第5話 指の火と勉学(黒羽)
ノール暦327年5月4週の週末。
ジュールやララスとともにエドラン工房を訪ねたマーユは、岩人の石職人リーカと出会った。そしてあれこれ交渉したすえ、結局、石の情報と引き換えに、リーカを中央図書館に連れていくことを約束させられた。
「成績優秀者グライ、ナンダ。勉強シロ。ソノクライノ努力、デキナイノナラコレマデダ」とリーカに言われ、うなずくしかなかったのだ。
心なしか悄然としたマーユは、工房からの帰り道、ジュールやララスと宵闇のスラム街を歩いている。
「ねえララス。次の定期試験っていつだっけ?」
「えっ……そういえば、いつでしたっけ」
マーユのいきなりの問いに、ララスは少し慌てた様子で答えた。
「もしかして、ララスもあんまり熱心に勉強してない?」
「……そうかもしれません」
「賢そうに見えるのにな」ジュールが先ほどのエドランと同じことを言い、マーユにじろっと睨まれる。
「まあ、できないもの同士でも、助け合いはできるはずですよ」
「……でも私、授業自体をあんまり取ってない。たぶん、それだけでかなり不利」
「そうですねえ……」ララスは考えこんだが、少しして、彼女にしては明るく笑ってみせた。
「それでも、頑張るだけ頑張りましょうよ。頑張ってもダメなら、他の方法を試せばいいんです」
「他の方法?」
「ええ。たとえば忍び込むとか」
「ハハハ、そうだな!」冗談と思ったのだろう、ジュールが愉快そうに笑う。
「忍び込む……。あの石を使えば、できるのかな」対してマーユは、わりと真剣な口調で独り言を言った。
ララスはそれを聞いて、少し驚いたような顔になる。
そのときジュールが急に足を止めた。
「おい! なんか来るぞ」
真剣な口調で2人に告げると、腰にぶらさげていた短い警棒のような武器を握り警戒の体勢になる。
マーユはさっとララスの手を取るとジュールの後ろに連れていく。そしてジュールと背中あわせに、ララスを挟むようにして身構えた。まだスラム街のなかで、あたりの建物はほぼ廃墟のようだった。
「人じゃないな。魔物か?」
びちゃ、びちゃ、と濡れた足音がする。しかし暗いスラムの街路には、それらしき姿は見えなかった。
「どこにいる? お嬢見えるか?」
「うん、なんとなく。……ジュール、目の前!」
「うす!」
紫色のぼんやりした影のようなものが、ジュールの顔めざして飛び込んでくる。ジュールは右斜前のそれにすばやく棒をふるった。びしゃり、と音がして、襲撃者は空中で破裂するように消える。
ぐっ、とジュールがうめいた。
「くせえ! 汚水みてえな匂いだ!」
ハッ、マーユが短く息を吐き、見えない襲撃者に得意の横蹴りを出す。紫の影はマーユの皮靴に一瞬まとわりついたあと破裂し、「うわ」とマーユは思わず後ずさった。
「弱いな」
「うん」
ジュールとマーユは淡々と言葉をかわす。
「ね、ねえ、なんでそんなに慣れてるんですか?」ララスが震える声で言った。
「レドナドルでも、たまにへんなのに襲われてたからな。おもにお嬢が」
「えっ……なぜですか?」
「わかんない。体質かも」とマーユはなんでもないことのように答える。
「お嬢、まだいるぞ」
ジュールがそう言うのに合わせるように、ぺしゃ、ぺしゃ、という足音がしはじめる。足音は急激に増え、マーユたちを取り囲むようにあたりに満ちる。相変わらず襲撃者の姿は見えない。
「ど、どうしましょう?」
「片っ端から蹴り倒す」
マーユはそう言うや前に出ようと踏み出し、ずるりと滑ってひっくり返りかけた。
「お嬢、こいつらぬめぬめしてるぞ。気をつけろ」
「気をつけろって……どう気をつけるの」
「あ!」とララスが大声を出した。
「火! 火が効きますよ! 油含んでるなら!」
「おお。……って、来てるぞお嬢!」
ジュールが、目の前でぶんぶん棒を振り回しながら言う。マーユは、ん、とつぶやくと横蹴りを出し、続いて回し蹴りでくるりと半回転した。破裂音が2回して、どろりとした水が飛び散る。
「……ああ、でも火なんてないですよね。混乱させただけです。ごめんなさい……」
ララスがおろおろと謝るのに、「大丈夫」とマーユは言うと、いきなり大きな声を出した。
<燃えるもの現れよ!>
マーユの両手の十本の指から、いっせいに細長い火が吹き出て火の棒のようになった。「おお!」とジュールが感嘆の声をあげ、ララスが息を呑んだ。
マーユはすすす、と前方の空間へ進みながら、伸ばした両手とその先の火の束を、すばやく前方に振っていく。ジュールはやや後方で、死角を消すため棒を奮いつつマーユについて進む。
前方の空間を炎の手刀で切り裂くようなマーユの戦い方は、効果抜群だった。ジュッ、ジュッと音がして、鬼火のようなものが燃え上がっては萎んで地面に落ちていく。戦いというより害虫駆除のようだった。
数分で、足音は消え周囲はふたたび静まり返った。
「……使いたくなかった、これ。疲れるし、馬鹿みたいだし」
大きく肩を落としてマーユがぼやくが、「久々に見た。すごいな、お嬢」とジュールは屈託なく褒め称えた。
「な、なんなんですか、今のは」呆然としていたララスが言う。
「<指の火>。火の魔術の基本だよ。これだけは使える」
「いや、指の火ってあんな魔術じゃないですよ! 驚きましたね……」
ララスはよほど衝撃を受けたのか、うつむいて考え込んでいる。
その手を、マーユは小さな子供のようなしぐさで引っ張った。
「ねえ、早く帰ろう。夕ご飯、食べそこねたら大変だよ」
☆★☆★☆
ノール暦327年も6月になり、マーユは13歳の誕生日を迎えた。
レドナドルの両親からは手紙と贈り物が届き、マーユは何日も悩みながら2人に返信をしたためた。
商業学校の最初の定期試験は6月末だと判明した。
成績優秀者にならなくてはならないマーユは、頑張ろうと心を決めたものの、どこから始めればいいのかもわからない状態だった。
そういったわけで、6月第1週の平日の放課後、マーユは空き教室を使ってサリーから勉強を教わっている。
「まあ、簿記ってこんな感じで進めていくの。わかった?」
「…………」
すらすらと説明するサリーの口元を、マーユは唖然とした表情で見ている。
「難しすぎる……」
「いや、真面目に授業聞いてれば、そこまで難しくないからね?」
「……信じられない」
「うーん……。やる気出してくれたのは嬉しいけど、前途多難すぎるなあ」
「……うう」
サリーとマーユは、それぞれ頭を抱える。
「私がずっと教えられれば、なんとかなるんだけど。ルグランジュで働かないといけないんだよね……」
「サリー、忙しすぎ」
「まあ、仕事は楽なんだけどね。メリネさんの傍にいて、仕事手伝いながらいろいろ覚える、見習いみたいなもん」
「ふーん」
「あ、そうそう! マーユ知ってる? メリネさん婚約したんだよ!」
サリーは浮き立った声になる。
「お相手はなんと……ダンデロン商会の、ベッグ・シナードさん!」
「えっ!?」
これにはさすがのマーユも驚いたらしく、ぽっかり口を開ける。
「両商会の若手のエース同士の婚約だもん。マドゥラスの商業界全体に影響があるビッグカップル誕生だよ!」
「でも、だいぶ歳が違うんじゃ……」
マーユがぽつりと言うのに、サリーはうんうんとうなずく。
「まあね。でもたぶん、差は10歳ないぐらいだと思うよ。メリネさんの歳のことはタブーだけど、たぶん40にはなってないと思う」
「えっ」
マーユの口がさらに開いた。
「……メリネさんのほうが、年上なの?」
「うん、たぶんね。……樹人って、成長が遅いんだよ。マーユ、知らなかったんだね」
「知らなかった」
「純血に近い樹人は、長いと200年ぐらい生きたりするんだって。こないだ亡くなった先代大公も、160歳ぐらいだったらしいよ」
「へえ……」
こうして2人の会話が勉強から完全に離れたとき、教室の扉が空いて若い男が顔を出した。
「お、マーユとサリーレ、まだ残ってたのか」
男の名はパウリ・ロガン。マーユとサリーレが属する組の副担任である。すっと伸びた身体に柔らかい顔立ち、そして熱意のある指導で人気のある教師だった。
「あ、ロガン先生。ここ、使われるんだったらどきます」と、少し上ずった声でサリーが答える。
「いや、ただの見回りだよ。もしかして勉強してたのか?」
「はい。マーユがやる気出してくれたので」
「おお、そうかそうか! 先生嬉しいぞ。マーユ、俺でよければいつでも教えるからな。サリーレは商会に通ってるからそんなに時間がないだろうしな」
パウリはうんうんとうなずく。一方、個人的事情まで知っていてくれているとわかって、サリーは溶けたような笑顔になっていた。
「マーユ、教えてもらいなよ! ロガン先生が面倒見てくれるなら、私も安心だわ」
マーユは少しうつむいて、黙っている。
「ハハハ、まあ教師に授業以外で教わるのは敷居が高いもんだ。気が向いたら声をかけてくれ。なんでも相談に乗るからな! ……っと、もう日が暮れるぞ、今日はもう帰りなさい」
「はーい」サリーレが少しだけ甘ったるい口調で答えた。
☆★☆★☆
「マーユさん」
寮の前まで帰ってくると、そう呼び止める声がした。
「ララス」
名前を呼びながら、マーユは立ち止まる。
ララスは低木の茂みに隠れるように、ひっそりとたたずんでいた。高い背を縮めるようにして心細げに立っている。
「一緒に勉強しようと思って、探したんだけど」
「ごめんなさい……。ちょっと用事があって」
「ふうん」マーユは少し口を尖らせた。ララスはそれを見て、ふふ、と軽く笑った。
「勉強はどうですか?」
「……絶望的。それもかなり」
マーユの暗い声に、やっぱり、とララスはうなずいて見せた。
「この商業学校の成績は、商人志望の若者にとっては人生を左右しかねないほど重要なものです。さすがに、にわか勉強でそれに対抗するのは無理があるのかもしれません……」
「そうだね……」とマーユはうなだれる。
「リーカには、正直に無理ですと言おうと思う。土下座すれば、なんとかなる……かも」
「マーユさんの土下座は見てみたいですけど……あの、別の手があるかもしれません」
「えっ」
「私、調べたんです。学校の生徒が中央図書館の通行証を手に入れるための、いろんな方法を……。で、望みがありそうなものを、ひとつだけ見つけました」
ララスはすっとマーユに近づくと、両手で右手を取り、両手のひらで温めるように握った。マーユは間近で見下される形になり、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「やっぱり、マーユさんには優れた魔術の素質があると思います。……魔術研究所の助手を、やってみませんか」