第1話 何かが僕を呼んでる(三日ぶり二回目)
包帯さんと出会った林の中の焚き火から、北へ歩きはじめて二日後の夕方。
僕はラグナ大森林を抜けて、高い崖の上に出た。落ちたらたぶん僕はバラバラになる。そのくらい高い。
目の前には白雪に覆われた雄大な山が見える。
いま僕のまわりにある自然は、何もかもスケールが大きかった。
僕がいるこの地……ホルウォート島、というらしいけど、その中央部には人の出入りを拒む険しい山脈があると、包帯さんが教えてくれた。
目前に見える高い山は、その山脈のいちばん南の山だそうだ。
端っこにあるんだから山脈の中では小物なんだろうけど、そそり立つ岩壁が幾重にも重なる、峻厳としかいいようのない姿で、圧倒的な迫力があった。
ひときわ冷たい山おろしの風が、ぽかんと口を開けて見上げる僕に吹きつける。
ここはホルウォートの南部、南って暖かいんじゃないのか。詐欺だ。
崖の端から見下ろすと、谷間には細い道が東西に通っているのが見える。
森を抜けてここまで来た僕には二つの選択肢がある、というのが包帯さんの話だった。
つまり、この道を西に行くか東に行くか。山を西に迂回するか東に迂回するか、だ。
西側にぐるーっと回っていくと、レメディス幻想国という国があるらしい。幻想国。ファンタジーな名だ。
そして東側にぐるーっと回ってゆくと、マードゥ混成国という国があるという。
どちらに行こうかと考えているときに、僕は感じたのだった。
何かが、僕を呼んでるのを。
あの豚の召喚術のような、はっきりした声じゃない。
もっと漠然とした、なんか気になる、という感じの呼ばれ方。
意識しないようにしてても、気がつくとなんとなくそっちの方向を見てる。そんな感じの引力だ。
それは、山の東側から僕に届いてた。
正直、そういうのに素直に応えるのはもうどうかと思ってしまう。
あの豚にまんまと呼ばれちゃったトラウマがあるからね。
呼んでるものが邪悪って感じはしないけど、それを言うなら豚も魔術の声はきれいだったし。
どうするかなあ……。
迷っている間にも、日は暮れてゆく。
沈んでゆく夕陽の橙色が白い岩壁を染めて、見とれるほかない美しさだ。
僕は全身が冷え切ってしまうまで雄大な景色を見続けたあと、森の中に戻って夜を過ごすことにした。
風避けがないと本当に凍えてしまう。
ちなみに僕の胸にある結界石には寒さ避けの働きがあると包帯さんは言ったけれど、はっきり実感できるほど寒さを消してくれるわけじゃなかった。
興奮していたせいかあの夜は夜明けまで寒さを感じなかったけど、翌日の夜からはまたガタガタと震えるようになった。
僕のこの寒がりの原因は、肉がついてないという根本的なところにあるんじゃないかと、いまや僕は考えてる。
そうなると今のところ結界石にこれといったメリットはなくて、虫を集めるだけの体内誘蛾灯にすぎない。いや、包帯さんに苦情をいう気はないけどね。
なんとか虫除けができないかと、二日間いろいろ知恵を絞って……結論としては、あきらめた。
考えてみれば虫を除ける理由は、噛まれたり刺されたり這い回られたりして痛かったり痒かったり病気をもらったりするからだけど、僕の骨は相当硬くて虫ではどうにもならないし、虫相手だと痒いという感覚もない。
つまり、なんとなく嫌だという気持ちさえ克服すれば、別に虫がたかっていても構わないのだった。
虫はいいとしても、桃色に光る結界石は目立つので、剥き出しのまま歩くのは得策じゃないと思う。
さいわい包帯さんと別れた次の日の昼、森の中で遭難者らしい人骨と、そばに落ちている布の肩掛けカバンを見つけた。
その後わかったのだけれど、ラグナ大森林には遭難者がいっぱいいるらしく、一日歩けば似たような骨を日に数度は見つけることになる。
その人骨は灰色のだぼっとした厚手のシャツを着てた。シャツは土でだいぶ汚れてたけど布地はまだしっかりしてた。
内心手を合わせながら、シャツを剥ぎ取りカバンも頂く。近くの小川でざっと水洗いして身につけると、外からはいちおう結界石が見えなくなった。
夜になるとシャツを透けて光が漏れ出すので、完全に隠せたわけじゃないけど、それはまあしょうがない。
カバンの中には小さなカギが二つとノートが一冊。ノートの文字は読めなかった。死んだ人を探しに来る人がいる可能性はゼロじゃない。ここに残してゆくほうがいいよね。カギとノートは死体のそばに小さな穴を掘って、葉っぱにくるんでその中に入れ、雨に濡れないよう、上から大きめの葉っぱをかぶせた。
豚の好物だったトワレキノコとかいう茶色のキノコを見つけたら、採ってカバンに入れてゆくことにした。いつか人の町に出てお金が必要になった時……そんな時が来るのかはわからないが……売って金策できると思ったからだ。
それから二日間、キノコを探しながら北へ慎重に歩いてきた。
魔物らしきものとはついに出会わなかった。樹の陰なんかに何かの気配を感じることはあったけど、気がついたら消えてた。
そんなわけで今の僕は、膝まで届く汚れた厚手のシャツを着て、布カバンを肩から斜めに掛けカバンの中にキノコを十個ばかり詰め込んだ、寒がりの獣人の子供の骨なのだった。シャツの下の肋骨のあたりでは羽虫が数匹遊んでる。
大木の陰で丸まって眠り、夜明けごろに起き出すとまた森を出て崖から景色を見渡す。
大気が澄み切っているせいか朝の光はびっくりするほどまぶしく、遠くに見える白い岩壁は直視できないほど光り輝いてる。
僕はしばらく朝の雰囲気を満喫したあと、崖の端を伝って、ほの暗い谷間に慎重に降りていった。
☆★☆★☆
結局、東に向かってマードゥ混成国を目指すことにした。
やっぱり、呼び声を無視して逆へ行くというのはなんか寝覚めが悪い気がする。
罠かもしれないけど、それならそれでいいや、と思った。
谷間の道は人が三人ぐらい並ぶとふさがるほどの幅で、まったく整備されてないのがすぐわかった。
ほぼ獣道で、道というより「木が生えてない場所」というのが的確なぐらいだ。人の足跡らしきものも残されていなかった。
道の右側、つまり大森林よりの側はずっと人力では登れないほどの高さの土の崖で、この崖が、大森林を他の土地から隔ててる。
左側、つまり雪山が見える側は岩場になったり雑木林になったり小さな池があったりする。
日陰になることが多い道なので景色がいいというほどではないけど、それなりに景色が変わるので飽きない。
一度、左側の雑木林のほうへ入って十分ほど進んでみたけど、大きめの川に突き当たって進めなくなった。川の向こう岸は崖になってた。
たぶんこの川が、この近辺を掘って谷間にしたのだろう。
夜明けとともに歩きはじめて、ずいぶん長いこと、とぼとぼと歩き続けたけど、誰とも行き合わない。
大森林には人が寄り付かないと包帯さんは言っていたけど、それにしても誰もいなさすぎだ。
昼過ぎ、さすがに歩き疲れて、道ばたの大きな岩にもたれるように座る。
空を見上げると薄い雲が速く流れ、鳥が数羽、ガア、ガア、と遠く鳴きながら飛んでゆく。
世界が息をひそめてる。そんな感じがする、静かな午後。
森を出たあとの初日は、とうとう人も獣も魔物も目にすることはなかった。
日が暮れたので川のそばまで道をそれ、簡単に手足を洗って早めに横になった。
☆★☆★☆
翌日の二日目も、ただ道がまっすぐ続くだけで、何も変化はない。
僕はその単調さに、少しずつ飽きはじめてた。
が、午後。
風に乗ってかすかに人の声が聞こえてきて、僕ははっとした。
道から外れて雑木の薮の中へ駆け込み、身を隠す。
さすがにこの姿で人の前に出られると思うほど能天気じゃない。
話し声が近づいてくる。東から歩いてくる人間たちの声だ。
そうっと覗き見ると、男性ばかりの三人組だった。全員ガッチリした体型の中年で、皮の鎧を着てる。それぞれ槍や弓を背負って、足音も立てずに急ぎ足で西へと歩いてゆく。
僕はそれをじっと動かず見送った。三人組の最後を歩く男の口が小さく動き、言葉を繰り返しているのがわかった。
「……ノールよ……龍の呪いより守り給え……ノールよ……」
声は聴こえなかったが、そんなことを言っているように思われた。
西へ去ってゆく三人組を見送りながら、熟練した狩人に見えた彼らが、おそろしく怯えながら歩いていることに僕は驚いていた。
この道はそれほど危険なのか。少し、気を引き締めなくちゃ。
そう考えるものの、やっぱり僕には、なんの危険な気配も感じられなかった。
その夜は道端の樹の陰で息を潜めて過ごしながら、結界石の光を弱められないか試行錯誤する。
うまくいえないが、なんとなくこの石は、僕の一部になりつつある気がする。ならば、隠れたいときには光を弱められるはずだ。
そう思いながらいろいろ念じてみたが、その夜はうまくいかなかった。
☆★☆★☆
森を出てから三日目。朝早く起きて、また歩き始める。
昼頃、川が道のそばまで寄ってきて、滝になって流れ落ちてる場所に来る。
滝つぼに足を浸して休憩。小さな魚影も見えた。
東に進むとまた川は道から離れていった。
五日目。
午後、道は大森林の崖から離れ、少しずつ北に曲がってゆく。
小動物や蜂などを見たが、人と会うことはなかった。この土地、生き物の姿が少なすぎる。
七日目。
リスや狸らしき生き物を見かけたほかは、特筆すべき出来事なし。
九日目。
道は山の麓に沿って非常に大きな弧を描くように曲がりながら、ゆるやかな下り道になってゆく。
その日は道が完全に北東に向き、見晴らしがよくなってきたところで夜になった。
森を出てから十日目。
道は完全に下りになり、つづら折りに曲がりくねりながら、眼下の平野へ続いてる。
下り終えて平野へたどり着き、そのまま進み続けると、夕方には大きな川にたどり着いた。
これは、歩いてきた道の北側を流れてた川で間違いない。北西に見える雪山が源流なんだろう。
橋は石造りで、相当古いものに見えた。
渡る途中で下流を見やる。川は東南方向へ、大森林の崖を舐めながら流れてゆく。
その先には濃い緑色をした穏やかな山々が見える。さらに先には海があるんだろうか。
要するにここは、南東の山地と、北西の巨大な雪山に挟まれた細長い窪地の入り口なのだった。
十ニ日目。
周囲がひらけ、景色が穏やかになっても、いっこうに人と行き合わない。
結局、あの三人の男以外、旅程で誰とも会うことがなかったし、魔物とも遭遇しなかった。
この日の午後遅く。
風景が変わったことに気づいて、僕は立ち止まる。
あれほど生えていた草が周囲から減り、ぬめっとした粘土と、どろりとした水が視界のほとんどを占めるようになる。
空はいつのまにか重たく曇り、雨が降り出してた。
僕は、湿地にやってきたのだ。
そこがどんなに危険な場所か、僕はまったく知らなかった。