第3話 猫背と工房(黒羽)
マーユがその少女にはじめて会ったのは、5月3週の週初め、ジュールと屋台めぐりをした翌々日の夕暮れ時だった。
マトゥラス商業学校の授業は選択制だが、マーユは最低限の授業しか取っていない。夕暮れ時になると時間を持て余すことになる。だからといってそうそう学校外には出られない。申請書類を書いて許可を得ないといけないからだ。
結局マーユは夕飯前の時間、修練場と名付けられた学校隅の空き地にいることが多かった。
商人志望の子供が集まる学校なので、身体を動かす訓練に熱心なものは皆無である。修練場はたいてい無人だった。マーユはそこで黙々と徒手武術の型をやるのが日課になっている。
彼女の武術はレドナドルの小さな道場で初級だけを学んだ無名の流派のものだが、母親のラホですら、彼女が武術に執着しずっと型稽古を続けていることを知らない。
「あの……」
マーユが中段蹴りを終えて右足を引き戻したときに、後ろから弱々しい声がした。
「これ、落としませんでしたか」
マーユはやや面倒くさそうに声の主を見た。ひょろっとした体型の制服の少女が肩をすぼめるようにして立っている。ほっそりした顔にはこれといって特徴がなく、暗い栗色の髪はお下げに結われていた。その右手のひらに乗っているのは、紐付きの小さな革袋だった。
マーユはぎょっとして自分の首元に手をやり、上着の下に隠れていた袋を引っ張り出す。彼女が大切にしている袋はちゃんとあった。
それを見て、背の高い少女は申し訳なさそうな顔になる。
「あ、違いましたか……。ごめんなさい。よく似ていたので、てっきり貴女のものかと……」
気弱な微笑みを浮かべて謝る少女に、マーユは首を振ってみせる。
「いい。本当によく似てるし」
「ええ。革袋ですから似てるのは当たり前ですけど、縛り紐までそっくりですね……」
少女はそう言うと、手に持った袋をマーユの小袋にちょっと近づけてみせた。たしかによく似ていて、下手すると取り違えそうなほどだった。
「中は?」 とマーユが訊ねる。
「見てません。落とした人に悪いですから。でもちょっと重いので、お金か宝石が入っている可能性もありますね……」
その言葉を聞いて、マーユの眉が少しひそめられた。
「そう。なら、はやく届けないと」
「はい……。これから事務に届けます……。すみませんでした」
猫背をさらに丸めるようにして、少女は不器用にお辞儀をして立ち去ろうとする。マーユはその背中に「私も行くよ」と声をかけた。
「いえ、それは申し訳ないです……。あの、それに」
「なに?」
「こちらに歩いてこられているのは、貴女のお友達じゃないでしょうか……」
言われて校舎のほうを見ると、サリーがさらさらの金髪を揺らしながら、早足で修練場に近づいてきているのが見えた。自分は遅くまで授業を受けながらも、彼女はいつもマーユを気にして放課後に会いに来ることが多い。
サリーのほうに手を挙げて軽く振ってから、マーユは少女のほうを振り向いた。
少女の姿はもうなかった。
マーユはわずかに戸惑った様子で首をかしげた。
☆★☆★☆
翌日のマーユはずっと、校内を歩きながら何気なしに周囲を見回していた。しかし背の高い少女の姿は見つけられなかった。
その日も授業の予定はそうそうに終わり、マーユはまた修練場で型をやっている。激しく身体を動かしながら、鬱屈しているときに見せる、貼り付いたように無表情な顔をしていた。
「あの……」
昨日と同じように、後ろから弱気な感じの声がかかる。マーユはくるりと振り向いて背の高い少女に相対した。
「昨日は……お手数かけました。無事に届けてきたので、ご報告をと……」
「お手数なんてかけてない。頭、下げる必要ないよ」
お辞儀する相手に、マーユはちょっと呆れたように首を振る。
「それより……中身はわかった?」
「はい。ちょっとした硬貨と、石がいくつか。上級生のものじゃないかと、事務の方はおっしゃってました」
「石……」 マーユは小声で呟く。
「はい。でも、宝石とかじゃないです。土産物の材料になるような、きれいだけど安いものですね」
「事務の人がそう言ったの?」
「いえ。あの……私の家は、ずっと北西のほうにあるんですけど、石とかを売り買いしてるので。小さい頃から石は見慣れてますから、見たらだいたいのことはわかります」
それを聞いて、マーユは小さく口を開けたまま固まった。「あの……?」と少女が声をかけても動かない。
「……ちょっと待って。考えるから」ようやく口が動いた。
「……は? は、はい……」
猫背の少女は曖昧にうなずくともじもじと身をよじり、マーユの次の言葉を待つ体勢になった。
「……お願いがある。いまははっきり約束できないけど、ぜったい受けた恩は返すから、できれば協力してほしい」
「は、はあ……。同じ学校の生徒ですし、できることならやりますが……。あんまり無茶なのは……」
「石について詳しい専門家を知っている?」
「えっ……マトゥラスで、ですか? えーと……あの、はい、直接の知り合いではないですけど、家の知り合いなら」
「お願い。その人を、なんとか紹介してほしい」マーユはすっと頭を下げる。
「えっ……。は、はい。石についてお困りなんですか……?」
「いまは話せない。専門家に会えたら、話せるかもしれない。こんなお願いの仕方で、ごめん」
「いえ、事情があるんでしょうから、いいんですけど……。あの、それより」
少女はマーユの顔を下から覗き込むようにして、内気な感じの微笑みを見せた。
「まずは……お互い、自己紹介しませんか?」
「あ。ごめん、気が焦って」マーユは情けなさそうな渋面になった。
「私はマーユ・ドナテラ。レドナドルから来た」
「はい……。実は、知ってました。マーユさんはけっこう目立ちますから」
「そう」とうなずくが、マーユは自分の知名度には何の関心もないようだ。
「私は、逆なんです。昔から地味で、目立たなくて……。名前はララス。ネート商会の三女です」
☆★☆★☆
首都マトゥラスにも貧民街はある。
というより、都市の半分ほどは豊かとも清潔とも言い難い下町でありそのさらに半分が実質的な貧民街なので、都市のかなりの地域が貧民街であるといえる。とくに毒の地ドゥラカスに近いほう……都市の最南部はほとんどが劣悪な環境にあった。
ララス・ネートが紹介した石工の工房は、そういった南部貧民街の中では比較的治安のいい地域にあった。
それでも路上には生ゴミや紙くずや何かの脂が散乱し、老朽化した汚れた壁の建物がひたすら並ぶ狭苦しい路地には生臭い匂いの風が吹いている。
「いやな匂いだ」とジュールは黒い鼻面を盛大にしかめる。ノール暦327年、5月第3週の週末の正午。マーユと豹頭の獣人ジュールは、ゆっくりと貧民街を歩いていた。
「ジュールはドゥラカスじゃ暮らせないね。あそこは、もっと臭かったよ」とマーユ。
「そりゃ俺には無理だな。俺の種族は鼻がききすぎて困る……。お嬢、本当にそのララスとやらは信じられるのか」
「わからないけど……たぶん」
「大丈夫か、おい」
「なんとなく、いい匂いしたから」
マーユの言葉にジュールは「なるほど」と唸るようにいい、それきり黙った。
しばらく歩くと汚れた路地の道はどん詰まりになる。2人は不安げに周囲を見回した。
「……お嬢。ここじゃないか」
「ここ? 倉庫じゃないの?」
「見ろ。ここにエドラン工房と書いてある」
ジュールが指差したのは、半地下になっている無骨な石扉の前だった。たしかに倉庫としか思えないほど何の飾りもなく、短い下り階段の横に、工房名が書かれた金属プレートが一枚貼られているだけである。
「どうやって中の人を呼ぶんだろう。扉、叩いてみようか」
「待てお嬢。ここに溝がある」
「溝? ……本当だ。下にプレートが……紹介状をここに入れろ、だって」
「紹介状?」
「これだよ。ララスがくれた」
「入れてみろ。……なあ、こういうのわくわくしないか、お嬢」
「えっ。しないよ」
「残念だ」
メリネからもらった手紙を開封しないまま入れると、溝の向こうからピーッとかすかな音がするのが聞こえたが、それきり長い間、何の反応もない。
気が長いほうでないマーユが少しばかりイライラしはじめた頃、ようやく扉が横に少しだけ開き、「入れ」と声がした。
身体を横にして狭い隙間を通り中に入ると、がっしりした人物が待っていた。
「来たナ。俺がエドランだ」
淡い緑色の顔を持つ岩人は、重々しく低い声でそう言った。
☆★☆★☆
エドランの工房はそれなりに広く作業台らしきものがいくつも並んでいたが、エドラン以外に人影はなく、灯りも落ちてひっそりと静まり返っていた。
唯一明るい奥の一画には小さなテーブルが置いてあり、そこにマーユたちを座らせると、エドランは立ったまま軋むような声で言葉を発した。
「最初に言っておク。こコのことハ、よそデしゃべるナ。誓エ」
「……わかった」
マーユはすぐにうなずいた。エドランはジュールのほうを向く。
「オマエは?」
「ということは、ここは真っ当な工房じゃないんだな?」
ジュールは首をかしげながら言う。
「失礼な小僧ダ。俺が真っ当であろうガなかろうガ、オマエに何の関係ガあル」
「それはそうだ。うむ、誓おう、誰にも言わん」
そう潔く答えたはいいが、しだいに不安になってきたらしく、ジュールは落ち着かなげに身動ぎするとマーユの耳元でささやく。
「(おい、おいお嬢。本当に大丈夫なのか、いろいろと)」
「人の目の前でヒソヒソ話すナ。サア、さっさト用事を言エ。頼み事があるンだろウ?」
マーユは少しだけためらったあと、首から下げていた小袋を外し、口を縛っていた紐をほどいていくと中身をテーブルの上に出した。
それは透明な石のかけらだった。わずかに桃色がかっている。一方の端がすっぱりと欠けていて、マーユの手のひらのくぼみに収まるぐらいの大きさしかない。
「ほウ……」エドランが小さく声を発した。
「これについて、調べてほしい。知りたいことは3つ。まず、この石がどこで取れる、なんていう石なのか知りたい。……知ってる?」
「手に取るゾ。いいカ?」
「うん」
エドランは太い指で結晶をつまむと、しげしげと眺める。
「……やはリ、見たことガない石だナ」
「そう」マーユが声に落胆をにじませる。
「なんとカ調べてみるサ。数日間、預かるガいいナ?」
マーユは黙り込む。「帰るか、お嬢」とジュールが口をはさんだ。
「ううん。他にあてがない。……わかった。一週間後にまた来る」
「おウ。で、調査の報酬ハ? さすがニ、タダじゃ仕事はできねえゾ」
マーユは傍に置いた鞄から、指輪入れほどの大きさの小箱を取り出した。開いて見せる。中には少量の、輝く黄色い砂が入っていた。
「これが報酬」
「聖泥……! こりゃア……十分ダ。やる気がでたゼ」
エドランは、魅入られたように小箱の中の輝きを見つめている。
「知りたいことは3つある。でも、1つでも調べてくれたら、これをあげる」と、箱のふたを閉じながらマーユが言う。
「甘い条件だナ。残り2つヲ言いナ」
「2つめは、その石の残りのかけらが、どこにあるのかを知りたい」
「なんだト……? それはまた、無理難題だナ」
大きな手のひらに乗せた石をためつすがめつしながら、エドランは心なしか顔をしかめた。
「うん、それはわかってる。でも……」
「フン、まあイイ。残りハ?」
マーユはエドランの手の中の石に視線をやって目を細めた。
「最後に……。その石が光っている理由を知りたい」
「ハ?」
エドランが驚いたような素っ頓狂な声を出した。工房の奥で何かが、ガタンと音を立てた。
「光ってル? ……光ってないゾ?」
「うむ、光ってない」と、ここまでしばらく黙っていたジュールがうなずく。
「だが、お嬢には光って見えるらしい。不思議だな」
「なんだソリャ……」
「去年の暮れに、急に光りだした。なぜ光るようになったのか、それを知りたい。どうしても」
「えエ……?」
エドランは心底困惑した様子で、緑色の頭に手をやりガシガシとこすった。