第5話 優しい日々
ドナテラ農園に飼われ……いや、お世話になりはじめた翌日。
僕が人間の会話を理解してることは、奥さんのラホさんにもあっさりバレた。
朝、「何を食べるのかわからないけど、これでいい?」と持ってきてくれた、パンと野菜くずのご飯に、僕が手を付けなかったからだ。
「どうして食べないの?」「これ食べられないの? 何をあげたらいいの?」と真剣に悩むラホさんがだんだん深刻な顔になってゆき、そばで見てたマーユも泣き顔になるのに耐えられなくなって、ラホさんの独り言のような質問に思わず首を横に振ってしまった。
「そう、嫌いってわけじゃないのね……」
と、僕の意思表示を受け取って納得したあと、ラホさんは「え」と言って固まる。
「……も、もしかして、わたしの話がわかるの?」
もうとぼけるわけにもいかず、首を縦に振るしかなかった。
その後はひたすら質問攻めにあい、僕がものを食べなくていいことを納得してもらった。
「ねえ、コボネくんはちゃんともの考えてるのよ。首輪でつないで外に置いとくなんて、とんでもないわ!」
その夜、帰ってきたダニスさんにラホさんはそう力説し、ダニスさんは苦笑いしていた。
マーユはというと「マーユしってたよ!」と胸を張って鼻息を荒くしていたが、ともあれ僕の首輪生活はたった一日で終わり、僕は母屋の二階の、物置きの隅に布団を敷いてもらい暮らすことになった。
マーユは前日は僕に会いに外に出たいと言い続けてラホさんにまとわりついていたそうだ。それがおとなしく室内にいてくれるものだから、ラホさんも家事に専念できてほっとしているようだった。
マーユは茶色のふわふわした髪を肩の下ぐらいまで伸ばした、一見おとなしそうな色白の女の子だ。やっぱり茶色の髪のラホさんとよく似ていて、二人とも笑うとえくぼが出来る。
病弱で寝てばかりいたと聞いたけど、そのせいかマーユは、自分の世界に生きる実にマイペースな子だった。
日がな一日僕から離れようとせず、抱きついてやたらに匂いをかいでいる。時にはいきなり指をしゃぶられることもある。ずーっと僕にはよくわからないことをしゃべりつづけ、自分ルールを僕に教えようとし、僕がうなずかないとぷくっとふくれて「コボネはー!」と叫ぶ。でも一分後には楽しそうに鼻歌を歌っているのだった。
☆★☆★☆
「また水がおいしくなくなっちゃったの。浄水の魔術を念入りにかけても、前みたいにおいしくならないのよ……」
夜、ラホさんが帰ってきたダニスさんに愚痴を言っている。僕が室内に移って三日目の夜のことだ。
この農園の井戸の水はかなり深いところから汲んでいるのでそんなに汚れてはいないけど、それでも汚染されたノウォンを含んでいる。ラホさんは簡単な魔術でそれを浄水して生活に使っているそうだが、一時期は浄水の必要がないほど水質がよくなってたらしい。
「さっき帰ってきたときに感じたけど、外の空気もまた前みたいに汚れてきてるね」
ダニスさんがお茶を飲みながら言う。ダニスさんは三十歳ぐらい、痩せ型でひょろりと背が高い。
僕は居間の隅で話を聞くともなく聞いている。マーユは僕の腿に後頭部を乗せて寝っ転がり、足をぱたぱたさせながらデタラメな歌を歌っていた。
「なんだったのかしらねえ、あのお水も空気も綺麗だったのは……」
「……ふむ」
ダニスさんはなにやら考え込む表情になり、僕らのほうをじっと見たあと、ソファから立ち上がり近づいてきた。
「ねえマーユ、コボネくんはいい匂いかい?」
「そうだよ? コボネはいいにおいだよ?」
マーユは寝っ転がったままパパを見もせずに言う。もうちょっと家族サービスしてあげようよマーユさん。
「部屋の中にも、コボネくんの匂いがしてるかい?」
「してるよ? コボネがいるとこいいにおいだよ?」
「……ふむ」
ダニスさんは頷くと、台所のほうへ去ってゆき、小さなたらいを抱えて戻ってきた。ラホさんもたらいを持って、夫のあとから興味深げな顔でついてくる。
「コボネくん、すまないがこっちのたらいで手を洗ったら、もひとつのたらいの水に、しばらく手をつけておいてくれないかな」
お安い御用だ。こくんとうなずくと、言われた通りにする。マーユは僕の腿のうえで反転して「マーユも!」と言いながら手を入れようとしてダニスさんに止められた。
しばらくして、「ありがとう」とたらいを持ってダニスさんはまた台所に去り、コップを二つ持ってきた。
「これが、コボネくんが手をつけてた水だよ。飲んでみて」
ラホさんにひとつ渡し、自分も口をつけてゆっくりと飲む。
「……あ。おいしくなってるわ!」
「……うん、数日前ほどじゃないけど、確実に水の質が上がってる。やっぱりコボネくんには、触れた水や空気の質を上げる力があるんだと思う。数日前までコボネくんが外にいたから、空気も水もきれいになってたんだろうね。コボネくんが外に出なくなったから、その働きが失われたというわけさ」
「まあ、すごいわねコボネくん!」
「うん、コボネすごいよ? ママしらなかった?」
なぜかマーユさんが得意満面。
翌日から僕の仕事として、その日使う水にしばらく足をつけとく仕事と、一時間ぐらい外にいる仕事が加わった。後者の仕事は僕から引き離されるマーユにはたいへん不評だった。
☆★☆★☆
昼下がり。マーユがお昼寝してる一時間半ぐらいの間、僕にはやることがない。
マーユの絵本を取って開いてみる。
言葉を聞き取ることはできるんだから、文字も読めるかなと思ったがそんなことはなかった。
「あらあら、絵本読みたいの? なら読んであげるわね」
声がかかり、見上げるとラホさんがえくぼを見せて笑っていた。
ラホさんは床に座ると、ぽん、と自分の前を叩く。
「ほら、絵本持ってここにいらっしゃい?」
這って近づいてゆくと、両肩を掴まれてくるりと回され座らされる。ラホさんが背中に覆いかぶさる形になる。
「じゃ、読むわねー。<めがみ ノールの ものがたり>」
表紙がめくられる。ラホさんのゆったり穏やかな声。
「<むかし むかし このせかい『ホルウォート』は ほろびかけていました。>」
こんなふうに、絵本は穏やかじゃない言葉で始まっていた。
「<じめんは すなにかわり たべるものが しだいに なくなっていったのです。>」
砂漠を前に人々が膝をつきうなだれている絵が描かれている。
「<あるとき ホルウォートに ノールという めがみが おりたちました。>」
美しい女神が天から降りてくる絵。
「<めがみは いいました。みんなを たすけるために ホルウォートを いのちの ちからで いっぱいにしようと。>」
女神は人々を前に説法している。
「<このころ ホルウォートには おおきなちからをもつ さんびきの まものがいました。それぞれ にしと ひがしと みなみをおさめていました。>」
大きな影のような魔物が、島の西と東と南に描かれている。
「<めがみ ノールは さんびきの まものに いいました。あなたたちの ちからは つよいけれど ばらばらです。どうか みなさんの ちからを わたしに あずけてください と。>」
三匹の影の魔物が集まり、女神と話をしている絵。
「<にしの まものは かしこくて めがみと なかよくなりました。すぐに めがみと ちからをあわせようと きめました。>」
女性らしい西の魔物が、女神と手を取り合っている。
「<ひがしの まものは のんびりやで こまかいことは きにしませんでした。そこまで いうなら まあいいよ と めがみに いいました。>」
東の魔物らしい影の前で、女神が喜んでいる。
「<みなみの まものは ほこりたかく がんこでした。でも めがみは あきらめません。さいごには みなみの まものも しぶしぶ うなずきました。>」
翼の生えた東の魔物の影の前で、女神が頭を下げている。
「<こうして さんびきの まもののちからを ひとつにして めがみは せかいをうごかす ひとつの ちからをうみました。ひとびとは このちからを 『ノウォン』と なづけました。>」
空に浮かび手をひろげる女神の後ろに、赤と青と緑、三つの丸い文様が浮かび、そこから白い光が溢れ出している絵。
「<ホルウォートは ノウォンのちからで よみがえりました。>」
緑あふれる地面に膝をつき、人々が空にいる女神を拝んでいる。
「<めがみ ノールは ホルウォートの きたがわに いえをつくり そこで ななにんの こどもをうみました。こどもたちは 『さいしょの なな』と よばれました。>」
七人の、体型がそれぞれ違う若者たちが、女神の前に並んでいる絵。
「<いまも ホルウォートは めがみ ノールと さいしょの なな によって まもられているのです。おしまい、おしまい。>」
そうか。この絵本は、この世界ホルウォートの創世神話なのか……。
包帯さんも、ダニスさんたちも、ノウォンという言葉をひどく大切なものとして口にしていた理由が、なんとなくわかった気がした。
「……ずいぶん熱心に聞いてたわねー。いい子いい子」
ラホさんが後ろから頭を撫でてくれる。
……この人は。
つい数日前まで、えたいのしれない生き物って言ってたのに、いまは自分の子供みたいに接してくれる。
ダニスさんが言った通り、おおらかで優しい人だった。
それが、涙が出るほど嬉しくて……そして、理由もなく心が痛かった。
僕の心の中には、がらんどうの暗い穴がある。
その中で僕は独りだった。独りだってことに慣れて、穴の中に座ってる自分がいた。
ラホさんの柔らかい優しさが、きれいな水が傷口に沁みるように、穴の中の僕にはひりひりと痛いのだった。
僕は何者なんだろう。どこから来て、どうしてここにいるんだろう。
僕の中にある暗い穴のことを思い浮かべるたび、僕は自分が何重にもブレていくような不安に襲われる。
僕は、女神ノールの絵本を暇があれば見て、読み聞かされた内容を思い出しながら、文字を覚えていった。