第11話 潜入と恐慌(黒羽)
ノール暦327年、7月第4週の終わり。
私が私であるという意識を、自分の素性はわからぬまま取り戻した夜から、一日半が経っている。
アイララ、そしてマーユとの協力関係に同意した私は、まずマーユから離れて動けるかどうかを試された。
むろん離れること自体に問題はなかった。かつてレドナドル離脱時にマーユと別れて動いたことがあるのだから当然といえる。
問題は私の記憶に欠損があることであり、それがマーユと離れたりマーユが意識を失ったりすることで引き起こされるのかどうかは、今のところ不明である。
「まあ、いろいろやってみるしかないよね。もし記憶がなくなったら、そのとき考えればいいさ」
アイララは非常に軽い感じで言う。彼女がそういう性格だということは一日半で把握した。
打ち合わせの結果、私は単独で、マトゥラスの中心街にあるダンデロン商会本店に潜入することになった。
単独行動の記憶が残るかどうかのテストも兼ねている。
マーユは襲撃者の目につくわけにいかないので、スラム街のはずれにあるアイララの仮住まいに隠れる。アイララが変身能力を利用して、中央図書館やマトゥラス大公宮、魔術研などで調査を行うことになった。
リーカが見つけたという岩人ルギャンの墓を探すことや、情報屋エドランの消息を調べることもアイララの仕事になる。
マーユはただ隠れてじっとしていることにおおいに不満そうだったが、こればかりはどうしようもない。
アイララの特殊能力である別人への変身は、力を振り絞っても3時間ほどしか持続しないのだという。そして長く変身すればするほど、間を空けなくてはいけなくなるらしい。
「ララスをやってたときエドランのとこに一緒に行ったよね。あれがギリギリだったんだよ。あのときマーユが早く帰ろう、お腹がすいたと言ってくれたのは、正直助かったな」
「そっか、それであのあと数日、一緒に勉強しようと思って探してもどこにもいなかったんだね」
アイララの話を聞いたマーユは、納得したという顔でうなずく。
「そ。買い食いを断ってたのも、それが理由だよ。ほんとは一緒に屋台を回りたかったよ」
「そっかあ。……ジュールとリーカ助け出したら、みんなで回ろ?」
「いいね。そのためにも、羽くんの働きが重要だよ。がんばれ羽くん!」
買い食いに参加できない身としてはどうにも釈然としないが、仕方ない。
アイララのアジトでほのぼのと語り合う2人を置いて、私はマトゥラス市街の空へ舞い上がった。
☆★☆★☆
その日の午後。
私はダンデロン商会本店の内部をさまよっていた。
ダンデロン商会の本店を一言でいうなら、無数の廊下が縦横無尽に走る迷宮である。
何十回も増築と改築を繰り返したのであろうその建物は、もはや1個の建造物とは思えないほど巨大で複雑であった。
店舗部分から入り、事務所の天井あたりをさまよい、従業員控室で耳をすます。
数時間で、基本情報は押さえた。
6年半前、マーユを手に入れるために高等裁判所の裁判官を買収したことは、やはりダンデロンに大きな傷を残していた。
それまで強権を振るってきたワイダ・ヘイルという会頭が責任を取って辞任。彼は収監されいまも裁判中だという。
次の会頭となったのがルビンティン・トーという女性である。彼女は穏健派として知られ、現大公コレリアルの妻ルティスと親友であるという強みを持っている。ベッグ・シナードもルビンティンの派閥に属しているが、かつてワイダの命令にしたがいドナテラ農園に行ったことで、立場は微妙だそうだ。
強引さを嫌い大公家ともつかず離れずを貫くルビンティンの方針は、ダンデロン商会の敵を減らしたが、売上の低下にもつながっていた。それをついて巻き返しをはかっているのが、ワイダの息子ロレンツ・ヘイルの派閥である。ロレンツは大公コレリアルの弟ジラーに接近し、業績をあげようと躍起になっている。
先代大公ディロウの100年にも及ぶ治世のあと、5年前に跡を継いだばかりのコレリアルの政権はまだ基盤が不安定であった。コレリアルはすでに100歳を越えているが、可もなく不可もない人物、というのが昔からの世評である。それだけに彼に影響を及ぼす側近の地位をめぐって、大公家の中でも権力争いが熾烈であった。妻ルティスはほとんど表に出てこないが、その息子のガーサントは積極的に行政に関わっている。いっぽう実弟のジラーは野心あふれる有能な人物として知られており、実質的な宰相の地位にいた。
ルビンティンやシナードが公妃と公子の支援を受けるトー派閥と、ロレンツが公弟の支援を受けるヘイル派閥の対立、というのが現在のダンデロンの構図である。
リーカ誘拐にダンデロンが関わっているとしたら(おそらく間違いないが)、それはトー派閥ではなくヘイル派閥のしわざである可能性が高い。そう判断した私は、ロレンツ・ヘイルとその一味を探しはじめた。
が、これが濃霧の中をさすらうような仕事であった。
なにしろ、ロレンツは表立った商会の仕事をしていないのである。彼はなんと「顧問」であった。具体的な仕事をしていないので、誰も彼がどこにいるかを人に訊ねない。ロレンツが何かをやっているらしいという話は聞けても、事務所で働いている人間は誰も彼に用事がないので居場所を口にしないのだった。
夕方になるまで無為に商会の天井を移動し続けたあと、僥倖が訪れた。奥の廊下を急ぎ足で歩く1人の男に見覚えがあったのだ。
マトゥラス商業学校の教師、パウリ・ロガンだった。
ロガンは難しい顔で廊下を歩きつづけ、商会の最奥の、一見そこにあるとわからないような扉を開く。その奥に豪奢な扉が隠れていた。
扉の中で待っていたのは数人の男たちで、中央にはソファに座り柔らかい笑みを浮かべる、ぽっちゃりした中年男がいた。おそらく彼がロレンツ・ヘイルなのだろう。評判とはまるで違う、温厚で人あたりのいい雰囲気の男であった。
「ああ、わざわざおいで頂いてすみませんな、先生」
ロレンツらしき男はそう言いながら、まあどうぞ、と向かいのソファをパウリに勧める。
「いえ。それより何かあったのでしょうか?」パウリは座れというのを断り、立ったまま問いかけた。
「マーユ・ドナテラが監禁場所から逃げてしまいましてね。いや、お恥ずかしい話です」
「えっ……どうやって? 監禁されたら逃げられない場所と聞きましたが」
「何者かの手引きがあったようですが、詳細は調査中です」
「なるほど……」
パウリは熱の入らない相づちを打つ。ロレンツの後ろにいた側近が、イライラした調子で口を出した。
「急いで再捕獲か、あるいは最悪の場合ひそかに殺してしまわなくてはならん。父親に連絡されると、なかなか厄介なことになるのだ。君も捜索に協力したまえ」
「いや、そう言われましても。私には勤めもあるので」
「彼女が立ち寄りそうな場所に心当たりはありませんかな」ロレンツが微笑みながら問いかける。
「……もう学校には戻らないのではないでしょうか。あとは中央図書館、エドラン工房、魔術研究所。そのくらいです。前にお伝えした通りですよ」
「そうですか……。では、気づいたことがあったらお知らせください。そうそう、マーユの友人の……サリーレ嬢でしたか、彼女に連絡がいくかもしれませんな。引き続き、彼女の周囲を探っていただけますかな」
「……わかりました」
パウリは頭を下げると、部屋を出ていった。私はロレンツたちのもとへ残る。
先ほどパウリが挙げた場所は、アイララが回ると言っていた場所だ。やはりこちらもあちらも、考えていることはほぼ同じである。
「あいつ、協力するのを嫌がってましたね。意外に使えない男だ」側近が冷たい声で言った。
「まあまあ、学校の教師にしては情報を探るのも上手いですし、よくやってくれましたよ。……いっそドナテラの捜索は、毒使いに任せましょうか」
「えっ、しかしそれは……」
「ジラー閣下の話では、あと数日でわかるそうですよ。あの岩人も、だいぶ情報を漏らすようになっているそうです。ウォードの洗脳技術はたいしたものですねえ」
ロレンツの言葉に、私は思わず空中でくるりと宙返りをする。
ここに来た甲斐があった。いまの言葉の中に、重要な情報が詰め込まれていた。
公弟ジラーとロレンツ一味が予想どおり共謀していること。リーカはジラーによって監禁され、情報を引き出されようとしていること。そして、ホルウォート北部の大国ウォードの技術が使われていることだ。
「つまり数日経てば、ことは全て終わるということですか。それまでのことにすぎないなら、奴らにまかせておけばいい、と」
「ええ。ドナテラ嬢が少しの間、自由に動けない状態にしてくれればいいのですよ。殺すのはいかにも悪手です。ダニス・ドナテラの恨みを買うのはのちのちまで響く」
「ロレンツ様。<円環>とは、そこまでのものなのでしょうか。大公家の最大の秘密、ということらしいですが……」
<円環>。
その言葉を聞いたとたん、目の前に光が飛び散った気がした。
……自分を制御できない。
私は部屋の天井にいくどもぶつかりながら、誰にも知られず暴れ狂う。
なんだ? なにが私を狂わせた?
(……白い羽。乱舞する白い羽。甲高い、悲鳴のような絶叫。)
「さてね。私たち商人としては、顧客のジラー閣下とその後ろにいる方がそれを望んでいる、それで十分ですよ」
ロレンツの声がやけに遠くから聞こえ、私は自分の意識が歪みはじめていることを知る。
駄目だ。このままでは自分がどうなるかわからない。
私はロレンツの部屋の窓から夕暮れのマトゥラス市街の空へ、いっさんに逃げ出す。
(……水の中に浮かぶ顔。笑い。全てを呪う哄笑……。)
かすかに現れては消えるイメージが、怖くてたまらない。
巨大な始原樹の枝の下で、私は自分の中にある意味不明な恐怖と戦いながら、なまぬるい夏の風の中を舞い続けた。