第21話 大魔ヴェイリゥ(黒羽)
ザグ=アインの直上の高い高い場所、ここマトゥラスからはおそろしく遠いところにいながら、尻尾がはためき胸びれが揺らめき、口が開閉する様まで、はっきりと見えた。
それほどに巨きい。その赤い魚は、世界の普通の理から外れているとはっきりわかる巨大さだった。
私はただ独り、マトゥラスの上空で、ヴェイリゥと呼ばれたその存在を呆然と見ている。
ホルウォートに似ている魚はいないのではないか。頭が大きく、口も深く開いて大きく、人でいうと額にあたる部分がまるく膨らんでいる。頭から尻尾にいくにつれ身体は細くなり、全体の姿は三角の長旗に近い感じだった。
尻尾が異様なほど発達している。真紅に近い身の部分とは少し違い橙色がかった尻尾は長く太く、身体とほぼ同じぐらいあり、その先に頭に近いほど大きな尾びれがついている。尻尾は柔軟に曲がりながら、空中で活発に打ち振られていた。
胸びれも通常の魚では珍しいほどの大きさで、上空にとどまっているときは大きく開かれてゆったりと動いていた。
大怪魚。超常の仙魚。巨大さだけでなく姿自体からも、この魚が唯一無二な存在であることが見てとれる。
ヴェイリゥはザグ=アインの上空を、雲の間を出入りしながら少しのあいだ泳ぎ回っていたが、やがて動きが変わった。北東の方向へ、つまりマトゥラスのほうへ、身体をうねらせながら近づいてくる。巨大な顔がぐんぐん大きくなる。
眼下の市街から、人々の悲鳴のような声が上ってくる。
<<マトゥラスの民よ、なにがあっても落ち着いておれ! 大丈夫じゃあ!!>>
始原樹の声が響く。が、悲鳴はやまない。当然だろう。巨大な紅の魚はまっすぐにマトゥラス市街に突き進んでくるのだ。おそらくマトゥラス全域の四分の一ほどはある、口を大きく開いた魚の顔。それが急接近してくるのを見て恐怖しないものなどいない。
そして私も、恐怖と驚愕のあまり完全に逃げ遅れた。
あ、と思ったときにはもうヴェイリゥの顔がすぐそこにあった。
マトゥラスに走る真紅の紋様の中心点、つまり始原樹に、ヴェイリゥはほぼ真上から突っ込んだのだ。
私に死があるのかどうかは知らない。だが、死んだ、と一瞬思った。地上にいた人間たちも、みなそう思っただろう。
しかしそうではなかった。
中空で硬直する私の周囲を輝く紅の鱗が流れていく。ドドドドドドドド! とすさまじい轟音が響く。
それなのに痛みはなく、それどころか感触もなかった。
数十秒、赤い鱗が視覚と聴覚を蹂躙し、そして巨大な尻尾が風切り音とともに私を通り過ぎ……ヴェイリゥは、地中へと消えた。
私は、飛ぶ力も気力も失って枯れ葉のようにマーユたちのところへ舞い落ちてゆく。
あの紅の巨大な紋様はもうどこにもない。完全に消えている。
墓碑の周囲にいる人間たちが、リーカ以外全員へたり込んでいるのが見える。ある者は尻もちをつき、ある者は四つん這いになっていた。
マーユは膝を閉じた姿勢でぺたんと足を開き、幼い女の子のような姿勢で座り込んでいる。その隣でリーカだけが、顔をほころばせいつもと同じように自然体で立っていた。
私はマーユの頭の上へと重力にまかせ落ちていく。
「す、すごかった……」マーユがつぶやくのが聞こえた。
「なんだあれは……! なんだあれは……!」ジラーが呆然ととそう繰り返している。
「なぜ、あれほどの怪物がぶつかって何も起きないんだ? 私たちは夢を見ていたのか?」コレリアルの息子ガーサントが、混乱した様子でぶつぶつと独り言を漏らす。
「……素晴らしい!」ルゲ・ミダフスが、声を震わせながら叫んだ。
「ホルウォートの大魔! それは普通の魔物とは、根源的に違うものなのだな! あれは物理的な身体を持たない、巨大で純粋な力の塊なのだ! 言ってみれば、世界の根源をなす精霊なのだよ!」
両手を振り回し興奮するミダフスを、周囲は半分呆れた感じで見ている。そこに、ジュールが声をあげた。
「なあ、俺の見間違いかなあ」
「なんだい?」とアイララ。
「始原樹、なくなってないか?」
「え!?」
その場にいる全員が、始原樹の立っていた庭園の奥の空を仰ぎ見る。
私も、そのとき初めて気づいた。
ジュールの言う通り、そこには何もなかった。あるのは夜空だけだ。
マトゥラス中心部の空を覆っていたあの大樹は、きれいさっぱり消え失せていた。
「そ、そんな! それでは始祖様は……!」コレリアルの妻ルティスが悲痛な声をあげるが、それには「わはははは!」と、笑い声が返ってきた。
始原樹のあったほうから、少年がひとりすたすたと歩み出てくる。緑のチュニックを着た、純朴な顔立ちをした赤毛の少年だった。
「心配はいらぬ。そもそも儂が大樹の形になって眠っておったのは、ヴェイリウの力を受け止めるためじゃあ。力をやつに返して、300年ぶりに身軽になったわい!」
「え……始祖様なのですか!? 言い伝えとは、まるで姿が……」
「うむ、だいぶ若返ってしまったのう。ホルウォートに来たときの儂はもういいかげんくたびれた爺じゃったから……妙に気恥ずかしいわい」
少年はすたすたと自分の墓碑のそばに来て、南西の空……ザグ=アインのほうを見上げた。
「とはいえ、この姿もごくわずかのことよ。少ししたら儂はまた、樹の形に戻る。ヴェイリゥがねぐらに戻るからの。そうなればまた儂が<円環>を守護することになろう」
「そ、それじゃあ今度のこの大騒ぎは、<円環>を少しの間だけ開けた、というだけのことなのですか?」ガーサントが愕然とした様子で言った。
「そうじゃ。ヴェイリゥは儂らとは別の領域に生きる存在じゃが、モルタはその考えを知り伝えてくれた。かの大魚は、この世に長く留まることを望んでおらん。女神ノールとの約定を、あくまで守る気でおる」
「そうか、<円環>を通じて、力をノウォンに変えるという……。でも、ならなぜ今度、現れることを望んだのでしょう?」
「言うまでもない。ヴェイリゥの眷属、岩人のためよ。最初の七の1人……騙し屋のグラドがひっかきまわしおった、ザグ=アインの暮らしを立て直すために決まっておる」
ぴり、と頭の奥が痛む。グラド。そうだ、その名。忌まわしい気がするその名。
「騙し屋? 騙し屋のグラドとは、もしや大……」ガーサントがなおも言い募ろうとするが
「後にせい。戻ってきたぞ、大魔が」
マードゥの指差す南西の空には、また、マトゥラスに接近してくる真紅の大魚の姿があった。
「うおおおおおお!」害はないとわかっていても耐えられないのだろう。ロレンツの側近が恐怖の叫びをあげる。
私はマーユの頭上で、その威容を見上げた。ヴェイリゥはマトゥラスの上空に停止すると、下界を見ることもなくぱた、ぱた、と巨大な胸ビレを動かしている。
その身体からは、さきほどとは違い絶え間なく水しぶきが飛び散っている。
いや、目をこらすと水ではなかった。赤茶色がかった結晶のようなかけら。それが無数に降ってくる。マトゥラスを濡らす雨のように。それはヴェイリゥ同様人にも物にもぶつからず、シャラン、シャランと涼しげな音をたてて地中へ消えてゆく。
「……来タ」
マーユの隣で、上を向いて結晶の雨を顔に浴びていたリーカが嬉しそうにつぶやく。軽くしゃがみこむとどこから出したのか、琥珀色の石のかけらを地面に置いた。
「マーユ、見テ」
置いたかけらを指差す。立ち上がったマーユとリーカは肩を寄せ合い、かけらをじっと見つめた。
シャラン、シャラン、シャラン……。
他の何にもぶつからない結晶の雨が、そのかけらにだけは衝突し、僅かな火花を散らしながら鈴のような音を立てる。
結晶がぶつかるたび、琥珀のかけらは成長していく。
シャラン、シャラン、シャラン……。
「……あ!」
マーユが大声をあげた。目の前で大きくなっていく琥珀が、何になろうとしているのか気づいたのだ。
「ルズラさん!」
「そウ。私たちの導キ手。親方サマの愛し子。やっと……還ってくル」
リーカがそう言ったとき、私の視界はすっと暗くなる。見なくてもわかっていた。
アイララが、マーユの頭の上にいた私を掴み取り、両手で包んだのだ。
「思い出したかい? 記憶は戻ったかい?」
そうささやく声。私は思考のなかで否定する。まだ、何も戻ってはいない。
「そうか、でもしばらくは、ボクの手の中においで」
私に否やはない。この手の隙間からでも、外の様子は見られるからだ。
琥珀のかけらはリーカの眼の前に浮かび上がり、穏やかな光を放ちはじめていた。
「さあ、いまこそよみがえるのじゃ! ヴェイリゥの代弁者にして岩人の導き手よ!」
マードゥが、口調に似合わぬ若々しい声で叫ぶ。
琥珀色の光る塊はくるくると空中で回転しつづけている。そして……ぴたりと止まると、無数のかけらを周囲に飛び散らせた。
「うおっ!」グレアムの側近があわてて手で払うが、もちろんかけらに実体はなく空振りになる。
一瞬にして削り出されたように、琥珀の塊は優雅な姿を持つ石の人形に変わっていた。
「はああーっ! 情けない!」その人形から、いきなり大きな声がした。
完結といいましたが字数的に書ききれず……二話分割で明日が完結となります。
今話はいろんな意味で推敲が足りないのでのちのち改稿する感じです。