第2話 学校と再会(黒羽)
ノール暦327年5月1日。
マーユ・ドナテラは入学式を済ませ、正式にマトゥラス商業学校の生徒となった。
様々な種族が共存する国だけに、マードゥ混成国の教育制度は専門校を主としている。戦闘術、職人技能、種族ごとの基礎教育、歴史や音楽と、専門は多岐にわたる。それらの学校はマードゥ各地に点在しているがみな規模が小さく、学校というより塾といったほうがいいぐらいだった。
多くの子供が親の職業を継ぐためそれぞれに合った小さな学校に通い、3年ほどで卒業して社会に出てゆく。
首都マトゥラスにある商業学校は、そういった専門校のなかでもっとも大きく権威のある学校であった。
生徒数は現在120人ほどで、これはマードゥの学校としては抜群に大きい規模である。
環境でも他校とは一線を画していた。
マトゥラスの中心であるマードゥ大公の宮殿から、歩いて数分のところにある。もと貴族の邸宅だったという中庭つきの古い屋敷を買い取り、まるごと校舎と寮にしている。隣はホルウォート有数の図書館といわれる国立図書館で、貴重な文献が多いため一般の立ち入りを許していないのだが、商業学校の成績優秀者は無条件で出入りすることができた。
マトゥラス商業学校がこのように恵まれた環境にあるのは、ダンデロンとルグランジュの二大商会の力によるところが大きい。
代々の大公家に深く食い込み牽制しあいつつマードゥの商業を支配するふたつの家と、彼らと取引する者たちにとって、この学校に子弟を通わせ若い頃から人脈を作っていくのは必須であった。
だからこそ惜しみなく金を投下してきたし、特別扱いしてきた。それを大公家もマトゥラス市民たちも当然のことと認めていた。
現在では商業学校の生徒は半分以上が二大商会の関係者の子弟である。受験はない。複数の推薦によって入学が許可される、お手盛りの仕組みであった。
入学式の翌日、夕暮れ時。
マーユは商業学校の中庭のベンチに座り、両手を上に伸ばして身体をほぐしていた。
「んー、んうー……」
低くうめきながらしかめっ面をする。
「なんて顔してんの、もう!」
サリーがベンチに歩み寄りながら低く叱るが、マーユは両手指を組み合わせ、一層ぐっと伸びをして見せた。それから、くてっと力を抜く。
「まだ眠い……」
「授業初日から熟睡しないでよ。もう恥ずかしいったら……」
「お腹すいた」
「はあ……。どうしたもんかな、この子」
マーユの隣に腰掛けたサリーはため息をつき、小さな飴を1個マーユの手のひらに乗せた。
「おおー」
「ね、せめてもうちょっと、こう、取り繕えない? 挨拶に来てた子けっこういたけど、みんな呆れて帰っていったよ」
「んー」
マーユは飴を口に放り込むと、舌で転がしながら生返事をした。サリーは黙ってマーユの言葉を待っている。彼女は、時間がかかっても、マーユが必ず答えを返してくれることを知っている。
「私がここにいるのは……」
しばらく空を見て考えたあと、マーユはぽつぽつと言葉を発する。
「勉強するためでも、知り合いを増やすためでもないから。……ここに、閉じ込められたんだ」
「ああ……。やっぱり、そうなんだね」
「ザグ=アインに行けないように」
マーユはザグ=アインがあるであろう南西のほうに視線を向けた。
が、雪山の姿はもちろん見えない。
かわりにマーユの視界をふさいでいるのは、天を貫くように上空に伸びる、けたはずれの巨樹だった。
「始原樹」と呼ばれるこの樹は大公宮殿の中心にあり、マードゥの象徴として、また信仰の対象として名高い。
「そっか、レドナドルよりマトゥラスのほうが、ザグ=アインに遠いもんね。それに街には壁と門があって、出入りはチェックされるし、寮にも門限があるし」
「うん。わかってたけど逆らえなかった。パパに全部手配されて。ママに泣かれて」
マーユは飴をもごもごと口中で転がし、始原樹を見上げつつまた少し黙った。それから小さな声で呟いた。
「どうしたもんかな……って、私も思ってる」
「学校生活、楽しもうよ。動機はともかく来ちゃったんだもん。おじさんおばさんもそれを願ってると思うよ。そうでしょ?」
「……もうちょっと、考えてみる」
マーユの返事に、そっかあ、とサリーは小さく言ったきりだった。マーユとともに楽しい学生生活を送ることを、半ば諦めたかのような口調だった。
「……でっかいね」
「うん」
そう囁きあいながらふたりは並んでベンチに座り、空を覆う始原樹を見上げている。
樹人の始祖にして「最初の七」の1人、初代大公マードゥがこの地に最初に植えたと言い伝えられる樹は、夕陽に照らされてあざやかな陰影を作っている。
その影はマトゥラス市街を四分の一以上覆うほど大きかった。ふたりが座るベンチのあたりも影に包まれ、あたりは急速に夜になっていく。
圧巻の情景の中で、マーユはぼそりと呟いた。
「……お腹すいた」
「飴、もうないよ」
☆★☆★☆
入学式から数日経った午後。
マーユは小綺麗な室内でソファに浅く腰掛けている。
「久しぶりだねー、マーユちゃん! お姉さんのことおぼえてるかな?」
低いテーブルの向こうで微笑みかける女性に、マーユは眉ひとつ動かさなかった。
「覚えてます。だから挨拶にきたので」
「アハハ、それもそうだね! 3年ぶりぐらいかなー。綺麗になったね、マーユちゃん!」
「……」
マーユはただ黙って頭を下げてみせた。
素っ気ないマーユの仕草にも、その女性……メリネ・ルグランジュは気にした様子もなく、柔らかい笑顔のままでいる。
「それにしても、今日はサリーレちゃんと一緒じゃないんだね」
「はい。ドナテラ家の一員としての挨拶なので」
たんたんと答えるマーユに、メリネはなるほどーと軽く相づちを打った。
2人がいまいるのは、ルグランジュ商会本店の奥の応接室である。
メリネ・ルグランジュは6年前にドナテラ農園に現れたときと、少しも変わっていないように見える。相変わらず十代半ばのような初々しさを漂わせていた。紺色のかっちりした上着に長いプリーツスカートという、女学生のような服装も昔のままだ。
「で、今日はどうしたのかな? ダニスさんからよろしく頼むと手紙をもらってるから、なんでも相談してよ」
「いえ。本当に挨拶に来ただけです」
「ほんとに? 困ってることない?」
「相談するほどのことは、なにも」
やれやれ、とメリネは少し肩をすくめて見せる。
「私、もしかして、あんまり信用されてないのね?」
「はい」
マーユは考えるそぶりもなくそう答える。子供らしい率直な物言いに、さすがのメリネも苦笑する他ないようだった。
「こっちは好感持ってるんだけどなー。サリーちゃんと仲良くしてくれてるのも嬉しいと思ってるんだよ?」
「ダンデロンのベッグさんからも、同じことを言われたことがあります。悪意なんてないどころか好感すら持っている、ただ全ては仕事だからって。仕事であれば、また私の身柄を取りにいくだろうって」
あー、とメリネは首を振った。馬鹿な人ね、と言いたいようだった。
「私も商人の娘なので、そういうものだということは知っています。だからそういうお付き合いしか望みません」
「あはは! さすがダニスさんの娘さん、その歳で聡明すぎだわ。じゃあこちらも気張らずに、無償で提供できるような小さなことをいくつか提供しましょう」
「……小さなこと、も必要ないのですが」
「まあまあ、あのね、マトゥラスのおいしい屋台の場所……知りたくない?」
「……」
マーユが小さく口を開けて固まる。それを見たメリネは、けらけらと笑いだした。
「ほらほら、忘れずメモ取ってね。まずは……」
語りだすメリネに、マーユはあわてて鞄から手帳を取り出しメモを取りはじめた。
☆★☆★☆
「お嬢」
低い、うなるような声がして、マーユは振り向いてそちらのほうを見た。
右手は押し固めた肉を刺した串……食べかけのゼージャ(棒詰肉)を握っている。
ノール暦327年5月2週の夕方。メリネ・ルグランジュとの面会から数日、マーユの入学からは半月が過ぎている。
脂と煮こごりでテラテラになった唇を軽く舐めてから、マーユは不満げに眉をしかめた。
「いつも思うけど、その呼び方かっこ悪い」
「仕方ない。そういうものだ」
耳を軽く動かしながら答えたのは、豹型の獣人の少年だった。やはりゼージャを手に持っている。
麻の薄いシャツと短い下履きという軽装で、靴だけが重たい鉄靴である。漆黒の毛並みは粗末な服よりよほど暖かそうだった。
2人がいるのはマトゥラスの下町繁華街の路上。ずらりと並んだ露店に多くの客が並び、肉を焼く煙や蒸籠から漏れる蒸気で空気は濁っていた。
少年の名はジュールという。
6年前、骨の子にむりやり乗ろうとして何度も騒動を起こした子供である。16歳になっていた。
骨の子の騒動で一家が転職と引っ越しを余儀なくされると、ジュールは家庭内で厄介者扱いされるようになった。
初等学校にもしだいに通わなくなり、路地裏でたむろしては通行人を脅して小銭を稼ぐ一味に加わると、家にほとんど帰らなくなっていった。
「……悪さ、してないよね?」
「してないぞ。毎日走ってばかりだ。悪さする暇なんてない」
いったんグレたジュールは現在、マードゥ大公が抱える軍の兵舎に住み込み、兵士になるための修行をしている。
そうなった理由はマーユにあった。326年の暮れ、家出したマーユに同行し、彼女を背に乗せてザグ=アインに向かおうとしたのが問題になったのだ。
ダニス・ドナテラを決定的に怒らせてしまったジュールは、マーユから引き離すために首都の兵舎にぶちこまれたが、結局その数ヶ月後にマーユもマトゥラスにやってきて、ふたりはこうして再会することになった。冬の間に娘を改心させられると考えていたドナテラ夫婦にとっては大きな誤算である。
「で、お嬢、手がかりは?」
「まだなんにもない。……学校、思ったより忙しいし。大人に頼るのは、なるべく避けたいし」
ゼージャをもしゃもしゃ食べながら、マーユは答えた。
「中央図書館はどうなんだ。たしか、お嬢の学校の生徒なら入れるんだろ」
「成績優秀者だけだって」
「お嬢は?」
「…………」
マーユは答えず、屋台のほうを見やりながら黙って肉を咀嚼している。
「駄目だな。買い食いに来る時間があるなら、勉強すべきだ」
「何言ってるの。買い食いは大事。勉強より大事だよ」
「……まあ、それもそうか」
ジュールはゼージャをはむはむと噛みながら、あっさり頷いた。
「ジュールは? 詳しそうな人、見つかった?」
「いいや。全く」
「どうしたもんかなあ」
マーユは慨嘆したあと少し黙り、「もう少し待ってて。もっと、いろいろ考える」と小声で言った。
「わかった」 ジュールは低い声で同意する。
そこで話は一段落し、マーユは首から下げている小袋を握ると、ジュールのほうへ持ち上げて見せた。ジュールは小袋に尖った鼻を寄せ、ふんふん、と嗅いで少し笑った。妙な光景だが2人は平然としている。
「大丈夫だな。力を感じる」
「……そう。よかった」
マーユも笑顔になると、きびきびした動作で屋台のひとつを指差した。
「2本目。あの店に行こう」