕が歩いていなければ、間違いなく一撃で仕留められていただろう。
僕は跳ね飛ばされ、錐揉みしながら顔から水中に落ちた。
何が起きたのかわからない。気がついたら、顔にびしゃり! と水面がぶつかる衝撃が来て、視界がぐにゃぐにゃになる。
手足をジタバタさせながら四つん這いになる。顔が水から離れる。
さっき、でっかい虫だなーと思いながら呑気に見ていた光が、大きな波とともにひゅーっと近づいてくる。
本能が超特大の危険を叫んでた。
必死で岸に這い上がると身を伏せ、ごろごろと転がる。
ザバアアアッ! とまた凄い水しぶきがあがり、僕のすぐ上を、何か巨大で細長いものが超高速で飛び越えていった。
もう間違いない。魔物だ。魔物に襲われてるんだ。
小島の中央、魚の攻撃でバラバラに壊れた東屋の跡まで這い進んでから、必死に島の回りを見渡し、あの大きな光を探す。
……見当たらない。なぜだ。たぶんあれは、魔物の身体の一部のはず。なぜ見えない。光ごと水に潜ったか?
探す。探す。探す。……見えた!
水しぶきが上がった瞬間、地面に身を投げて転がる。
回る視点のなかで、月光に照らされる魔物の姿が一瞬見えた。
魚とミミズが混じり合ったような、異様な生き物だった。
エラがあって鱗に覆われてるのは魚っぽいけど、目がいくつも並んでついてるのは、ヤツメウナギみたいだ。
そして口は魚じゃなく、すぼまった肉の穴のようなミミズっぽい口だ。
頭のうえに、深海魚がよく持ってる誘導用の灯みたいなのをぶらさげてる。
見ただけで悪寒が止まらない、おぞましいバケモノだった。
転がった僕の上を飛び越えて、怪物は反対側の水の中にドオオオン! と飛び込む。
どうする。どうする。
このままここでバケモノを避け続ける? そんなの絶対無理だ。
穴を掘ってやりすごす? 掘ってる間に食われる。
実はこの時、たったひとつ、無事で済んだ可能性が高い方法があった。結界石の光を強めること。
でも、僕はそれに全く思い至らなかった。
僕は迷い、錯乱したあげく…… この湿地から一瞬でも早く抜け出そうと、木橋の上を走り出したのだ。
☆★☆★☆
暗闇のなか、細い木橋の上を走り続ける。
それがどんなに無謀なことか、冷静に考えれば誰にでもわかる。
でも恐怖のあまりパニックになった、その時の僕にはわからなかった。
東屋のあった小島から走り出して、十歩ぐらい行った時、後ろでザバアアア! と水音がした。
僕は這いつくばる。四つん這いになって、トカゲのように姿勢を低くして前へ進む。
背中のすぐ後ろを、巨大な気配が飛び過ぎてゆく。
その風圧に背を押されるように、四つん這いのまま僕は全力で突っ走る。
橋から落ちたら落ちたときだ。また這い上がればいい。
四足で走るのは意外なほどスムーズで、速い。僕はやっぱり獣人なんだな。もしかしたら狼や豹なのかも。
一瞬いい気になるが、そんな浮ついた思考はまた飛びかかってくる気配に霧消する。
……でも、さっきより遠い。逃げられてる。このまま頑張れば行ける。
小島にたどり着く。すぐ、次の橋に飛び乗る。
後ろからわずかに聴こえる波の音。まだ追ってきてる。
速度を緩めたら捕まる。走る。集中してるおかげか、暗闇でも道が見える。
次の小島へ着く。次の橋に飛び乗る。走る。
ザバアアアア! と怪物が飛び出す水音。大丈夫、遠い。
いまの飛び出しは時間ロスのはず。でも気を抜くな。
次の小島……橋が二つある!
迷ってる時間はない。右の橋に飛び乗って走る。
追ってくる波の音が聴こえない。抜くな。気を抜くな。
橋は短い。小島からすぐ次の橋へ。
……暗闇の中、大きな陸地が見えた気がする。
あそこまで行けば助かる!
小島。次の橋は……長い!
長いけど、橋のむこうはたしかに陸地だ!
後ろからは何も聴こえない。大丈夫、でも緩めるな。
長い橋の上を四足でいっさんに駆ける。正面には丸くて青い月。
きれいだ、と思う余裕がある。足は軽くて飛んでいるかのようだ。いける。
正面右の水面が、突然盛り上がった。
ズワアアアアアア! と巨大魚が躍り出る。
なぜ。後ろにいたはずだ。なぜだ。
そうか! もう一匹いたんだ!
愕然とする僕に向かって、正面から肉穴のような口が迫ってくる。
とっさに左横に跳ぶ。
足の下には、当たり前だけど、何もなかった。
ザアアアアアア! と飛びすぎてく怪物のすぐ下で、僕は水面にどぶん! と落ちる。
大丈夫。なんとか橋に這い上がればいい。最悪は水の中を走ればいい。
陸地はすぐそこなんだ。なんとしても逃げてやる。
水底に足をつこうとして……青ざめる。
どこにも足をつくところがない。
粘着質の液体の中で、僕はただもがく。
……なぜ、ただの湿地だと思いこんでたんだろう。
そんな浅い水に、あんな巨大魚がいるわけないのに。
後悔しても後悔しても、もう遅い。
ここは沼だ。たぶん底なしの。
絶対に、落ちてはいけなかった。
絶望する僕の耳に、真後ろから大きな波の音が聴こえてくる。
そして全身がねとねとする不快な粘液に包まれ、全てが真っ暗になった。