-弐-
――影は消えない
西郷朱美。岩手県出身のバイオリニスト。国際的実業家であるマイケル・川上氏のプロダクションに所属している。今は首都近郊に建築した彼の別荘で不便のない暮らしをしている。これは自己紹介のつもりだが、私はこの地に来るまでの記憶がない。いわゆる記憶喪失者だ。東京に単身やってきて、路上でパフォーマンスをした際に川上氏に目をつけられて今に至る。それまでは現在考えられないほどの極貧生活をしていた。恵まれた自身の運命に感謝をしたい。
私の住む川上邸には彼の家族と20人近くの使用人がいる。来客も多く、川上氏と繋がりのある業界人に彼の愛人まで毎日目まぐるしく川上邸を訪ねてくる。私も言わば使用人の一人みたいなものだ。彼のおかげで私個人の演奏会を都内のホールで開催させても貰っている。もっとも、私が演奏する機会はこの川上邸で開くパーティの場が多いが。何にしても今の私は幸せ者だ。
私は一人バイオリンを奏でていた。この豪邸に来る前より私は暇があれば愛用する楽器の練習を繰り返した。もはや癖になっているというか、私にとってただ一つの生き甲斐であった。その最中、ドアをノックする音が聴こえた。
「すいません西郷様。お邪魔しても宜しいですか?」
「はい。どうぞ」
この豪邸の執事である小泉が私の部屋に入ってきた。小泉は私達使用人を束ね、管理する言わばこの豪邸内の重鎮だ。その割には私に対して丁寧に接してくれるところがあった。私はそんな彼をいつも疎ましくも可笑しい人間だと思ってみていた。
「何の御用ですか?」
「明日の晩に予定されていました池上様御訪問の件がキャンセルとなりました。つきましては明日の演奏も延期という申し渡しをするようにと」
「そうですか」
私は思わずため息をついた。珍しいことではないが、やはり面白くはない。
「申し訳ございません。せっかくの機会だと思うのですが……」
「構いませんよ。よくあることです。御主人様にはお気にされないようにお伝えください」
「それが、その件かどうかわかりませんが、御主人様が西郷様とお話をされたいとおっしゃられまして」
「私と?」
「ええ。準備など必要でしたら、お待ちいただくようご主人に頼みましょうか?」
「いいえ。いいわ。急いでいきます。一緒に行きましょう?」
「すいません」
私は小泉と川上氏の待つ部屋に向かった。
「西郷様、貴女は超能力とかいう類の話を信じたりしますか?」
「は? 何ですかいきなり……」
「いや、個人の趣味でそういう研究をしていましてね。興味があればと思って」
「残念だけど全く興味ありません。そんな悪趣味な人あまりいないのでは?」
「ええ、確かに。ですがこの世で起きる超常現象の全ては全て生き物の不可思議な力によって……」
「小泉さん、恐縮ですがその話は止めてもらえませんか? 正直気持ちが悪い」
「おっとこれはいけない。今後は控えましょう」
「………………」
珍しくも小泉が仕事以外のことを話しかけてきた。何だか癇に障る話題だった。何でそう感じたのかはわからないが……しばらく小泉とは口をきかないようにした。そんな彼の案内で川上邸の一室に案内をされた。とても大きな絵画が飾られた部屋で川上氏はワインを片手に私を待っていた。小泉は雰囲気を察して部屋を静かに出ていった。
「やぁ、突然に呼び出してすまないね」
「いいえ。御主人あっての私ですから。いつ呼ばれても構いませんよ」
「うむ、単刀直入に聞くが、君は東京にくるまでのことを全く覚えてないのか?」
「ええ」
「まあな。改めて聞くべきことじゃないとは思っていたのだが……」
「構いませんよ。でも何でまたそんなことを?」
「いや~君とうまくやっていく為にはどのようにしていくべきか、もっと知っておきたいと思ってね」
「どういうことです? 私達のビジネスに何の障害もないように思えますが?」
「いや、実はね、君に縁談をと思っていたところなのだよ」
「!?」
「驚くよな。無理もない。私の息子の亜連を君にどうかと思ってね。学生時代に失恋をしてから、どうもいい話がないみたいで。ゆくゆくは我が社を担う重要な逸材だがアイツもいい歳になった。君みたいな魅力的な伴侶がいれば彼のこれからも間違いなく明るいと思うのだよ」
「私が…………ですか?」
「もちろん君は芸術家だ。結婚なんてしないという選択肢もあるのだろう。でも、会って話をしてくれるだけでもどうかと思ったのさ」
「………………」
「遠慮するかね?」
「御主人様」
「ん?」
「酔っておられるのですか?」
「まさか。この程度じゃ酔わないよ」
「そうですよね」
それから私は3日間ほど悩み、縁談を受けることにした。会ってみれば、川上氏のように洗練された顔立ちをしており、気さくで話し上手な素敵な男性だった。このお見合いで私と川上亜連との交際が始まった。勿論結婚を見据えての交際だ。地元に身寄りがない私が新たな家族を手に入れた瞬間だった。まさに玉の輿に乗った女。だけどこんな幸せがあってもいいじゃないか。私はやっと自分の人生に意味を見出すようになった。
亜連との交際は順調だった。1年もしないうちに入籍また挙式の予定を組んでいくなど、どこか忙しくて充実しているようでもあった。もちろん彼は本社専務としての仕事もあり、私もバイオリニストとしてのスケジュールで多忙を極めていた。しかしそれでも止まらない充実感は私がこれまでになく幸せの絶頂にいることを示しているようだった。誰しもが私達の行く末を祝福していた。
「なぁ、今度ここでウチの社員達で朱美の誕生日パーティを開こうと思うんだ」
「ええ!? 大丈夫なの? そんなことして?」
「大丈夫だよ。朱美も川上家の一員じゃないか。こういうのは甘えてくれよ」
「ええ、断わりはしないわよ。でも……」
「その日、朱美にどうしても渡したい物がある。だから、ね?」
「わかったわ。でもせっかくの機会だし、私にも私のしたいことさせてよ?」
「?」
「もうっ、鈍いわね。私の生き甲斐はたった一つでしょ?」
「あ! ああ! もちろん! 喜んでお願いするよ!」
亜連が提案してきた私の誕生日パーティ。そこで彼が渡したい物が何なのか私はわかっていた。胸が痛いほどの喜びに溢れた。この川上邸で私の誕生日と女性としての門出を祝福してくれるのだ。私なりに御礼を尽くすのは当たり前だろう。
やがて私の誕生日会が川上邸内のホールで開催された。この館に私が招かれるようになって初めてのこと。こんなに手厚く祝福される人生を生きることになるなんて誰が想像できたのだろう。少なくとも私はそうじゃなかった。そんな事を想いながら私は舞台上でバイオリンを奏でた。この川上邸で出会えた多くの人が私の演奏を聴いてくれている。この演奏が終われば亜連から最高のプレゼントを貰える。有頂天になりそうになるも、冷静に、最後まで演奏しきる事に集中した。
演奏が終わり、スタンディングオベーションでの拍手喝采をこの身に浴びた。
しかし悪夢は再び私を地獄の底に突き落とした。
アイツがいた。この会場に似つかない濡れた雨合羽にもじゃもじゃの長い黒髪、真っ白な目と歯を見せてこちらに拍手を送っている。幻覚だ。幻覚なのだ。私はそう自分に言い聞かして冷静になるよう努めた。しかしそうすればそうする程に私の体は固まった。私のこの様子の影響で会場からどよめきが始まった。亜連と小泉が私の近くへ駆け寄る。次の瞬間、小泉が不意に立ち止まって天井を見上げた。その刹那、亜連が「危ない!」と声を張り上げ、小泉に体当たりをかました。
一瞬の出来事だった。天井に飾られていたシャンデリアが私の目前で落下した。そして二人ともその下敷きとなってしまった。
ホール中に響き渡る悲鳴、血塗られた花婿、いつの間にか私の誕生祭は惨劇の地獄絵図へと変貌した。唖然とした私はバイオリンと共に気を失って倒れこんだ。
私は豪邸内の豪勢な部屋の一室で目を覚ました。身体の至る所に包帯を巻かれている。そうか。近くにいた私もガラスの破片で多少は傷を負ったようだ。よく周囲を見渡すと涙に濡れた川上氏が椅子に座っていた。
「御主人様……」
川上氏は嗚咽が止まらず、何を言おうにも言えない状態だ。頭部に包帯を巻いており、傷ついているにも関わらず私を案じて来られたようだ。しかしこの様子だと亜連も小泉も……。
ああ。何ということだ。
悲しみに暮れる川上氏を見つめるうちに、私の脳裏にここに来るまでの記憶が浮かんで蘇った。そう。アイツによって起こされた悲劇の数々を――
川上ウォーターの御曹司、川上亜連は不慮の事故で死亡した。亜連に救われた小泉は重傷で済んだとのことだ。しかし車椅子でその生涯を生きることが決まり、本人の意志で執事の仕事を辞職した。亜連亡き今、後継ぎとして同会社の重役の名前が次々と上がっている。『亜連暗殺計画の舞台裏』と題され、あの事故を面白おかしく取り上げる週刊誌もある始末だ。私はやるせなかった。あの事故の原因が何なのかよくわかるだけに。私のすることは決まった。
「そうか。地元に帰るのか」
「はい。すいません」
「謝ることなどない。辛い思いをさせたのは私だ。責任は私にある」
「いいえ。御主人様は何も悪くありません。実はここ最近になって私、岩手にいた頃のことを思い出したのです」
「!」
「私の人生は縁をする人の不幸に溢れています。こんなことを言ったら変だけど、私は疫病神のような人間です」
「どういう事だ? 亜連のようになった人間が他にもいると言うのか?」
「何も語りたくありません。できるなら詮索をしないで欲しいのです」
「うむ、わかった。余計なことをするのは止そう。しかし君の奏でる音楽は心に沁みて魅力的で私を離さなかった。君を失うのはとても胸が痛い。そんなことを思っている男がいるのを忘れないでくれ。これは気持ちだ。受け取ってくれ」
「これは……」
川上氏はトランクを取り出し、開けて見せた。中身は札束がぎっしり詰まっていた。私は目を丸くして驚くしかなかった。退職金は既に貰っているのに……。
「私からの餞別だよ」
「こんなの受け取れませんよ……」
「そう言うな。最後の私からの願いだ。遠慮しないでくれ」
「わかりました。では私からも一つお願いをさせて下さい」
「?」
「どうか私のことはもう忘れてください。このお願いを受けてもらえるのなら、御主人様からの餞別も受けましょう。どうでしょう?」
「随分と寂しい取引だな。ああ。わかったよ。君がそう望むのならそうしよう。ただ一つだけ君に言わしてくれるか? そしてそれを覚えていて欲しいものだ……」
「?」
「君は疫病神ではないよ。人を惹きつけて離さない天使。どうか幸せな人生を」
「ありがとうございます。肝に銘じて参ります。どうか御主人様にもご多幸を」
私は長年住み続けた川上邸を後にした。窓から川上氏が手を振ってくれている。私もそっと手を振り返した。もうここに戻ることはない。川上邸の庭を抜けた時、不意に涙が頬を伝った。そして私は歩きながらも溢れる涙に濡れた。我慢をすることができなかった。こんなにも辛い結末が待っていたなんて……。
私が川上邸を出た1か月後にマイケル・川上氏は持病の悪化でこの世を去った。亜連が継ぐはずだった跡取りは次女の婿である村上公哉氏に決定した。もし亜連が今も生きていたら……なんて想像しても無駄なことだ。私は手に取った新聞で川上氏の逝去を知った。そして何もない青空に向かって黙祷を捧げた。
そして私は私の生まれ育った故郷に帰った。
身寄りのいない私は安い物件のアパートに住み込み、適当なアルバイトを始め、第三の人生を開始した。第一の人生がこの村で育った時代、第二の人生が川上邸で過ごした時代だとすれば、ここが第三の人生の舞台に他ならないだろう。私がここに戻ってきた理由はたった一つだ。真実と向き合う為、それ以外にない。
私は親友とかつて足繁く通った神社に辿りついた。空は濃く曇って今にも雨が降り出しそうだ。私は合羽を着てここにやってきた。鳥居の真下で目を閉じると、色々なことを思い出した。
あれは私達が10歳の頃の話だ。私達は各々の夢を紙に書き、牛乳瓶に入れ、「大人になった時にこれを開けよう」と約束したことがあった。いわゆるタイムカプセルとか言うような遊びだ。今更ながら思い出す自分に苦笑いをしてみせた。
思い立った私はおぼろげな記憶を頼りに地面を掘った。しばらく掘ってみると、見覚えのある瓶が手元に出てきた。すぐに瓶の蓋を開け、2枚の紙を取り出した。1枚目の紙には「おんがく」と汚い字で書かれたうえに、何やらよくわからない楽器を弾いている人が下手に描かれた絵があった。おそらく私だ。我ながら恥ずかしい。2枚目は「ほんだクンとケッコン!」と一言綺麗な字で書かれていた。私はハッとした。そうだった。私が付き合っていた彼氏の本田君のことを彼女は恋い焦がれていたのだ。
私が大事なことを思い出した途端、急に雨が降り始めた。
私は濡らすまいと瓶に戻そうとしたが、2枚とも地面に落下し水浸しになった。
私は2枚の紙を拾い上げた。2枚とも書かれていた字も絵も原形を留めていなかったが、「ほんだクンとケッコン!」と書かれた紙から血のような赤字が浮かび上がってきた。
「ずっと、ずっと、朱美と一緒」
赤字はじんわりと浮かび上がって、まるで出血しているかのように赤い液体を垂らした。私は悲鳴をあげて紙をそのまま地面に叩きつけた。
息を切らして私は紙を睨み付けながら立ち尽くした。気がつけば瓶も手放していた。私は瓶を拾うと久しぶりにアイツを目の当たりにした。
いつもの雨合羽にもじゃもじゃの長い黒髪。白い歯を見せてニタニタと笑っている。しかし長い前髪を前に垂らしていて、その目を見ることができない。
「美里……?」
私がその名を呼ぶとソイツの周囲から不自然な霧が発生し、その霧に飲み込まれるようにして忽然と姿を消した。やはり彼女がその正体なのだろう。
こうして私の闘いが始まった――
∀・)次話に続きます。実は謎解き要素を入れてる本作であります。あなたには見えましたか??




