第16話 記憶と治癒のスープ
「残念ながら、今日売ってもらえたのは桶二杯だけ。また仕入れてくれるようにお願いはしといたけどネ。だから大事に使わなきゃ、このミルクは」
「なるほど……では、少しの量だけでもう一度試作をしましょう。たくさん作ってまた失敗したら、目も当てられませんかラ」
ライダナさんとフェイデさんがうなずきあう。市場に出かけて臭みの少ない羊の乳を買ってきた日の午後、祭殿の台所にはまた巫女二人と僕とリーカが集まってる。
リーカは毎日ここに来てるけど仕事はいいのかな……と思ったので聞いてみたら、ボルクさんからもらったハルエリートの残りがあるのと、舌作りの仕事で祭殿からも報酬をもらったのでかなり余裕ができたそうだ。
このミルクもそうだけど、ルズラさんには経済的負担をかけっぱなしだ。現金は持ってないけどダニスさんから押し付けられた聖泥が一袋あるので、いずれそれを受け取ってもらおうと思う。
昨日と同じように玉ねぎを刻んで炒める。
「今日は御子がいわれたように、バターを使ってみますネ」
フェイデさんが言うのにうなずく。昨日のあのスープは臭みの問題は抜いても、あっさりしすぎてコクがない気がしてたんだ。
フェイデさんがバター(これもデエルレスクじゃかなり高いものらしい)でじっくり玉ねぎを炒めてる間に、ライダナさんはポレントーニとバルレリを刻んでゆく。僕とリーカは、ジャルリープの皮を剥き小さめに切る作業だ。
「やっぱり! 御子は料理ノ経験がおありなんですね。手つきが初心者じゃないですヨ!」
ライダナさんが嬉しそうに口にした言葉に、僕は皮むきナイフを持つ手を思わず止めてしまった。不意をつかれた。
そうだ。そうだよね。
僕は骨になる前、たぶん、生きてる子供として生活してたんだ。料理ができる、ってそういうことだ。
その事実が、ライダナさんのなにげない言葉でぐいと突きつけられた気がした。
僕は……どこの誰だったんだ。
何回目だろう、答えの見つからない疑問に沈んでいってしまう。
ライダナさんは僕の動揺を読み取ったのか、慌てた様子で口を開いては閉じてる。
「ライダナさん、皮むき上手くできないヨ。教えテ」
そこにリーカが声をかけた。ライダナさんは救われたようにリーカに向き直る。
「腕利きの職人さんなのに、なんで料理は不器用なのヨ……」と言いながら、リーカに寄り添って指導しはじめる。場の雰囲気が、元通りに戻っていった。
ライダナさん、リーカ、気を使わせちゃってごめんなさい。
僕らが下ごしらえを終えるころには玉ねぎも炒め終わり、ブイヨンを注ぎ入れポレントーニを加えて少し煮込む。ジャルリープは巫女二人の激烈な議論のすえ、今回は後入れになった。
僕が用意した水もこの試作では使わない。まず、ナドラバの家の味をきっちり再現したいからね。
ポレントーニに火が通ったら鍋を火からおろして慎重にミルクを注ぐ。塩コショウとジャルリープを加える。火に戻してかき混ぜながら温める。今日も僕がかき混ぜ係だ。
昨日とは匂いが違う。きつい獣の匂いがほとんどない。時々味見するフェイデさんの顔も満足げだった。
ジャルリープが柔らかくなれば出来上がりだ。スープ皿に取り分けて、バルレリをたっぷり散らした。
僕のなかのナドラバが待ちきれずソワソワしてるのがわかる。
「味見してたからわかりますが、今度は間違いないです。素晴らしく美味しいですヨ! サア、御子、どうぞ!」
フェイデさんがスプーンに盛ったスープを、僕の口元に差し出してくる。
僕は……いや、僕のなかのナドラバだろう、期待に小さく震えながら、口を開けた。
とろっとした液体が、舌の上に落とされる。
ぴたり。
ぴたりだ。
カチリ、と全てがあるべき場所に嵌まった。
寸分違わず、なにもかもが、ナドラバの記憶のスープと同じだ。
僕のなかの消えそうな記憶がいま、現実の味と完ぺきにつながった。
クォォォォォォォ……。
自分の喉から、出るはずのない声が漏れている。なぜか、唱えてもいない奥義が発動してる。
僕の左眼に、いろいろな映像が乱れ飛ぶように映ってゆく。
忘れてたはずの、ナドラバの両親の顔。土下座するルドグ。ドナテラ農園の寝室の天井。そして光。全てを超越して輝く、貴石の光の群れ。かすかに……かすかに見えたような気がする、赤い光。
ナドラバの記憶。僕からも、ナドラバ本人からも、見えなくなってたたくさんの記憶。それがいま、僕の眼のなかを次々に通過して……そして、どこかへ消えてゆく。
僕は、理解した。
いまがそのときなんだね、ナドラバ。君はいま、僕の心から消えてゆく。
温かい、とても温かい感情が、僕の心に生まれて何かを語りかけてる。
君は……満足してくれたのか。そうなのか、ナドラバ。
左眼の映像は、少しずつ曖昧になり、奥義は静かに発動を終えた。
僕に残ったのは、ナドラバが最後に残した温かい感情だけだ。
頬が冷たい。
僕の両目からは、流れないはずの涙が流れ落ちてた。
☆★☆★☆
黙って泣いてる僕を、女性陣は何も言わずに放っておいてくれてた。
しばらくして落ち着くと、僕は石板を出し、ただ<ごめんなさい。ありがとう。>と書いた。
「いいんですヨ! 泣いてらっしゃる御子はとてもかわいかったですよ!」
ライダナさんはそう大声で言いながらタオルを出して僕の顔を拭いてくれる。そのどこかおかしな発言がいかにもライダナさんらしくて、笑いそうになる。
「ナドラバ兄ハ……?」
リーカが小声で聞いた。僕は少し考えて、迷って、<もう、いない。>と正直に書いた。
「ソウカ……。ナドラバ兄、喜んで、くれたんだネ」
僕は小さくうなずいた。そして、僕のせいで、みんなのスープがほとんど飲まれないまま冷めかけているのに気がついた。
あわてて、<せっかく完成したスープ、みんなで飲みましょう。>と書く。
「そうですね、では少し温め直しますヨ」
フェイデさんがキビキビと動きはじめ、僕たちはあらためて熱々のミルクスープを味わった。ナドラバが惚れ込んだだけのことはある。まろやかで上品なスープは、掛け値なしに絶品だった。
スープを絶賛しながらライダナさんとフェイデさんはさらに人参を入れるべきかどうかについて激論をかわし、その横でリーカは母親に持ち帰るためにレシピを書き留めていた。
☆★☆★☆
リーカが帰っていったあとの夕方の台所で、僕と巫女二人はあらためて顔を合わせてる。
これから、ルズラさんのためのスープを作るんだ。
「御子が作ってくださった水の使い方、いろいろ考えましたガ……今回はあのミルクスープなので、ただの水は使いにくいのです」
「でね、フェイデと一生懸命考えたんだけど、ブイヨンに御子の手を加えてもらったらどうかっテ」
……なるほど。そうだよね。あの水からブイヨンを作るのは大変だ。だったらブイヨンの状態で僕が手を入れる。……いや、料理に近い状態になったものに手を突っ込むのは、ものすごい抵抗があるんだけど。
あるんだけど……今更かなあ。
手を念入りに洗う。石鹸もつけないようにしてひたすら洗う。そして、鍋に入ったブイヨンのところへ行く。冷たい状態だけど、温めたほうがいい気がするので湯気が出る状態まで温めてもらう。そのぶん料理に近づいて抵抗感も強くなるけど、もういいや。
えいっと鍋に右手を入れる。僕は熱にはわりと鈍感なので、とくに熱さは感じない。巫女さんたちは申し訳なさそうなそれでいて面白そうな、微妙な顔で僕を見てる。僕も恥ずかしくてなんとなく罪悪感があって、微妙な感じだ。
……でも、このブイヨンは、ルズラさんを毒から救えるかもしれないんだ。そうだ。微妙な気持ちで作るものじゃないんだ。
ルズラさんがデエルレスクでどんなに重要な存在か、この町に来て実感した。なのにルズラさんは、ナドラバと、いつ訪れるかわからない僕のために、十年を地下で費やしてくれたんだ。どうしてそこまでしてくれたのか、実はいまでも僕にはわからないところがある。転生の力がそんなに大事なものなのか、って疑問もある。
でも、僕はルズラさんに返しきれないほどの恩を感じてる。そして、ルズラさんに大きな親しみを感じてる。どこまでも生真面目なあの人を助けたいと思ってる。
だから、僕に癒やしの力があるなら、この液体に移れ。そう一心に念じてみる。
僕の力よ、琥珀色のブイヨンにこもれ。
……はっと気がついたら、巫女さんたちは真剣な目で僕を見つめてた。どうしてそんな目をしてるの、と首を傾げようとして、身体がふらつくことに気がつく。
「御子! もういいですヨ! すごい集中力……圧倒されちゃいました!」
「さあこちらへ、少しお休みくださイ!」
巫女さんたちは僕の両手を取り、椅子に連れていってくれる。タオルで右手を拭きながら、僕はぐったりと腰を下ろした。短時間鍋に手を入れただけなのに、なんでこんなに消耗してるんだろう、僕は……。
ライダナさんはブイヨンの鍋をのぞきこみ、やけに緊張した様子でこくんと喉をならした。
「ねえフェイデ、尋常じゃない気配ヨ、これ……」
「……味見してみましょウ。ほんの少しよ、わかってるわね」
二人は慎重な手つきで小皿にブイヨンを取り、そろそろと口に近づけて舐めて……凍りついたように動きを止めた。
「……ねえフェイデ、聞いテ。……指のささくれ、一瞬で治っちゃった……」
「ライダナ、私はもっと凄い。持病ノ肩こり、きれいに消えてるのヨ……」
二人は僕のほうを見て、やけに怖い顔をしてる。
「御子、このブイヨンの作り方は、この祭殿から外へいっさい漏らすべきではありませんヨ。これは凄まじいものです、御子のお力は絶対に隠すべきですよ」
フェイデさんは首を振りながら言う。
「御子、くれぐれも安易に、水のなかに手を入れないようにネ!」
ライダナさん、それは無理があるんじゃないかと……。僕、手も顔も洗えずお風呂にも入れないの? まあ実際、たまに水を浴びるだけでお風呂には入ってないんだけどね。
「と、ともかくこのブイヨンなら、ルズラ様もきっと……! ライダナ、すぐ作るわヨ。桶のミルク全部使うわ」
「御子はそこで休んでてネ! 私たちに任せて!」
ライダナさんとフェイデさんはきりっとした顔になると、それきり一言もしゃべらず動きはじめた。ただでさえ料理上手なうえに同じ料理を作るのが三度目で、しかも気合が入りまくってる。テキパキなんてレベルじゃない、機械みたいな正確さだ。いままでやってなかった細かな下ごしらえも加えてる。
鍛えられた踊りを見てるような二人の料理風景に、僕はただ見とれてた。
☆★☆★☆
「そうかあ……。スープ、がんばって作ってくれたんだね。でも、ルズラはいま、だいぶ……スープを飲める状態じゃないんだ……」
奥の部屋をノックするとネテラさんは部屋の外に出てきた。そして、暗い顔でそう言った。
……え。
ルズラさん、そこまで悪いのか。
「地霊だから、命の心配はないと思うんだ。だけど……相当時間がかかりそうで、今はね……ごめんね。飲める状態になったら、お願いするから……」
フェイデさんが持ってる、水差しの乗ったお盆を申し訳なさそうに見ながら、ネテラさんは言う。
「で、でも……あの、このスープは本当に……本当に治癒の力が凄くて……少しだけでモ!」
ライダナさんが、頭を下げて頼む。
「うん、そうかもしれない……。でも、地霊って普段はもの食べないから、食べるのにもけっこう力使うんだ……。気持ちだけ受け取っておくから、ね……」
ネテラさんの言葉は途切れがちで、普段のネテラさんとあまりに違うので、ライダナさんもそれきり黙り込んでしまう。
「ごめんね……」
そう言いながら、ネテラさんは扉を開け部屋に戻ろうとする。その時、隙間からか細い声が聞こえてきた。
「……いいですよ……」
「え。ルズラ!?」
「……入れてあげてくださいな、ネテラ……」
「ルズラ! いま、無茶したら絶対にダメだよ、何度も言ったでしょ……!」
「……いいのです……御子……お入りください……」
「…………ルズラが、そう言うんじゃ、仕方ないかあ……」
ネテラさんは扉を大きく開けて、入れ、という仕草をする。
僕と巫女さんたちは、静かに部屋に足を踏み入れた。僕は扉をノックする前から左眼の奥義を発動させてる。
右眼で見るルズラさんは、静かに横たわっていて数日前と同じに見えた。
でも左眼で見るルズラさんは……全身の紫色が濃くなってる。毒が回ってる。ネテラさんが言うように、病状は悪化してる。
「……御子……これは……ナドラバの……スープなのですか……?」
目を閉じたまま、ルズラさんが囁くような声で言う。僕は石板を出した。けど、ルズラさんは石板を見られるんだろうか。もしかしたら、もう目も……。
「そうです。御子は、ナドラバのスープを、見事に再現されましタ……」
フェイデさんが、僕のかわりに答えてくれる。
「……そうですか。……ナドラバは……」
「……満足して、消えた……とのことでス……」
「…………」
ルズラさんは、フェイデさんの言葉に何も答えず、目を閉じている。
「……飲ませて……ください……」
「は、はい!」
ライダナさんはスープの入った水差しを持ち上げ、そろそろと、ルズラさんの小さな口に近づけてく。
「ルズラ様……口を……」とフェイデさんが囁く。
ルズラさんは、かすかに口を開けた。その隙間に細い注ぎ口が差し込まれ、ゆっくりと傾けられる。
フェイデさんは、それを凝視しながら両手を組み合わせて祈る体勢になってる。
「あ……ああ……!」
声を出したのは、その光景を空に浮いてじっと見ていたネテラさんだった。
「そんな……そんなこと……ありうるの?」
ルズラさんの琥珀色の身体が、ぼうっと光りだす。薄いクリーム色の光。
左眼は、ルズラさんの身体の紫色が、急激に消えてゆくのを捉えてる。
「ルズラ様……!」
ライダナさんが、期待のこもった声をあげた。
注ぎ口をくわえたまま、ルズラさんは動かない。
「ルズラ様……」
フェイデさんが絞るような声で呼びかける。
ルズラさんは、ゆっくり目を開けた。
そして、もういいです、というように水差しを傾けてるライダナさんに目配せしてみせた。
「……ルズラ?」
ネテラさんが小声で問いかけるのに、かすかに笑い返す。その笑顔を見て、巫女さんたちに喜びの気配が溢れた。
「……御子、ここへ、近くへおいでください」
口調もさっきまでとは違う。いつものルズラさんに近づいてる。僕は枕元に顔を寄せた。
「……よいですか御子、このスープの作り方、絶対に祭殿の外の者に安易に教えてはなりませんよ……」
真っ先に言うことが、それかあ……。ルズラさんはほんとに……ルズラさんだなあ。
その言葉を聞いてはじめて、ルズラさんを助けられたという喜びが僕のなかに湧き上がってきた。
次話「山頂への旅」は、明日18時投稿予定です。