第9話 暗闇で抱き合って
「ん~~~!!!!」
マーユが僕の首に必死にしがみついてる。足は僕の腰に巻き付いてる。
でも、僕の身体が上下動するたび、お腹が浮いては沈んで僕の背骨にぶつかる。痛いだろう。ごめん、ごめんよ。
吹雪の中を、四つんばいで走る僕。その背にしがみつくマーユ。それを怒涛のような勢いで追いかけてくる玄武岩男。
ゆるやかな起伏を持つ荒れ地を、僕らはひたすら走ってゆく。
「んっ!! んっ!!!」
マーユが苦しそうだ。丘を駆け下り、次の丘の斜面を上りながら、僕は彼女の痛みを軽くしたいと願う。
背に敷物みたいなのを敷いて……いや、それなら僕の全身に、クッションみたいなのを……。
「待テエエエエ!」
ドスンドスンという重低音の足音とともに、地の底まで響くような声が、すぐ後ろで聞こえた。
やばい、上り坂では岩男のほうが速い。余計なこと考えてる余裕なんてない。
斜めに方向転換して、丘の中腹をぐるっと回ってゆきながら斜め後ろを見る。
思ったとおり、男は追随できずにまっすぐ進みかけ、なんとか踏ん張って僕らのほうを向く。
やっぱりそうだ!
岩男は重いぶん、方向転換が鈍い。でも僕がどこに逃げるつもりかわからないから、ショートカットもできない。ついてくるしかない。
少し余裕ができた。下り坂で引き離す!
……あ。できた。
僕の身体をノウォンで強化する。そんなイメージが、少しだけ形になった気がする。
僕はさらに姿勢を低く沈め、地を這うように走り出す。
これで上下動も減ってマーユも楽になるはず!
丘を越える。ひとつ、ふたつ、みっつ。いくつ越えても、なかなか引き離せない。地に響く足音が消えない。
くそ、マーユは大丈夫か。いまは我慢してくれ。
「ドコダアアア!!」
岩男の声。
吹雪で僕らを見失ったのか! たぶん結界石の働きも大きい。
いける。このまま……あの、北西にある謎の地下の墓まで逃げられる!
あそこならば隠れられる。万が一見つかっても、サイズ的にあの地下通路を玄武岩男は通れない。
あの黄色い壁の部屋にマーユを隠してから、ダニスさんラホさんの様子を探りにいく。それが僕の考えだった。
またひとつ、丘を越えて下りに差しかかる。ここでさらに加速する!
「<聴ケ! ……地ノ霊ヨ……我ガ叫ビヲ聴ケ……!>」
離れたところから、突然、玄武岩男の大声がきこえた。そして、その叫びが放たれた。
アアアアアアオオオオオオオ……コオオオオオオアアアオオオ……。
……それは、とても静かな、厳粛な叫びに聞こえた。吹雪のなか、荒れ地の空にその残響がこだまするようだった。
でも、何の意味があるのかわからない。
……そう思った次の瞬間、おそろしい重圧が真上から僕の身体にかかり、両手の肘と両足の膝が地面についた。まるで天から、巨大な指でぎゅっと押さえられたみたいだ。
加速度がついた僕の身体は頭から突っ込みそうになる。
僕はとっさに、両手両足から力を抜いた。
貼りついたヤモリみたいな姿勢になって、そのまま滑ってゆく。顎と胸とお腹がザリザリと地面にこすれる。普通の生き物なら地面に擦れてボロボロになる姿勢、でも僕は骨だ、大丈夫だ……たぶん。
なんとしても横転するわけにはいかない。マーユが乗ってるんだ!
べったり地面に身を伏せた僕の身体は、横へ回転しながら滑り……止まった。
「けふっ……!」
マーユが背中で呻く。やばい。止まってみると改めてわかる、この容赦ない重圧。
こんな魔術があるとは……。
「モハヤ大地ハ、オマエラノ敵ダ……。ヨモヤ、<大地叫喚>ヲ使ウコトニナルトハ」
丘の頂上で、玄武岩男の声がした。
大地叫喚。たぶん、重力を局所的に増加させる魔術なんだろう。
どうする。重たい足音が近づいてくる。どうする。
僕は肘膝をついて身体を起こす。それだけでも大変な力が必要だ。
ノウォンを溜める。手足に溜める。イメージしろ。イメージしろ。弱ってるふりをしながらイメージしろ。
「大地叫喚ハ、岩人ノ奥義……。敵ナガラアッパレダ……謎メク骨ノ犬ヨ……」
がーん……。僕、犬だと思われてたのか……。いやそんなことで集中を切らすな。イメージしろ!
「ダガココマデダ……」
岩男の馬鹿みたいに大きい石の手が、僕らを掴もうとする……その瞬間!
僕は溜めていたノウォンを、全部推進力に変えるイメージで、両手両足を全力で蹴り出した。
「何ッ……!」
僕は弾丸みたいに飛び出す。マーユが振り落とされるのだけが心配だったけど……しがみついていてくれた!
下り斜面を一気に駆け下りる。やっぱりだ! 重力が増していたのは、ほんのわずかな範囲だけだった。
もし範囲指定じゃなく、僕とマーユを指定する魔術だったなら終わってたけど……賭けに勝った!
駆け下りたところで首を曲げて無理やり後ろを見る。
案の定、岩男は始動が遅い。いったん止まったのは、むしろ彼のほうに不利だった。
いまようやく、二歩目を踏み出そうとしてる。それでも一歩だけでもう斜面を半分近く下りてる。
でも、最高のチャンスだ。下り斜面で、あわてて全力で動き出したタイミング。
僕は四十五度ぐらい方向転換して、次の丘の中腹をめざして走り出した。岩男にしてみたら、一番嫌な走り方のはず。
ばあっ、と吹雪が顔に吹きつけ、一瞬ひるみそうになったけど、ここは頑張るしかない。
……そうだ。マーユは? マーユの様子は……。
「……だいじょぶだよ……」
まるで心を読んだみたいな呼吸で、小声の呟きがきこえた。ほっとする。
この子は凄いなあ、と、今日だけでもう三度ぐらい思ってる。
もう本当の妹みたいな気がする少女。
僕が守るから、マーユ。
☆★☆★☆
目的地にしてた巨岩にたどり着いたときには、もう夜になってた。
吹雪はますます酷くなり、少し前もよく見えない。
僕を呼んでるあの謎の引力がなければ、とても岩を探せなかっただろう。
玄武岩男は完全に引き離した、と思う。
重たい足音はだいぶ前から聞こえてこない。
でも離していようがいまいが、僕にはこの地下の墓を隠れ場所にする以外選択肢はない。
マーユが限界だ。濡れそぼって、僕の背中で小刻みに震えてる。
あの巨岩は上下に分かれたままで、地下への階段が見えてる状態だった。
マーユを背負った四本足の体勢のまま階段を下り、地下道へ進む。
できれば中に入った後、元のように岩の上半分を戻したいけど……やり方がわからない。
当たり前だけど、地下道の中は真の闇だった。一本道だというのを知っているのが救いだ。
結界石の光が、こんなにありがたかったことはない。
下ってゆく。妹のような少女を背にして、地下へ地下へ下ってゆく。
マーユはぐったりして口もきかない。でも呼吸は荒くてせわしない。早く寝かさなくては。
見えた。あの壁の、黄色っぽい光が見えた。
壁の前で座り込み、身体を傾けて、マーユをそっと地面に滑り落とす。
濡れた服を、どうすればいいのか迷う。
僕が普通の人間なら、服を脱がせて抱き合って温められた。でも僕は違う。冷たい骨だ。
脱がせるのは致命的な過ちなんじゃないか。でも、濡れた服のままだと確実に体調を崩すんじゃないか。
いやでも、こんな地下の湿っぽいところで脱がせても、服はそもそも乾くのか。
考えれば考えるほど、よくわからなくなる。
……僕のノウォンと、結界石の力に、もう全部賭けることにした。
服は、脱がせる。石のピンクの光だけを頼りに、セーターとシャツと下着と……順番に脱がせる。
手が震えて、思った以上に時間がかかった。マーユはぴくりとも動かない。悪い予感が胸をかきむしる。
本当に、これは正しいんだろうか。
脱がせた服は、地面に一枚ずつ広げて置いておく。乾く可能性があるんだろうか。よくわからない。
僕が着てたダニスさんおさがりのシャツも、脱いで並べた。
やっとのことで裸にしたマーユのすぐそばで横になって、後ろから抱き寄せる。
マーユの口に、右手の人差し指を持っていって、口の中に押し込む。
……声が出せたら、マーユにいろいろ指示できただろう。僕は、どこまで不自由な身体なんだろう。
こんな中途半端なことをして、マーユがもし体を悪くして死んでしまったら、ダニスさんラホさんに何て詫びればいいのか。
……そんな考えを、僕は必死に心の隅に追いやる。
いまはダメだ。悪い考えを持ったらダメだ。
イメージする。マーユに、いちばんいいノウォンを与えるイメージ。右手の人差し指に、最高のノウォンを集めるイメージ。触れたところ全部から熱を送り込むイメージ。結界石を、限界まで光らせるイメージ。
「んう……」
マーユが人差し指を吸いはじめた。涙が出そうになる。
イメージを作り続けるんだ。僕にはそれしかできないんだから。しっかり目を覚まして、マーユを守るんだ。
卵を温めるように、僕はマーユの小さな身体を抱いて温めつづけた。
☆★☆★☆
はっ、と我に返った瞬間、死にたくなった。いやそもそも、生きてるかどうかも怪しいんだけど。
寝てしまった!
腕の中のマーユを確かめる。
呼吸……してる!
というか、僕の右手の人差し指をガリガリ噛んでたらしく、きつく歯を当てたまま眠ってた。
人の指をなんだと思ってるのか。でもそれでこそマーユさんです。
僕にはマーユの熱が平常なのかどうかわからない。微妙な熱は感じにくい身体だ。
でも、呼吸は安らかで、小さな身体は震えておらず、ゆったり弛緩してるようだった。
僕が必死に光れと願い続けたおかげか、結界石の光は今までにないほど強く、部屋の半分ほどを照らしていた。
もう一度、イメージを作りはじめる。マーユを温めてくれ、結界石よ、僕のノウォンよ。
マーユがまた指を軽く噛みはじめる。カリコリと小さな音がする。その音が嬉しい。僕は変態か。
そのまましばらく、必死に意識を保ってイメージを作り続けたけど、いつのまにかまた、僕は眠りに落ちていった。
はっ、と我に返った瞬間、また僕は死にたくなった。また寝てしまった!
腕の中のマーユを確かめようとしたら……いなかった。
さーっと血の気がひく感じがして、あわてて起き上がる。結界石の光を頼りに周囲を見回す。
「あ、コボネおきたー」
向こうの暗闇から、裸のマーユがぽてぽてと呑気に歩み寄ってくる。
……僕は、もうこれ以上ないぐらい脱力した。
「あんねー、むこうにおはなあったよ」
そして相変わらずお言葉がファンタジーでよくわかりません、マーユさん。
「あとねー、きったきあったよ。ねー」
そう言いながら、僕の手を取ってぐいぐい引っ張る。逆らうと大変なので、おとなしく誘導されてゆくと、部屋の光る壁から一番遠い角に連れていかれた。
「ほら!」
得意げに指差すのを見ると、たしかに薪が二十本ばかり、壁ぎわに積んである。昼間来たときは壁に夢中で気づかなかった……。
見ると、火口になるこよりも数本そばに置いてある。もう明らかだ。
この部屋に来て、火を焚いていた誰か、おそらく人に近い者がいたんだ。それも、そんなに古いことじゃない。
それにしても、灯りもないのにマーユはなぜこれを見つけられたんだろうか。凄いな。
「あんねー、これもやそ? そしたらあったかいよ?」
残念ながら、僕にはノウォンを出す特技はあるみたいだけど、火は出せません。
「マーユ、ひつかえるよ……。<もえるものあらわれよ!>」
なんと、マーユが人差し指を差し出してそう言うと、指の先に、小さな火が現れた!
……なんなのこの子。天才なの? 今日はマーユが凄い凄いとそればっかり言ってる気がする。
部屋の中央に薪を並べ、火口にマーユが火をつけ、マーユの服を使って扇いだりしてるうちに、なんとか小さな焚き火が作れた。
いま、下着だけつけたマーユを膝の間に抱えて、二人で焚き火を見てる。マーユは両手で、自分のシャツを持って、「かわけー、かわけー」と呪文っぽく唱えてる。
「……ね、パパとママは、いつくるかなー」
ぼそりと、マーユが口にした。
もう少ししたら、僕が見に行くつもりだ。だけど、それをマーユに伝える方法を、いま僕は持たない。
「だいじょぶだね」
誰にともなく、マーユは言う。僕はマーユの頭を撫でた。それしかできなかった。
……その時、ドス、と何かが落ちる音が、遠くからかすかに聞こえた。