後篇 ―オレと先輩の7月6日―
0時を回って、もう七夕前日になっている。ああ、もしかして受験勉強してるのかも知れない。そうだよな、高3の夏休み前にチャットに入り浸るワケがないんだ。
夜風が窓をゴトゴト鳴らす。やけにじめっとした、夏の夜。ふとアイスコーヒーが飲みたくなって、真っ暗なキッチンに足を運んだ。ブレンディの無糖をコップ一杯注いで、一口。
「苦……」
さすがに低糖が限界、というか、飲めなくはないが気分に合わない苦味だ。どうしたものかと辺りを見回すと、スティックシュガーが目に留まった。そう言えば、琴音先輩はコーヒーにはスティックシュガーを入れてたっけ。甘いけどカロリーは低めなんだと1杯に2本くらい使ってたような……。
「……ダメだ」
何だか今日は、先輩のことばっか頭に浮かぶ。それもこれも、先輩が「諦める」とかリアルな雰囲気で言うからだ。7日になればきっとまた、「今年も来なかったから何か奢りなさい」とか言うんだ。我ながら的中しそうな未来予想図だな。
てゆーか何でこんなに気にしてんだよ、オレ。琴音先輩が願い事を諦めようが諦めまいが、オレがどうこう考えることじゃないハズなのに……
少しだけ気分に同調した苦味が、腹の底に落ちていく。それは、オレの中の黒い感情にどろりと混ざって、ちゃぷんと音を立てた。
もしも先輩の前に「運命の人」が現れてしまったら……
もしも先輩が「運命の人」を見つけてしまったら……
もしも先輩が「運命の出会い」を諦めてしまったら……
もしも先輩の「運命の人探し」が終わってしまったら……
「……は、ははは……何だよ、オレ……」
一番近くで応援してるハズだった。
一番近くで励ましているハズだった。
一番近くで先輩を見て、オレは、オレは……
一番近くで、嫉妬していたんだ。
顔も知らない、居るかも分からない、曖昧な存在に。
アイスコーヒーをその場で飲み干し、部屋に戻ってパソコンを閉じた。スリープじゃなくてシャットダウンしたのは、一体いつ以来だろう。
「……すいません、先輩」
届くことない謝罪が零れる。醜い自分に吐き気がする。
応援してたつもりだった。けどそれは気持ちの上っ面だけで、オレは毎年、自分の願いで先輩の願いを打ち消していたんだ。
「先輩の運命の人が、今年も見つかりませんように」と。
***
「……津……おい、聞いているのか鷲津!」
「あっ、はい!」
「70ページの5番、前出て解け」
「は、はい」
全力でボーッとしていたから当てられた時は焦ったが、見ればそれほど難しくはない問題で、かろうじてピエロ化は免れた。昨日の夜、先輩がログインするのを待ってる間、予習とかしたんだった。ってことは、先輩のおかげかもな……なんて。
1時間目の数学から7時間目の物理まで終始頭が働かなかった。だって今日は7月6日、もう時間がない。オレが最後に見た先輩は、必死に何かに耐えているような、脆そうな笑顔だった。もしも既に先輩が、ずっと続けてきた願い事を諦めようとしているんだとしたら……
ずっと背反事例を願ってきた、オレのせい。
「では、ホームルームを終わります。また明日」
「さよならー」
「じゃあねセンセー」
クラスのみんながダラダラとカバンを肩にかけ教室を出ていくより先に、オレはダッシュで下駄箱まで向かった。
クソ、先輩のせいでまた全力疾走かよ。文句はなしだ、オレが招いた結果なんだから。七夕になる前に、先輩が家に帰ってしまう前に、無意識に閉じ込めてきた数年分の感情を、全部渡してしまおう。渡した直後に捨てられても、構わない。とにかくもう、隠し続けるのは疲れたんだ。
先輩の通う女子高も、ホームルームが終わった頃だろう。校門前で待ってれば部活終わりに会えるか……? いや、部活がなくて先に帰ってたら意味ない。どうすれば、どうすれば手っ取り早く確実に会いに……
「あ、メール……!」
驚くほど身近で手軽な連絡手段に気がづいて、スマホを取り出した。今日明日と、天気はいいらしい。七夕の夜は、天の川がよく見えるとかニュースで言ってたっけ。日没までは時間があるが、汗のにじむ肌に若干心地いい夕方の風が吹く。先輩のメアドを探して、本文を打ち込んでいく。深呼吸を一つしてから、送信ボタンを押した。
「あーあ、送っちまった……」
自嘲気味に呟くと、全力疾走の疲れがどっと押し寄せてきた。とりあえず、「ちょっと話したいんで、いつもの公園で待ってます。部活あるんなら時間潰しとくんで大丈夫です」と伝えた。先輩が家に帰る途中にある、ブランコとすべり台と狭い砂場しかない小さな公園だ。此処からだと、歩いて10分ぐらい。
5分後、返信メールが届く。「今学校終わったから、あと15分くらい待ってて」だそうだ。文面はいつも通り……やっぱ昨日の雰囲気、オレの考えすぎだったか……?
さて、何から話そうか。まずは謝罪だな……先輩、すごく怒るんだろうな。引っ叩かれるんだろうか、オレ。先輩だったらパーじゃなくてグーで殴りそうだな……うわ、似合う。何て言って謝ろう、どんな台詞が正解なんだ? もう会ってくれないかも知れない。そうだ、会うのが最後になるかも知れないんだ……あっ、怒って走り去られたらちょっとマズい。一番伝えたいこと、言うヒマなくなるし……
「アル、」
「えっ?」
公園のベンチにて。まだ5%ぐらいしか心の準備が進んでいない段階で、オレは呼びかけられた。まだ返信がきてから、10分経ってないのに。
「あ、え……ま、マジっスか……?」
「何がよ。呼び出しメールしたの、アルでしょ? もう……」
先輩は掌でパタパタと顔を仰ぐ。
「メールの返事なかったから……15分とか待たせ過ぎだ、って怒ったんだと思った!」
「あ、す、すいません……」
「結構走ったんだから!」
「えっと、ありがとう、ございます……」
琴音先輩はぷいっとそっぽを向いてから、少し離れたブランコに座る。オレはベンチから立って、ブランコの方へ足を進めた。日没が近付いているのか、真上の空では、紺と橙が混ざり始めている。点々と映り始める小さな光の粒たちに、オレの心臓はどくりと鳴った。
「それで?」
キーコキーコとブランコを揺らしながら、先輩がオレを見上げる。何から話すか、ついに決められなかった。本能的に、直情的に、オレは頭を下げていた。
「ど、どーしたのよ急に! 私、何か……」
「先輩、オレ、謝んなきゃいけないことがあります」
「え?」
どう思われたって仕方ない、おこがましくて醜い本音。だけど言わなきゃ分かってもらえない。もう、先輩の願い事を邪魔したくない。
「オレ、は……先輩のこと、応援してました。先輩に出会って、オレはネット上じゃなくても自分の意見を言えるようになったし、学校でリアルな友達もできたんです。だから、先輩の願いも叶って欲しいって、ずっとそう、願ってたハズ……なんです」
「ハズ、って……」
困ったような先輩の声に、オレの拳は震えた。けどもう、引き下がれない。オレは、先輩の前では正直でいたい。5年前、「笑わないで聞いてね」と、願い事について話してくれた先輩の前だから、オレも。
「先輩の『運命の人』が見つかったら……オレ、先輩に会えなくなるじゃないスか! 会う理由、無くなるのが嫌だから……ホントは……そんなヤツ来るなって、見つかるなって、そう思って……!!」
「じゃあアルは、私が離れていくのが、イヤなの?」
「あ、当たり前じゃないスか……!」
「どうして?」
咄嗟に頭を上げたオレに、先輩は静かに問いかける。紺と橙を映したその瞳は、少し潤んでいるように見えた。
「どうしてって、そんなん……」
「答えなさいよ」
怒られる。嫌われる。もう少し心の準備しとけば良かった。
「だから、その……」
「答えてよ、アル」
「オレがっ……琴音先輩の『運命の人』になりたかったからですよ!! こんな不純な動機でっ……」
思い切って口を開いたのに、琴音先輩は最後まで言わせてくれなかった。勢いよくブランコから立ち上がって、オレに体当たりして……いや、コレ、体当たり……か?
「バカ……アルのバカ!!」
「せ、先輩……?」
首元に、腕の感触。今までの5年間で、一番近い距離。小刻みに震える琴音先輩は、声まで震わせていた。
「ホント、どこまでも草食なんだから……もうちょっと積極性、持ちなさいよっ……」
「す、すみませ……」
「他に何か、言うことないの?」
「え、っと……」
かつてない至近距離に加え、少し弱った先輩の声。オレの緊張はピークに達し、思考が停止する。と、先輩はバッと顔を上げて、ムスッとし、抱きつく状態から一変、腕組みして仁王立ちした。
「ないの!?」
目の前にはもはや見慣れた不機嫌な表情。
自分の置かれてる状況がイマイチ掴めないまま、オレは先輩に言うべきことを考える。えっと、もう謝ったから……あとは、あと言うことは……
「その……好きです、先輩」
割り切った男らしさなど露ほどもない、恐る恐るの告白。オレにとってはこれが精一杯で最大限だった。
「……ばーか。知ってるわよ、そんなこと」
琴音先輩はふわりと微笑んで、ブランコに座った。そして今度はやや勢いよくこぎ出す。一方のオレは、思いもよらない返しに混乱状態。
「え、先輩、知って……え!? だってオレ、今まで一度も……」
「言われなくたって分かるわよ。だって、私もアルが好きだから」
先輩に笑顔を向けられることがレアなのに、「好き」の台詞オプションは破壊効果抜群だった。コレ、白昼夢じゃないんだよな? 蜃気楼が映し出した幻じゃないよな?
「ちょっと、何でそこでボーッとするのよ」
「えっ」
気付けば先輩は、再びムスッとした表情をオレに向けていた。
「私の『運命の人』になってくれるんでしょう? シャキッとして」
「あ、はい……します」
明日の七夕では、「シャキッとした人間になれるように」って祈ろうか。太陽はもう地平線の下に潜り始めたようで、暗い紺色をした東の空に、星たちの姿。夜風に乗るキコキコという控えめな音の中、先輩は落ち着いた声で言った。
「ねぇ、天の川見て……散歩して帰ろ」
「そうっスね」
七夕伝説が好きな先輩は、単にもう少し星を眺めていたいだけなのかも知れない。けどオレは、そんな先輩と1秒でも長く一緒にいたいと思った。
スッと立ち上がった先輩に、「あの、」と声をかける。かけたはいいが、緊張で続きが言えない。我ながら情けないと心の内で嘆いていると、白い掌がおもむろに差し出された。
「いーよ」
「お、オレまだ何も……」
「5年の付き合いよ? そのくらい察せるわ」
得意げに言う先輩を見て、オレは「マジっスか」と苦笑しながらその手を握った。夏なのにどこかひんやりしている先輩の手と、緊張で熱いままのオレの手。静かに夜を深めていく空には、織りなされ始める天の川。その美景を見るよりも、歩き出すよりも先に、先輩とオレは重なった手の温度差に、二人で笑ってしまった。
― 終 ―
読破ありがとうございました!!
ベタにベタを重ねたような恋愛小説でしたが、お楽しみいただけたら幸いです。