第10話 私は私に(黒羽)
「えっ……あっ……」
マーユは口をぽかんと開け、自分の頭上に視線を彷徨わせている。
アイララは、目をやや細めて、私をじっと見ている。
「君がなぜ、マーユのそばにずっといるのかは知らない。でも、ボクの考えが正しいなら、ボクらは君の敵じゃなく、味方だよ。君の見てきたものを、ボクに教えてくれないか」
アイララは、すっと右手を前に出すと、手のひらを上に向けて開いた。
「もし教えてくれる気があるなら、ここに降りてきてくれ」
…………。
私はアイララから視点をはずし、空を見る。
そうだ。彼女に話しかけられた瞬間、思い出した。
暗い夜空を見ながら、私は風に舞う。
そうだ。私は、私という存在だった。
…………。
いつからだろう。私が私であることを、私は忘れていた。
ただ、マーユ・ドナテラと、その周囲にあるものを見るだけの眼になっていた。
私は……何者なのか。
私はなぜ、マーユ・ドナテラを見守るだけの存在になったのか。
ドナテラ農園。ナドラバ。ルズラヴェルム。岩人ガジル。レドナドルの冬。マーユの弟。初等学校。ジュールとの再会。
マーユに関する記憶だけは鮮明に持っているのに、マーユから離れた記憶はほぼ全くないのは何故なのか。
私は……何者なのか。アイララは、答えを知っているのだろうか。
私は、アイララの手の上に静かに舞いおりた。
「……ありがとう」
アイララが囁く。手の指が閉じて、私を包み込むように握った。
「ああ……。こんなに傷ついてたなんてね……」
私は傷ついているのだろうか。なにひとつ、実感がない。
アイララの手の中はいつのまにか温かい水で満たされ、私はその中に浮かんでいる。小さな手のひらが、私を包む大きな隠れ家のようにも思えた。
「ほんとにいたんだ……」
マーユの声が聞こえた。
「マーユも、彼の存在はなんとなく感じてたんだね。そう、彼はいたよ、君のそばにずっと」
アイララの声。
「今夜は、一晩彼を温めて回復させるから。もう寝てて」
「そばで見てたい。起きてるよ」
「フフ、そうしたいなら」
手の中の水の空間に、泡が生まれて私をつつく。私は、その力に押されてくるりと水中で回転する。
知らない感覚がやってくる。力が入らない。周囲がぼやける。
これが、眠いということか……。
私の意識は、ゆっくりと闇に閉ざされていった。
☆★☆★☆
「彼の中に蓄えられていた記憶は、ぼやけたものが多すぎるし、大きく欠けているね……」
半睡半醒の意識のなかで、アイララの声を聞いている。
「でも、いちばん大事なところはおおよそ推測できる。簡単にいうと彼はおそらく、誰かに騙されて使われていたんだ。地霊ルズラヴェルムの監視役として」
「ルズラさんの……」
「マーユ、君は覚えているかい。小さい頃に見た、ナドラバという岩人の子供の遺体を」
「えっ」
マーユが絶句し、息をのむのが聞こえてくる。
「うん……覚えてる。金色の石のようになって、まわりが聖泥になってた……」
「そうだね、その記憶は羽くんの中にもある。彼は、あの遺体を守る地霊ルズラヴェルムを監視していた。その一環として、近くに住んでいた人間たち、つまり君たち一家も見張っていたんだ。そしていつのまにか君に惹かれるようになり、君のもとへ長く留まるようになっていった」
マーユがそれに答えて何かを言う。しかし、うまく聞き取れない。
「ふふ、理由は羽くんにもわかってないさ。ともあれ彼はレドナドルで一冬のあいだ君とあの子を見守り、あの子とルズラヴェルムがザグ=アインに旅立つときに、君のもとを離れて本来の監視役に戻った。そして2人とともにデエルレスクに向かい……」
ああ、そうだ。もうすぐ7歳になるマーユの轟くような泣き声。世界の終わりのような号泣。あの声を聴きながら彼女から遠ざかったのは、骨の子だけではなかった。
「……そして、そこで羽くんの記憶は、数ヶ月のあいだ途切れている。地面にあいた大穴のように、ぽっかりと」
そう。そうだ。ザグ=アインにいたという間のことを、私は何も……何も覚えていない。ただ、身震いするようなイメージが、ときおりかすかに現れては消える。
白い羽。空中に飛び散る、無数の白い羽。空に消えてゆく、いくつもの光。
しかし、それ以上のことは思い出せない。
「そして、羽くんはいつのまにか、君のそばに戻っていた。記憶の大半は、君のことだ。君が初等学校の1年の終わりに、本格的な大喧嘩をしたこと。そこで鼻血を出したのを、両親に隠し通したこと。こっそりゼージャを買い食いして怒られた日のこと……」
またマーユが何かを言っているが、それもうまく聞き取れない。
私を包む柔らかい水が、少しだけ揺れる。アイララの手が小刻みに揺れているのだ。おそらく笑っているのだろう。
記憶。私はこれまで、自分の記憶について考えたこともなかった。
私は、ただの見守る眼だった。そう、思い込んでいた。
そうでないとしたら、私は何者なのか。
意識を持った、人には見えない羽。そんな存在が、どこで生まれどうしてここにいるのか。
繰り返しそう考えるが、自分のなかに手がかりはない。
つるつるした壁を上ろうとするような、虚しい心のあがきのあと、私の意識は遠くなっていく。
「……大いなる、水の獣……」
アイララがつぶやくようにそう言う声が、聞こえたような気がした。その言葉は私の心を弦のように震わせたが、それきり私は、底なし沼のような眠りの中に落ちていってしまった。
☆★☆★☆
こうして私は、まるまる一晩、アイララに記憶を読み取られながら治療らしきものを受けた。
意識が回復したときは早朝だった。私はまだアイララの手の中にいたが、アイララ本人は焚き火のそばで倒れるように眠っていた。おそらく限界までマーユに私の記憶を語っていたのだろう。隣にはマーユが丸くなって寝ていた。結界石があるとはいえ不用心なことだ。
私はアイララの手を抜け出て、空中へ舞い上がる。こうして、意図して動くのはいつぶりなのだろうか。
朝日を受けて少しずつ赤らんでくるマドゥラス郊外の平原を、2人が起きてくるまでじっと見ていた。
もそもそと起きてきた2人の朝食は、なんとあの監禁部屋にあった焼きしめたパンだった。アイララが脱出時に持ってきたのだ。
「これでいいでしょ?」と言われたときのマーユの嫌な顔たるや、なかなかの見ものだった。
パサパサのパンを噛みながら、アイララは話し始める。
「羽くんの記憶から、マーユがマトゥラスでどんな感じの生活をしてたかはよくわかったよ。まあ何割かは、前から知ってたけどね」
「うう……」
しかめっ面でパンをちびちび口にしつつ、マーユはうめく。
「ただ、正直、ダンデロンの狙いにつながるようなヒントはそんなになかった。君らを打ち倒したのが、フードをかぶった毒矢使いだってことぐらいかな。なにしろ羽くんは、マーユがいない光景はほとんど記憶から消してるようなんだ。君らが毒矢にやられたあとどうやってあの倉庫まで運ばれたのかも、見ていたはずなのに記憶にない」
そうだ。その通りだ。言われてはじめて気づいた。私は何も覚えていない。なぜだ? なぜ、そんな貴重な情報を私は保持していない?
「誤解しないでくれ羽くん、君を責める気はまったくないよ。君は……おそらく、君を騙して使っていた何者かの影響によって、制限か、もしくは欠損を与えられているんじゃないか。だからデエルレスク以降の記憶が、まるごと欠けているんだと思う」
「ねえ、そこの記憶がないならなんで、騙されてたって言えるの?」マーユが不思議そうに聞く。
「うん、それは……ボクが羽くんの素性に、心当たりがないでもないからだよ」
アイララは、マーユの頭のすぐ上を漂う私をじっと見た。
「ねえ羽くん、取り引きしないか。本来の君が何者なのか、ボクなら情報を与えてあげられるかもしれない。だからその情報を得るため、君の協力がほしいんだ」
協力。協力と言われても、私にいったい何ができるというのか。
「ほら、マーユからも頼んで。マーユの言うことなら聞いてくれると思う」
「え、ええっ?」
マーユは困ったように首をかしげたあと、私がいるのと少しずれた空間を見上げながら、とつとつとした口調で言う。
「ええと、私にはあなたが見えないけど、お願いします。ジュールとリーカを助けたい。コボネの助けになって、コボネに会いたい。協力してください。お願いします」
そして、見当違いなほうにぺこりと頭を下げた。
「うんうん、いいお願いだね。羽くん、マーユのお願いを聞いてくれるなら、この手の中に下りてきてくれ」
私は思うが、このアイララという少女はかなり強引な性格をしている。なんというか、独特の押しの強さとマイペースさがある。
……そうだ、私はこの少女に少し似た性格の……駄目だ、思い出せない。
ともあれ私には、断るという選択肢はなかった。差し出された手のひらの上に、ゆっくりと落ちていく。
「うんうん、ありがとう。これで今日から始められるよ。マトゥラスに繰り広げられる陰謀を暴く、探偵活動をね!」
左手に持ったかじりかけのパンをなぜか空高く掲げながら、アイララはそう叫んだ。
次話は週末(土曜朝)になります。