第14話 交渉のとき
メリネ・ルグランジュと名乗ったその女性は、見たところ、娘さん、と呼んだほうがいいほど若かった。十代後半に見える。
黒いさらさらの髪を真ん中分けにして、肩の上でばさっと一直線に切ってる。
その頭頂の両脇から、中指よりちょっと長いぐらいの、白樺みたいな肌の小さな木の枝が二本伸びてる。
たぶん彼女の身体の一部なんだろうけど、よくできたアクセサリーのようにも見えた。
うりざね顔にぱっちりした黒い瞳が輝き、純真でやわらかい雰囲気を醸し出してる。
灰色の落ち着いたジャケットに、長い黒のスカート。胸に真紅のスカーフを巻いてるのがおしゃれだ。
全体的に、女学生っぽい可愛さと明朗さを感じさせる女性だった。
「しかしメリネ嬢、この契約に貴女のルグランジュ商会は全く関係していませんのでね。早々にお引き取り願いたいのですが」
ベッグ・シナードは足の上の書類をぱらぱらめくりながら、冷たい声で言う。
「ええ、たしかに今のところ、関係はしてないですけど。これからするかもしれないでしょう?」
「その可能性はありませんな」
これまでも何度も遣り合っている関係なのだろう。二人の言葉のやり取りに、慣れた感じが漂っていた。
「まあ聞いてくださいな。私はここに、皆さんにひとつの情報をお伝えするため来たんですよ」
「……ほう」
「それは、マードゥ混成国の首都、マトゥラスの最高裁判所の裁判官が二人ほど、背任の容疑で告発されたって情報です」
「……なに!?」
ベッグの冷静さがはじめて崩れ、まぎれもない驚愕の表情があらわになった。
「この二人が告発されるきっかけは、二人がいままでほとんど施行されたことのない法律の執行命令書を、いきなり作るよう命じたことにありました。それも、他の書類にまぎれ、作ったことが明るみに出ないようにして。……その裏に、誰かの工作があったんじゃないかと、強く疑われてるんです」
「……なるほど」
ダニスさんが、柱の上でつぶやいてる。ルズラさんも何やらうなずいてるが、彼女がわかってるかどうかは怪しい。
「告発された裁判官に働きかけたのがどこの誰か、残念ながら、決定的な証拠が見つかる可能性は五分五分といったところです。なにしろ、その黒幕は、とても周到に手がかりを消してましたからね。もし万が一、その不正を疑われる執行書を持っているところを見つかっても、たまたま回ってきただけだと強引に言い訳して、乗り切ってしまうかもしれませんね」
メリネ嬢は、ベッグのほうをじっと見て、にこりと笑った。ベッグは驚愕から立ち直り、顔の筋一本動かさず、ただ話を聞いている。
「……でもその、根拠があやしい執行書を使って、誰かの財産を没収したという事実が明らかになれば、そのために裁判官を買収したんだと、誰もが考えますよね。それは決定的な証拠でなくても、捜査の大きな手がかりになるでしょうね」
メリネ嬢の笑顔は、さらに大きくなる。朗らかといっていい満面の笑み。
「もちろん、マトゥラスでも世間の噂になるでしょうね。なにしろ、その執行書を使ったことは事実ですから、否定しようもありません。下手をすると、大公家の耳に入る可能性もありますねえ」
「……もう十分です。メリネ嬢が、私どもにあらぬ疑いをかけていることはわかりました。ですがそもそも、その、裁判官の不正が告発を受けたという情報が、真実だという物証はあるのですか?」
この状況になっても、ベッグの声は冷徹そのものだ。たいしたものだなあ、と僕は感心すらする。
「……いえ、残念ながらまだ、新聞なども掴んでない情報ですから」
「ほう。ならば私どもは、それを確認してから動きますよ。もし執行書に不正の疑いがあるならば、もちろんそれを破棄して、以前の通り、ドナテラ氏にあらためて借金返済を求めましょう」
とりあえず今日はいったん失礼しますか、と起伏のない声でいうと、ベッグ・シナードは書類ファイルをたたんで立ち上がろうとしてから、思い出したように護衛の二人に言った。
「あ、君たち二人は、ドナテラ家の護衛につきなさい。係争にかかわるものが傷つけられたり行方不明になったりすると大変だからな。万が一そうなれば、ドナテラの他の人たちに迷惑をかけることになりかねない」
暗に脅しをかけるベッグの声を聞きながら、僕は、メリネ・ルグランジュをひそかに観察する。
交渉中断を告げられたとき、メリネ嬢は、たしかに少し眉根を寄せた。
メリネ嬢の言う、裁判官告発は嘘なのか。いや、さすがにそこまで大胆なハッタリは言わないだろう。
となると、おそらくこういうことなんじゃないだろうか。
ここでこの問題のカタをつけないままベッグがマトゥラスに戻ると、裁判官告発に関する情勢が、ベッグの手腕とダンデロン商会の政治力でひっくり返される可能性があるんだ。
ダンデロン商会は、理由はわからないけど、とにかく必死にマーユの身柄を欲しがってる。そのためなら、あらゆる手を使ってくるってことだ。
裁判官まで買収できたなら、捜査官だって買収できる。
想像だけど、そんなところなんじゃないだろうか。
僕は石板を呼び出し、さっと文字を書いてルズラさんに見せた。
「タイムを取る!」
ルズラさんは、それを読んで大きな声で叫んだ。
「……タイムってなんですか?」
「ふむ、地霊の謎かけか何かですかな?」
しかしメリネ嬢とベッグには通じなかった……。ごめん、ルズラさん。
「私とドナテラ一家で、話し合いの時間をいただきましょう! そして、あと二時間、交渉の時間をもらいます。地霊の名において、拒否権は認めませんよ!」
ルズラさんは、僕が書き直した文字を読んで、その通り叫んでくれた。
「地霊様のおっしゃることでしたら」
「……まあよいでしょう。私どもの姿勢は変わりませんがね……」
二人がうなずき、僕らは作戦会議に入ることにした。
ようやく石柱から解放されたダニスさんとラホさんは、心底ほっとした様子でマーユをだきしめていた。
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「ここからは、また私が交渉の窓口になります。少しの間とはいえ、地霊様に交渉事のようなことをさせることになり、慚愧にたえませんでしたからね」
ダニスさんが話しはじめる。やはり僕らの中で、交渉能力が抜群に高いのはダニスさんだ。
僕とダニスさんは石板を使って二十分ほど作戦を練ってきてる。あとはやるだけやってみよう。
居間は軽く掃除され、中央に三つの椅子が置かれてる。ダニスさんとベッグが向かいあい、調停役っぽい位置にメリネ嬢が座ってる。
ベッグはまた足を組み、書類ファイルをその上に広げた格好になっていた。どうも本当に書類を読んでるというより、あれが落ち着く姿勢みたいだ。
ちなみに居間の隅には、砂岩男を閉じ込めた岩が鎮座したままだ。
「とは言いましてもね。何を交渉なさろうというのです。私どもの姿勢はもうお話ししました。いったん戻って執行書の効力を確認してから、法の執行を求める。それだけです」
ベッグの声はどこまでも変わらない。
「まず、私たちはいますぐ借金を返済することが可能です」
「……ほう」
ベッグは眉をわずかに上げた。意外だったようだ。
「でも何も変わりませんよ。いま借金を払えるかどうかは問題ではない」
「ハハハ、まあ、ここからが交渉ですよ。……まず、ダンデロン商会は、地霊ルズラヴェルム様のお怒りを相当買っている。そのことは認識されてますか?」
「……ほう。それは心外ですな。私どもの公正な手続きの契約に、地霊様は関わりなどお持ちでないと思いますが」
「とぼけるのはご自由ですが、それでルズラ様の心証は少しも改善されますまい。今後、あなた方のところへ入ってくる貴石や鉱石の量は……あまり期待できないでしょう」
「私どものその手の物資のおもな取引先は、岩人族の方々でしてね。地霊様と取り引きしているわけではないので」
「ところがルズラ様は、この件が済み次第、岩人族の徹底的な調査と、王の更迭も含めた大胆な改革をお考えのようなのですよ。……さて、その調査で何が出て来るか、楽しみですね」
「……地霊様は五人いらっしゃいます。そう上手くいきますかな」
「なるほど、重要なヒントをありがとうございます。ルズラ様のあなた方への心証は、この瞬間、いっそう悪くなりましたな」
「…………」
いまのはベッグの大失言だった。他の地霊との関係を漏らしてしまうとは……。見た目ほど、いまの彼は冷静じゃないのかもしれない。
というか、僕の隣に浮かんでるルズラさんの雰囲気が怖い。もし僕にオーラが見える能力があれば、炎がうずまいてるのが見えるはずだ。
「では次に。私にはもう借金を返す能力があると申し上げましたが、実は、ただ返す能力があるというだけではないのです」
「……ほう」
「これをご覧ください」
ダニスさんは、手のひらに乗せた小さな木箱(本来はラホさんのヘアピン入れ)を開けて、ベッグとメリネ嬢に見せた。
「…………?」
「……なんです、これ? 見たことがありませんね」
「…………いや待て。これは……聖泥かっ!」
ベッグが、とうとう大声を出した。足の上から書類入れが落ちた。
「ええ、そうです。私たちは、聖泥を掘り当てました。これが、この交渉の要点なのですよ」
「……聖……泥……!」
メリネ嬢が呆然としてる。ベッグは、思わず浮かせた腰をまた下ろし、咳払いした。だが書類は足元に落ちたままだ。
「いったいどのくらいの量を、掘り当てたのですかな」
「それは、あなた方ダンデロン商会には関係のないことですね。なにしろ聖泥となると、この発見に大きく関係した地霊様の許可なしには、私たちも売ることができません。ルズラ様に嫌悪されているあなた方に入手のチャンスはない」
「…………」
ベッグは頬をひくつかせて黙り込んだ。メリネ嬢は話を聞いてるのかいないのか、魅入られたように、箱の中の光る土を見つめてる。
「……なるほど、しかしそれなら、あなた方は借金をこの場では返せないということになりますな。あなたが持っているのはその泥であって、現金ではないのだから」
思惑通り。ベッグは、論戦において意外なほど負けず嫌いだ。必ず、何か材料を見つけて反撃してくる。引いてみせるということができないタイプだ。
……これは、ダニスさんが言ったことだけど。
「なるほど、その通りですね。あなた方に聖泥を渡せないのだから、私たちは少なくとも今日、あなた方に何も返せない。……が、幸運にも、ここにもうひとり、大商会の方がいらっしゃいます」
「……………………え。あ、はい、私のことですね!」
メリネさん……。大事なとこなんで、お願いしますよ……。
「そうです。メリネさん、いま、この証文に書かれた金額を、現金としてお持ちですか?」
「あ、はい! 何があるかわかりませんので、今日はがっつり持ってきました!」
もう展開が読めたのか、ベッグの顔が険しくなった。
「では、私たちはルグランジュ商会に、聖泥をお売りする用意があります。今日だけでなく、今後も……」
メリネ嬢が、いざとなれば借金を肩代わりするだけの現金を持ってきてることは予想できたし、実は事前にメリネ嬢に確認済だ。
ルグランジュ商会は、ダンデロン商会がマーユを手にすることだけはなんとしてでも阻止したいはず。だからこそ、メリネ嬢はここにいるんだ。
「ほ……本当ですか! はい、ありがとうございます! ありがとうございます!」
メリネ嬢はぺこぺこお辞儀し、手を叩いて喜ぶ。どう見ても、やり手の商人っていうより女学生だけど、たぶんこの純真さが彼女の武器なんだ。
「……ベッグさん。そろそろ、落とし所を見つけましょう」
「…………意味がわかりませんね」
「ルグランジュ商会だけに、あらゆる武器防具アクセサリーに使える希少素材、聖泥が扱えるようになる。それがあなた方のお望みですかね?」
ベッグは何も答えない。
「ベッグさん、私には、何もかも忘れて譲歩する用意があるんですよ。ダンデロンが私に仕掛けたことも、あなた方の手先が私の娘を追い回したことも。何もかもね」
「…………」
「これが後にも先にも一度きりのチャンスです、ベッグさん。今ここで清算していただけるなら、あなた方は聖泥を入手することができます。この聖泥を受け取って、借金の証文を破いてください。ルズラ様には私があとで土下座します。なんなら、あまり量は期待しないでいただきたいですが、聖泥を引き続き売ることも考慮しましょう」
「…………」
「もしあなたがこの申し出を拒否するなら、私はもう二度とこの話はしませんし、今後私が持つ聖泥はいっさいダンデロン商会には売りません。地霊ルズラヴェルム様とともに、あなた方に徹底的に対抗するだけです。ルグランジュ商会も……それなりに、協力してくださるでしょう。ねえ、メリネさん?」
「はい! 聖泥を売ってくださる方は、無下にはできませんからね!」
「さて……結論を出しましょう、ベッグさん」
ベッグは、そう言われても、少しの間無表情のままだった。
それから、黙って肩をすくめ、ふいに白い歯を見せて笑い出した。
「降参です。……ハハハハハ!」
意外なほど魅力的な、あけっぴろげな笑顔。
これは女は死ぬ。
やっぱり、いろんな意味で危険な男だと思う、彼は。
「一流の交渉術、見せていただきましたよ。……正直、あなたほどの人が、あんな手に引っかかって借金を作ったのが信じられませんね」
「あなたがそれを言いますか……」
「ハハハ、まあご容赦を。私どもは、あなたのご提案を受け入れます。証文はここで破りましょう。そして、ひとつ、この場でお願いしたいのです。聖泥を……ある程度の量、今日売っていただきたい。急いで必要なのです。もちろん即金払いで、高めの代金を支払わせていただきます。そして……ダンデロン商会は、今後、あなたに一定の配慮をすると約束しますよ」
「……ルズラ様……よろしいでしょうか?」
「……ん?」
ルズラさん、聞いてませんでした。たぶん岩人のとこへ乗り込む計画で頭がいっぱいだったな。
石板にさっと書いて見せると、その通りしゃべってくれる。
「よろしいでしょう。ただし、調子には乗らぬように」
言ってることは偉そうなのに視線はカンペを読むため下を向いてて、妙な感じだ。
「はい、寛容なご配慮、ありがとうございます。これまでの失礼、なにとぞお許しください……」
ベッグが立ち上がり、これ以上ないほど深々と、丁寧な態度でルズラさんに頭を下げた。
ほんと……したたかだよなあ。
「う、うむ……」
ほら、ルズラさんちょっぴり懐柔されてる。