第1話 ポン足の術
えんえんと続く登り坂の途中で、立ち止まって一息入れる。
右後ろへ振り返ると、眼下には去ってきたばかりのマードゥ混成国がある。
夕暮れの橙色の光の中で、レドナドル湖が深緑の穴みたいに見える。その周囲に広がるレドナドルの家々は、ままごと遊びに使うおもちゃのようだった。
朝早くレドナドルを発って、ルズラさんとほとんど話すこともなく、半日ちょっとでここまで来た。
「……まだ、後ろ髪をひかれますか?」
肩のうえに乗るルズラさんが、耳元でそう問いかけてくる。
僕は考えたすえ、首を横に振った。
マーユは……僕の妹は、喉が枯れるほど泣き叫び続けながら、僕に駆け寄ろうとしてダニスさんに抱きとめられてもがいていた。
あのくしゃくしゃな真っ赤な顔と、悲痛な声を思い出すたびに、胸が絞られるようだ。
でも、僕はあの一家と別れて旅に出るべきだったんだ。今でも、そう思う。
なによりもマーユのために、僕は存在をだんだん消して、マーユの心を外に向けなくてはいけなかった。
もうすぐマーユは七歳。学校にも行かなくてはいけない。僕にばかりくっついていてはいけないんだ。
それは、はっきりとは話さなかったけど、ダニスさんラホさんと、僕の間の暗黙の了解だった。
僕が外に出なくなり、影を薄くしてゆくことで、ドナテラ一家は僕という名のトラブルから解放されてゆく。
だけどそのことに、ダニスさんたちが罪悪感を感じて苦しんでることも、僕は感じてた。
そんなものを感じる必要なんてないのに。
だから、僕はあの一家と別れて、あの人たちの心から重石を取りのぞかなくてはいけなかった。
僕が土の中で目覚めてからはじめて一緒に暮らした、優しい人たち。僕を家族と呼んでくれた人たち。
彼らとしばらくの間、あの湖畔の町で幸せに暮らし、マーユの成長を見守れたらと夢想した瞬間が、なかったわけじゃない。
でも、そんなことは無理だって、僕は最初からわかってたんだ。
だって僕は何者かわからない、生きてるかどうかもわからない骨の子供なんだから。
(あのジュールって子を、乗っけて走ってあげられればよかった。そうすれば、もっとうまくいったんだろうか……。)
あの豹人の子供を思い出す。
なぜか、この冬の記憶の中心にいるのは、美しいレドナドルの冬景色でも、マーユの笑い声でもなく、あの子のひどく不安定な、子供に似つかわしくないほどの激情をたたえた瞳だった。
……何もかも、もう過ぎ去って、取り返しがつかないことだ。
僕は、眼下のマードゥから目を外すと、また上り坂を登りはじめる。
「さあ、もうひと頑張りですよ。一時間ほどで、寝場と言われる旅人用の空き地に着きます。今日は、そこで休みましょうね」
ルズラさんの声は、まるで引率の先生のようだった。
☆★☆★☆
岩山に張り付くようなつづら折りの山道の、急角度で折り返すところに洞穴が掘られていて、夜に休息したり、急な風雨をしのいだりすることができるようになっている。
そういう場所を「旅人の寝場」といって、デエルレスクに続くこの山道に、一定間隔で設けられているのだという。
旅の初日の夜、僕とルズラさんはその寝場のひとつで、共同の焚き火を十人ばかりの旅人と一緒に囲んだ。
ルズラさんが洞穴に入ってゆくと「おい、地霊様じゃねえか……?」とどよめきが起こり、旅人全員が挨拶に来た。ルズラさんは上機嫌で、旅の無事を求めて祈る声に鷹揚に応えてた。
旅人の中に岩人は一人もいない。全員がマードゥの商人に雇われて、数人のチームで荷車を引いて旅をしてる人たちだった。
岩人の都デエルレスクからマードゥ各地へ、石材を運んでいるのだという。
旅人たちはルズラさんに挨拶を済ますと、手早く食事を済ませてそれぞれ寝袋を広げ、見張り番を残して寝てしまった。さすがに旅を仕事にしてる人たちで、余計なおしゃべりは皆無だった。
ちょっと取り残された感じで、僕とルズラさんは、パチパチ燃える木切れをぼんやり見ながらまだ起きてる。
「いまや、岩人たちが売るのは石材や鉱石。堕落したものですね……」
僕の右肩に乗り、ルズラさんは苦い声でつぶやいた。
<昔は、違ったのですか?>
僕は石板にそう書いた。レドナドルでは本ばかり読んでいたので、だいぶ文字を覚えてスムーズに書けるようになった。
「ええ。……御子には、いまの岩人は、力任せの者たちのように見えるでしょう? でも元々は違うのですよ。彼らは、石細工の職人として世に名を轟かせた者たちなのです。彼らの本領は怪力でも、大地叫喚という力まかせの魔術でもなく、岩石を扱う繊細な技巧と、そこに使われる地味で正確な地の魔術だったのですよ。岩人は魔術の素養に恵まれているわけではありませんが、限られた能力を最大限利用する工夫をしていたのです」
ルズラさんのため息が聞こえる。
「……遠い昔、私は岩人の作り出す石細工に魅せられていたものです。食器も飾り物も、ちょっとした日用品の道具も、みな地の力を巧みに形にしたものでした。それを作り使うことで、彼らは私たち、地の霊とつねに交流し調和していたのです。……ですから、岩人の加護を司りなさい、と言われた時は、とても嬉しかったのを憶えていますよ」
それは、どのくらい昔のことなのだろうか。
……知りたいけど、なんだか女性の年齢をきくのに近い感じがして、訊ねにくい。
「ですが、私が加護を与え始めたときにはもう、堕落は始まっていました……。貴石を口にすれば、手っ取り早くノウォンが得られる、とわかってから、少しずつ、彼らは力を求めることに取り憑かれていきました。もともと暴力に縁遠い人たちだからこそ、身を守る最後の手段として、私たちは大地叫喚を彼らに教えたのですけれどね……。いつのまにかそれは、気軽に使える攻撃手段になってしまいました。……どうしてこうなったのか、と、私はずいぶん思い悩みましたよ」
<どうしてだったのですか?>と、僕は石板に書く。
「全ては、三百年前に遡りますが……その話は、大精霊長からお聞きになるのがよいでしょう。……さあ、そろそろ寝ましょうか。ドナテラの者たちから、御子用の寝袋を預かっておりますよ」
そう言ってルズラさんが出してくれた、厚い布を縫い合わせた寝袋には、ラホさんからの手紙が入ってた。
旅の無事と再会を願う言葉にちょっと泣きそうになりながら、僕は寝袋に潜り込んで、眠りが訪れるのを待った。
☆★☆★☆
「はい、ポン、ポン、ポン! ですよ!」
四つ足になった僕の右肩の上で、ルズラさんが声をあげる。
<ポン、ポン、ポン……!>
坂道を駆け上がりながら、僕は口を動かす。もちろん声は出ないんだけど、これは魔術の発声だ。
「そう、手足が地につく直前です。タイミングを覚えてください!」
<ポン、ポン、ポン……>
「早すぎです! 焦らないで……はい、ポン、ポン、ポン!」
すれちがう旅人が、大声を出すルズラさんと、その声に合わせて駆け抜けてゆく僕を見て、ぽかんと口を開けていた。
出発して三日目。
山道はザグ=アイン山脈の奥のほうへと入り込んでゆき、レドナドルはとうに見えなくなっていた。
二日目まで僕はちゃんと立って歩いてたんだけど、だんだんきつくなってくる坂道に耐えきれなくなり、三日目の朝、ひょいと四つん這いになって四本足で登り始めた。
それを見たルズラさんはひどく驚いてた。そうか、そういえばルズラさんの前でこの姿勢で歩いたことはなかったのか……。
四本足はやっぱり楽だ。とくに勾配のある道だと、グリップ力が違う。
「その姿勢になったとき、御子は、無意識のうちにノウォンを使って、動きを補助していらっしゃいますね」
ちょっと離れたところで宙に浮いて、じっと僕の動きを見てたルズラさんが、そう言い出した。
……たぶんそれは、ガジルさんから逃げていたあの時に、身体の上下動を抑えるコツみたいなのを掴んだことを言ってるんだろうと思う。
「……御子はナドラバの影響を受けて地の魔術が使えるようになられましたが、率直に言って、魔術の才能があるわけではありません。しかし、走る補助をする魔術ぐらいなら、御子に合うようなものをお教えできると思います。今よりさらに動けるようになるはずですよ」
というわけで、三日目の午後から、僕はルズラさんに、僕専用だという魔術を教わってる。
ひとことで言うと、僕の手足が地面に着く、そのほんのわずか前を意識することで、手足と地面が接触した瞬間に地面から力を得て力強く駆ける魔術、ということになると思う。
夕方になると、だいぶ速く走れるようになってきた。ただ、ずっとポン、ポン、ポン、と呟いてないといけない。それが魔術のキーになる声だからだ。
「<ポン足>、と名付けましょう。御子専用の術ですよ!」
夜、旅人の寝場で、ルズラさんはそう言った。
ぽんそく。……ルズラさんの名付けなら、しょうがないね……。
<ノウォンと、魔術って、どういう関係になるんでしょうか。>
僕は名前のことはスルーすることにして、ずっと気になってたことを訊ねてみた。
僕の中には膨大なノウォンがあるらしいのに、魔術の才能はそんなにない、というのは、どういうことなのか。
「簡単にいえば、その者の中にあるノウォンを、ある決まった道を通して外に出すことで、いろいろな働きをさせることができる。それが魔術ということになります。その道筋を作るのに、自分の中の道を感じ取る才能が必要なのですよ。魔術に必ず発声が必要なのは、その声が、いつもは閉じているその道の門を開くのに必要だからです。また高度な魔術では、私たち精霊に協力を呼びかける目的で発声することもあります。岩人の奥義である大地叫喚の呪文などは、まさにそれです。精霊の助けなくては使えない魔術もありますからね」
ルズラさんの説明を聞きながら、僕は、暗闇の中でマーユが指先に火を出したことを思い出してた。あれはまさに、マーユの中のノウォンを、指先まで引っ張り出して火をつけた、という感じだったな……。
「普通の者は、そもそもノウォンを自分の外に出す、ということができないのですよ。魔術を使える者はそれができ、しかも、自分の中の見えない道を教える私たちの加護を、感覚として受け取れるのです。……そのてん御子は、ノウォンを外に出す力は並ぶものがないほどですが、魔術を使う感覚については……」
<ダメですか。>
「ええ、今のところ、そうですね、ありあまるノウォンの力で、強引に道を押し開いている状態です。訓練を受けた魔術師からすれば、悶絶するような使い方ですね」
そうかあ……。たしかに、石板の魔術にしても、なんとなく力づくで呼び出してる感じはしてたんだよね……。
翌日もポン足の練習を続けたけど、たしかに、ある程度速度が上がったところで上達が止まった。
それでも今までに比べればかなり速くなり、疲れにくくなったのは確かだ。
僕はザク=アインの中腹を曲がりくねるように走る山道を、ルズラさんを肩に乗せひたすら走りつづける。
旅立ってから六日目。不思議な場所に僕らはたどり着いた。
いま僕らが進んでるのは、垂直に切り立った崖にちょっと入れた切り目みたいな、右側に足を踏み外すと小さな山一つぶんぐらい落ちて粉々になるだろうっていう怖い山道だ。もうその手の怖さには、すっかり慣れちゃったけど。
大きく曲がる崖道を進んでゆくと、崖に丸く囲まれた、山脈の隠しポケットみたいな円柱形の空間に入ってゆく。
それだけでも奇観といいたい壮大な景色なんだけど、その空間の底から、巨大な石柱みたいなものが何本も突き出てる。
しかも、柱のあちこちが、いろいろな色に光ってるんだ。
あの石柱は、建物だ。中に人がいて、その灯りが窓から漏れてるんだ。
そう気づくまで、しばらくかかった。
「ええ。御子、あれが岩人の都、デエルレスクですよ」
見ると湾曲した崖に、長大な階段の道が彫られていて、下へ下へと続いてる。
「そう、あれを下ってゆくのですよ。見るだけでうんざりしますね。私一人なら、空中を下りて済ませてしまうのですが」
ごめん、僕には無理です。
僕らは長いジグザグの階段を何時間もかけて下り、デエルレスクへ近づいていった。