サマー・セッション
でっぷり太った女が、ぴっちりした黒スーツを着て、俺を指導している。細い棒きれを左手に持ち、黒板の重要なところを指し示しながら、「ここ、出ますからね」と再三口にする。だが俺は、そんなことよりも、この女の額からとめどなく溢れ出る汗の方が気になっていた。一体人間がこれほどの汗を流せるのだということに感動すら覚えていた。女は汗が噴き出るたびにピンクのハンカチで拭う。それで一旦は清潔になる。しかし、汚い唾を飛ばしながら指導をしている間に、額には、新たな汗が水玉模様みたいに浮き上がってくるのだ。それらは次第に膨らんでいって、隣の水玉に接触する。そうすると二つは一つになり、重くなる。下へと流れていく。流れた先には別の水玉があるわけだから、それとも融合を果たす。やがてそれらは一本の巨大な滝へと変貌して、目玉だったり、鼻の先だったりを塩辛くする。この時になってやっと、女はハンカチで汗を拭き取っていた。五分に一回くらいのペースでそれが行なわれていた。さすがに可哀そうになってきた。クーラーが故障していなければこんなことにはならなかっただろう。しかし、現にクーラーは使い物にならないのだし、修理もされない。室も変えられないときたら、素直に受け入れるしか残されていないわけだ。
窓は全開まで開け放たれているが、そこから入って来るものは、直射日光とカラッカラに乾いた忍びない風だけだった。太陽は真正面から俺と太った女を照らしていた。太陽といえば、俺たち生き物を生かしてくれる存在だ。これがなかったら俺はここにいない。女もいない。だがこの時ばかりは、太陽なんて消失してしまえばいいのにと女は思っているに違いなかった。それがたとえ、自分という存在を消失させることと同義だとしても、願ってやまないのだ。〈沈まない太陽……どこまでも昇るのさ……〉などとはとても歌えない。
あるいは俺を指導するという自分のその役割が消えてしまえばいいのに、と思っているのかもしれない。むしろそちらの方が、可能性としては高そうだ。どうして自分が、三十八℃の炎天下で、たった一人の出来の悪い人間をつきっきりで指導してやらなくてはならないのか、自分の運命を呪ってすらいるかもしれない。……いいや、そこまで過激にはなっていないだろう。女は自ら望んで、指導員としての社会的地位にあるわけだから。それを否定することはまた、女自身を否定することになる。そんなことはとっくに承知のはずだ。だからこそ、でっぷり太った女は、こうして大量の汗を流しながらも、熱心に俺を指導してくれているのだ。地方の農民みたいに、真面目に実直に。
そのことを考えると、妙な気持ちになった。昨日と同じ感覚だ。粘土でも捏ねるみたいにして、意識がぐにゃぐにゃにされる感覚。だが昨日のはどうにか我慢が利くのに対して、今襲ってきたものはどうにも手に負えない予感がした。正体も不明なぶん、よほどタチが悪かった。こんな相手に真っ向から戦いを挑んだところで、ボロボロになって敗北するのがオチだろう。俺はどうすればいいのかがわからなかった。この指導中、ずっとこれが続くのかと思うと、なかなかの恐怖だ。
今日だけは真面目になろうと決めたのは、おそらく偶然だったんだろう。他に対策なんていくらでもあったはずなのだ。たとえば、ここを飛び出して外の空気を吸うだとか。あるいは女に何か変な言葉でも引っかけて、指導を妨害してやるだとか。外の空気を吸うためならば、窓から飛び降りてもよかった。見張りのやつらがすぐにひっ捕らえるだろうが、それでこの状況を打破できるのなら願ったり叶ったりだ。自分でもどうして、こんな保守的な選択をしたのかがまったく理解できないでいる。多分いろいろと後のことを考えてのことだろうと分析するが果たして。だが、自分を落ち着かせて冷静になってみると、けっこう理に適った決断だったんじゃないかとも思えてくる。女だって、さっさとこんな暑苦しいところからは脱出したいだろう。俺が真面目になれば、指導の効率は上がって終わりの時間を繰り上げられることだってあるのだ。そうなれば一石二鳥、いや三鳥だ。俺はこの得体の知れない煩わしさから逃れられて、こんなクソみたいな時間も早く終わらせられて、女の汗だって食い止められるのだから。そう思うと、俺はなおさら勉強に身を入れたくなってきた。今までサボっていたが、こっちの方が実は楽だったんじゃないかという疑いさえ生じた。我ながら自分のことがわからない。ほとんどだらけるためにここに来たっていうのに、次の瞬間には勤勉になろうと意気込んでしまうんだから。都合が良いといえばそれまでだが、どうやらどちらも自分であるらしい。それはそれで認めるしかない。今は面倒なことを考えている余裕などないのだ。
机のノートに目を移す。ノートはおかしな形の落書きやら意味のよく通らない文字やらで埋め尽くされていた。被害を免れたページを見つけることの方が困難だ。新しいノートを用意しておけばよかったと思う。でも、この女のせいで勤勉にならざるをえなくなったなどと、誰が予想できただろう。苦労しながらも、かろうじて被害の少ないページを探し出す。一ページ目から数え上げると、七ページほどどうにか使えそうだった。俺はそれらのページの端を折り曲げて、他と区別した。確保に成功した後は、黒板に書かれた暗号に近い文章なり記号なりを、ひたすら書き写していくことから始めていった。
夏季休業を利用した指導は、きっちり三十時間行なわれる。このうちテストに二時間、答え合わせに一時間が費やされるから、実質的な勉強時間は二十七時間だ。これが三日間で実施される。その間、いかなる外出も許されていない。施設での生活は三日間ぶっ通しで続く。
指導時間を除いた時間は、食事や睡眠に充てられている。朝の八時から指導が始まるから、それまでに着替えを済ませたり、朝食を食べたりしておく。お昼の十二時から十三時までお昼休憩。その後、三十分の小休憩を挟む他はずっと指導が続いて、夜の二十一時にやっと終了。その後夜食をとるなり復習をするなりして、明日に備える。これが一日目と二日目のスケジュールだ。三日目も、お昼までは同じ進行だが、午後からはテストになる。三日間で学んだことを試すわけだ。その後、答え合わせをして、合格ラインに達していれば、施設を卒業、という流れだ。
施設は五階建てになっており、指導室は二階から四階までになっている。俺が指導されているのは、四階の、左から二番目の、そして唯一クーラーの効かない室だった。一階は指導員の待機する職員室となっている。休憩時間に入ったり、その日の指導が終了すると、指導員は職員室に戻り、弁当を食べたり布団を敷いたりする。五階は俺たち、出来の悪い生徒のための場所だ。それぞれ二人ずつペアになって室を使い、そこで飯を食ったり寝たりする。ベッドはもちろん完備されてあるし、食べ物にしても、階段を上がってすぐのところに二十四時間営業の購買があるから、そこで買うことができた。購買には他にもいろいろなものが置いてあり、漫画がレンタルできたり、あるいは夜のお供のための、いかがわしい雑誌やらDVDやらも閲覧できた。たとえ十八歳未満の人間でも、年上の仲間に代わりに借りてもらえば、普通に見ることが可能だった。この辺はかなりルーズだ。取り締まる者もおらず、たまに警備員が巡回する程度なので、いくらでも誤魔化すことができた。
けれどもそういうことをするということは、本来の目的である勉学に熱が入らなくなるということでもある。もしも三日目のテストで、指導員の定めた成績ラインを越えることができなかった場合、指導期間は延長される。ということは、そいつは三日間の施設生活を一日目からやり直さなくてはならない羽目になるのだ。それはある意味では幸せなのかもしれない。ここにいる限り、金さえ持っていれば好きなものを親に内緒で買うことができるのだから。しかし、そううまくはいかないのがここの特質でもある。施設には独特の雰囲気が漂っており、生徒たちはおろか、指導員までもがこの雰囲気に呑まれてしまう。指導をする者とされる者を際立たせ、その役目たることを強制させられるような空気感だ。それはここにいる日数が増えるにつれて俺たちを蝕んでいく。たとえば、夜、勉強に飽き飽きしてオナニーをする時、日毎にその成果が弱々しくなったり。あるいはこれまで大食間で、カツ丼弁当を一度に三つも食べてしまうようなやつが、パンを一口齧っただけでお腹いっぱいになってしまったり。そういう変化が、次第に起こり出す。この苦痛から脱するには勉強するしかなく、生徒たちはエロ本や弁当の代わりにペンとノートに向かい始める。彼の頭はカチリと勉強モードに入り、施設を出る頃には立派に更生している、という手筈だった。俺の知る限り、今までここに一ヵ月以上連続して滞在できた者はいない。みんな、二週間ほどはだらけているのだが、次の週あたりから人が変わったようになり、施設を揚々と出ていく。そして俺も今、その段階に差し掛かっているところだ。
ここに閉じ込められてから、ちょうど二十日が経過していた。指導は三日単位だから、今日は七回目の指導の二日目だったということになる。黒板に書かれてあったことのことごとくがチンプンカンプンなわけだった。一日目はずっとさぼっていたから、それの応用である今日の範囲が、俺に理解できるはずがなかったのだ。黒板のは一応、全部ノートに書き写したものの、自分の字なのに読めないところがあった。うねうねした字面を見る限り、途中で居眠りをしたらしかった。
それらを考慮しても、ここまで勉学に励んだのは施設に来て初めてだった。自分でも意外だ。そしてわからないところを、どうにかして潰したいとも思っているらしかった。おそらくここに漂う毒気にやられたのだろう。もしくは、今日の昼に感じたあの煩わしさが俺を動かしているのか知らん。いずれにせよ、俺は居ても立ってもいられなくなり、夜、食事を終えると生徒室を飛び出してきた。ルームメイトに頼ることはできない。彼は筋金入りの出来の悪い生徒であり、聞いた話をそのまま信じるとすれば、今日、四回目の指導の一日目を終えたばかりだったからだ。そんなやつに勉強を教えてくれとはまさか言えないだろう。かといって、別の室に有力な知り合いがいるわけでもない。施設にはいろんなところから生徒たちが集まっているから、顔見知りなどほとんどいなかったのだ。向かう場所はだから、職員室だった。でっぷりした俺の今の指導員に、補習指導を頼み込もうと企んでいた。
だが、階段を下りながら考える。あの女は果たして、俺にどれほどの期待をかけているだろうか? もしもそれほどじゃないとすれば、行ったって断られるのがオチだろう。指導時間外は、指導員も自由に過ごせるのだから。そしてその場合、俺がこうして四階分の階段を下りるという行為は無駄となる。しかもその後、また四階分上がらなければいけないのだ。三十段上がっただけでひいひい言うほどの運動不足にとって、それは俺を三階あたりで立ち止まらせるのに充分な威力を持っていた。
女のでっぷり太った姿を思い浮かべる。指導中の女の一挙手一投足を頭に描いてみる。女は俺を、本当に真剣なまなざしで見つめていただろうか? 決して義務だからとかじゃなく、生徒を思いやる気持ちに溢れていただろうか? もしもそうであったならば、今から行っても快く補習してくれるだろう。だが、そうでない場合を考えると、どうしても足は動かなくなる。仕事中だけ熱心で、それ以外の時間はさっぱり、という人を、俺は何人も知っている。俺はそれに見事に騙されていて、今頃はもう、職員室のどこかでぐうぐういびきをかいているのかもしれない。あの体だ、いびきは相当うるさいことだろう。女の近くで寝ることになっている指導員はさぞかし可哀そうだった。そんな音が、三階まで響いてやしないだろうか? 俺は耳を澄ませてみた。そんな音が耳に入ってきた瞬間に、踵を返す予定だった。だが、いびきなどもちろん聞こえない。それは耳を澄ませる前からわかっていたことだ。だがそれでも、そのことを実際に確かめないことには、納得がいかなかったのだ。それはぶっちゃけてしまえば、俺がこうして三階で立ち止まっていること、そして、俺自身がぜひともそのさらに下へと進みたいという気持ちに対する納得だった。
何の音もしないことがわかった段階で、俺は足を再び動かし始めた。結局のところ俺は行くしかないのだ。もしもいびきの概念を覆して、あの女が赤ん坊みたいに安らかな寝息を立てていたのだとしたら、その時は叩き起こしてでも指導させてやるつもりだった。それでもなお、指導してくれなかったとしたら? その時は、観念するしかないだろう。次の指導員に可能性を託すしかあるまい。指導員は三日ごとに入れ替わるから、もし合格できなくて、また一日目からやり直した時、再びあの女に当たる可能性はないと言っていい。だから、たとえ断られたとしても、この女に何を言っても無駄なのだなということがわかるだけで、儲けものだ。あるいはその場で、誰か他の指導員が勉強を手伝ってくれるかもしれない。もっと気楽に行こうと思った。断られたとて、それで人生が終わるわけではないのだから。それでもなお、足は重かったのだが、しかしなんとか動いてはくれた。一階なんてすぐそこだ。右に曲がり、ちょっと進んだところで右を向けば、そこにはもう、目的の場所がデンと待ち構えていた。
指導員たちは、明かりが点いている状態でも眠れるよう、特別な訓練が施されていると聞いたことがある。だから職員室が、真夜中に近いにもかかわらずピカピカに灯っているのを、俺はさして気にしなかった。問題は中身なのだ。なんでもそうだろう。外見に騙されちゃあいけない。その内側を見てみないことには始まらない。俺はしばらく廊下をうろうろしていたのだが、やがて窓から聞こえてきたピシリという謎の音を皮切りに、扉の取っ手を回した。「失礼します」と控えめに声を出した。
中は静かだった。二、三人、机の前でパソコンを弄っている人や、資料に目を通している人が見られたものの、残りの人たちは、床に布団を敷いて寝ていた。指導員たちの寝息は、その一つ一つは小さいものの、たくさん聞こえるものだから、やけに大きな音に錯覚された。その音に俺は若干気後れした。今すぐここを出ても良いんだよという天使だか悪魔だかわからない囁きが頭に聞こえた。取っ手はまだ握られたままだから、「間違えました!」などと言い訳して室を飛び出すなんてこともまだ、可能だ。どちらにすべきかを俺は本気で悩んだ。だがその悩みは、指導員の一声によって決定されてしまった。
「あなた、こんな夜中にどうしたの?」
でっぷり太った女だった。情けない話だが、その声を聞いた瞬間、俺は戦争から家族のもとに無事帰還できたみたいな気持ちになってしまった。声のトーンがそういう情景を思い起こさせたのかもしれない。女はまだ眠っていなかった。ただ、身長が少し低いから、パソコンの影に隠れて見えづらかったのだ。声のした方を見てみると、少し遠くの方にぶくぶくの顔がある。それを見て、俺は思わずニヤリとしてしまった。女はそれで、顔をしかめたようだった。
俺は女にのしのし近づいていった。俺のことは他の指導員からたんまり耳にしていることだろう。俺がこの施設の創立以来、五本の指に入るくらい厄介な生徒だということも当然、承知している。それは女のしかめっ面に明らかだった。女はおそらく、自分はここでレイプされるんじゃないかと思っていた。エロ本が売っていることも知っているだろうし、指導員でさえも、それを買いにわざわざ五階まで来るくらいだから。しかし、俺は勉強を教えてもらうためにここまで来たのだし、レイプなどという行為をけしかけられるほどの勇気もない。女がそれに怯え、かつ期待していたのだとすれば、その時は申し訳なかったと謝るしかないだろう。しかし俺は謝る代わりに、女の前で、手に持ったノートを開いて見せた。そして、一番わからないところを指で指し示した。
そうしたら、女の顔は緩やかになった。まるで子どものいたずらに腹を立てながらも、つい許してしまう心の優しい母親のようだ。それを見て俺も、少年時代にタイムスリップしたような感覚になった。女が隣の空いている事務椅子を引いてくれたので、そこに座る。女の顔を間近で見るのは初めてだったが、それはすごく風船みたいで、どこかの町の特産品みたいな愛くるしさがあった。俺はその顔に釘付けになりながらも、「勉強を、教えてもらいたくて……」という蚊が出すに相応しい小声を出した。女はそれで、顔にたたえた笑みをさらに増大させた。
「わかった。今日は徹夜ね」
でっぷり太った女は、指導室にいた時とここにいる時とで、性格がまったく異なっていた。居眠りしたりそっぽを向いたりすると、途端に鬼の面相になるあの顔と、この聖母みたいな微笑みとを比べてみても、とても同一人物とは思えない。俺はそのことを率直に訊いてみた。今の女ならば、何を話しても許されるだろうと決めつけていたらしい。女は少しためらいを見せた後、照れた表情でそれに答えた。
「私はね、太陽がすっごく苦手なの。だから日中はどうしても、ああいう不機嫌な態度になってしまう。そのことでいろんな人たちに迷惑をかけているのはわかっているんだけど、こればっかりは、ね……。前に教えていた生徒にも、逃げられたことがあったし……」
「どのくらい、苦手なんですか」
俺の質問がおかしかったのか、女はひとしきり小さく笑った。
「どのくらい、か。あんまり考えたことなかったな。そうね、どのくらいかっていうと……わかりやすく言えば、誰かがあなたの一番大切にしているゲーム機を壊したとするよね? あなたはもちろん、その人に怒りを覚える。瞬間的な怒りは、ものすごいものだと思う。それが、太陽が出ている間、ずっと続いてるって、思ってくれれば」
「そこまでなんですか。それってもう、苦手というより、憎しみのレベルですよ」
「かもしれないね。喩えが悪かったのかも」
女は口に手を当てて、また笑っていた。あまりこの話題には触れてほしくないらしかった。
でっぷり太った女は、汗をよくかいた。太陽のあるなしとは関係ないようだ。指導が進むうち、女の額には多くの水玉が浮かび上がってきた。そして、指導室での時と同じく、それが滝になった段階で、ハンカチで拭き取っていた。だが、処置の間に合わない時があって、そういう時は、ノートに被害が及んだりした。そのせいでノートには、いくつかの染みができてしまった。女は呑気な声で謝っていた。「ごめんね、汗っかきで」
気にしてません。と俺は言った。だがそれからも女は、たびたび汗をノートに引っかけた。指導に熱中するあまり、汗のことをつい忘れてしまうらしい。この点も、指導室の時とは違っている。日中、こんなミスをしているところなんて見たことがない。滝になるまで放っておく点では同じだけれども、あちらはその段階で必ず気づくのに対し、こちらは被害が出るまで気づかないことの方がむしろ多かった。顎や首にも汗は溜まり出し、ぴちぴちの白いブラウスは既にびちょびちょだ。それでもしれっとしているところを見ていると、苛々するというよりむしろ呆れてしまう。指摘したところで、次の瞬間にはきっと忘れているだろうから。
疲れると休憩を取った。冷蔵庫から麦茶を持ってきてくれたので、ありがたくいただいておく。その時に気づいたのだが、職員室にはすごく良い香りが漂っていた。花の香りじゃない。ここには一本の花も見当たらない。漂うのは果物の匂いだ。甘ったるくて、もう少しすれば腐ってしまうような。強いて言えば桃に近かったが、それ以外にもさまざまに混じった、独特の匂いだった。
「いい香りが、しませんか」
「え?」
「果物みたいな……もしかしたら、どこかに桃かなんかを何日も置きっ放しにしているのかも」
「そんな匂い、どこにもないけどなあ」と女は豚鼻をくんくんさせたあと、訝しげに首を傾けた。勘違いにしては、匂いがきつすぎる。あんまり甘いから、こっちが蕩けてしまいそうだった。
果物の香りのことは気がかりだが、指導はそれとは関係なく着々と進んでいった。女の教え方はすごく丁寧だった。憶えている限りだと、指導室での教え方は、生徒がわかっていようとわからないでいようと、自分のペースでどんどん先へ行く、効率重視のものだったはずだ。それに比べたらどれほど助かるかわからない。不明な点は遠慮することなく質問できたため、そちらの方が、かえって理解が早くなるように思えた。だいたい、勉強の範囲というものは、ある一つの学ぶべきものがあるとしたら、それとの繋がりを持った広がりなのだ。これらの中心にある〈ある一つ〉を重点的に学べば、他の関連した知識も、ちょっと考え方を変えるだけでわかるようになる。女はそのことを知っており、かつ指導の際の心掛けにしているようだった。教え方一つとってみても、先ほどの喩え話みたいに、俺にとって身近なものをうまく使いながらだったから、女の言っていることがよく呑み込めた。時計を見たら、もう四時だ。明け方近くになって、俺はようやく、一日目と二日目でやったことの大方を頭に詰めることができた。
「ふう」とでっぷり太った女はため息をつく。その一息で、事務机の上の資料が全部吹き飛んでしまいそうになる。「これで大丈夫。卒業は決まったようなものね。もちろん、本番は何が起こるかわからないけれど」
「表の問題にばかり気を取られて、裏にも問題が書かれていたことに気づかなかった、ということには、絶対にならないようにします」
「うん。そういううっかりミスには、気をつけないとね」と女は頷いた。顎が膨らんで、その衝撃で汗が一挙に下に垂れた。
やはり徹夜はこたえたようで、女はぼんやりしていた。その後、最後の復習としていくつかの質問をしたのだが、それにもあまりはきはきした声を出さなかった。俺はたいして眠くなかったので、むしろ女が眠たそうにしているのを不思議がったくらいだ。教える側は、やはり相当疲れるものなんだろうか?
ここらで切り上げ時だと思い、椅子から立ち上がった。「無理させてしまったみたいで、申し訳なかったです」と頭を下げる。女は「うん」とか「そうだね」とか気の抜けた返事しかしなくなってしまったので、俺はもう行ってしまおうとした。だが、ガッタアアンというものすごい音が鳴ったので、振り向いた。女は椅子から転げ落ちて、尻もちをついていた。
「うう。いたた……」
「大丈夫ですか?」と俺は太った女のもとに寄り、手を伸ばす。女は俺の手と机を支えにして、どうにか立ち上がれた。「なんだ、地震か?」という他の指導員の眠たそうな声が聞こえる。女はそれに「もう収まったみたいなので平気ですよ」と返していた。震度三程度のものだから、騒ぐほどのものじゃない。
「ごめんなさいね。眠たくって、つい」
「いや、しょうがないですよ。もう四時ですし」
「もうそんな時間なんだ……」と女は時計を一瞥する。「また太陽が、現れるんだね」
女の太陽に対する執念は、かなりのものらしい。ここまでとなれば、指導中に機嫌を損ねるのもなんとなくわかる気がした。大事なゲームを壊されたら、その先三日くらいは俺だって怒り続けているだろうから。無論生徒の立場としては、やめてくれと叫びたいところだったが。
俺はしばらく動かなかった。そんな俺を、女はお尻をさすりながら見つめる。「どうしたの? 早く戻って、少しでも休んだ方がいいよ」と言葉を掛けてくれる。俺はそれに頷いた。それでもここを動くことができなかった。言いたいことが言えていないからだ。
二十秒くらい経ってから、やっと俺の口から「もし」と言葉が出てくれた。「もし、テストに合格したら。その時は、どうしてそこまで太陽を憎んでいるのかを、教えてくれませんか」
「うーん……」と女は気まずい調子で語尾を伸ばす。「……そこまで気になっちゃった?」
「逆にそんなに、言いづらいものなんですか」
「まあ、ねえ」と女はその時は寂しそうな顔を浮かべた。だがそれも、天使の微笑みですぐに打ち消されてしまう。
「わかった。それに、私から言い出したことだしね。あなたが今日、無事合格できたら……その時は、太陽のこと、全部話すことにする。あんまり保証はできないけど、ね」
「それもやっぱり、太陽と関わりが?」
「さあねえ」と女はあくまで、とぼけ通した。「関係あるかもだし、全然ないことだって」
「果物の甘ったるい匂いのことも、ついでにお願いします」
女はそれには答えず、細い目でこちらを眺めるばかりだった。結局その辺はうやむやなまま、職員室を出てきてしまった。何人かの指導員の声がする。三日目はもう、とっくに始まっていたのだ。
俺はすんなりとテストを終えた。結果はほとんど満点だった。これまでの成績からすれば驚くべきものだ。女は内心意外ででもあるかのように、提出されたテスト用紙と、俺の顔面とを交互に見比べている。だが一番びっくりしているのは間違いなく俺自身だ。合格ラインを越えるということは予想がついていたが、まさかここまで伸びるとは思っていなかった。それにテスト中は、徹夜の影響が出てしまい、眠たくて集中できていない場面があった。それを考慮してもこの点数なのだから、これは誇っても罰当たりにはならないだろう。必死になれば、できないことなんてないのだ。
そして今日も暑かった。窓を全開にしてあるのに、風など少しも入ってはこない。来るのは熱だけだ。それは俺と女を苦しめた。テスト中も、いやおうなく俺の体力を削ぎ落してきた。どうやら籤引きで、指導員と生徒と、それから指導する室とが決定されるらしいから、今回はよほどツキがなかったのだろう。だが、これでこの施設とはおさらばできるのかと思うと、この苦しみすらも、かえって愛おしいものに感じられる……のかもしれなかった。
女は懲りずに、何度も「信じられませんね」と言っている。「あなたほどの不良生徒が、ここまでの点数を叩き出すなんてね。奇跡などないと兼ねてから信じてやまなかったのですが、どうやらその態度を改めなくてはならないようです」
女は昨晩とは人格が全く異なっていた。まさに先生といった態度で、鋭くて、隙のない物言いだ。これも太陽の仕業なのかと思った。あれのせいで、不機嫌な態度になってしまうと自分で言っていたから。それにしては、あんまり変わりすぎじゃないかとも突っ込みたくなる。昨晩の聖母みたいな姿などどこにもなく、あるのはただ、醜く太った、いちゃもんばかりつけたがる悪魔だけだ。女の依然こちらを疑いにかかる姿勢に、俺はだんだん苛々してきていた。俺は女にこんなことを言ってみた。
「カーテンを閉じて、いいですか。窓も閉めてしまって」
女は「信じられませんね」の声を止めて、キッと俺を見る。口を結んだまま、真夏なのに氷漬けにされてしまったように、動かなくなる。だがよく観察すると、眉毛はピクピク動いているようだ。この女の場合、自然の眉は剃ってあったから、ピクピク動いているのは正確には書き眉毛なのだが。
「窓も閉めてしまうのですか。しかしそうすると、我々は蒸し焼きにされますよ」
「それでも。それに、窓を開けていても風なんて入ってきませんし。それだったらいっそ、日光を完全に遮断してしまった方がいいんじゃないかと、思って」
女はそれでも決断をしなかった。一体どうして、カーテンを閉めるかどうかでここまで迷う必要があるのだろう。俺が立ち上がると、女は「ちょっ」などと言いながら、こちらに脂の乗った腕を伸ばしてきた。教壇から降りて、机の方に向かってくる。この行動を見て、なおさらカーテンを閉めたくなった。窓を端から全部閉めていき、室の隅っこに束ねられてあるカーテンを中央まで引いてきて、両方を合わせた。紫色の、サテンみたいに光沢のあるカーテンだ。その間、女は何もしてこなかった。妨害工作でもしてくるだろうと覚悟をしていたが、俺の作業を見守るばかりだ。時たま、何か言葉にならない言葉を呟きながら、こちらに躍りかかってくることもあるにはある。だがそれは束の間で、すぐさま落ち着きを取り戻すのだ。まるで二つの人格が相争っているみたいだった。一方は俺を阻止しようとしているのだが、もう一方は、ぜひ完遂してくれと望んでやまないのだ。ついにカーテンが完全に引かれてしまうと、指導室は暗くなった。隙間から僅かに入ってくるものと、廊下側の窓からのもの以外は、日光はほぼ遮断された。
蒸し焼きに備えて身構えていたのだが、暗くなった途端、熱はみるみる失われていった。冷却装置が持ち込まれたか、クーラーが突然復活を果たしたんじゃないかと錯覚してしまうほどの豹変ぶりだ。しまいにはちょっと寒すぎるくらいのレベルにまでなった。おそらく急激に気温の低下が起きたから、その差異が真冬の気候を再現したのだろう。実際その通りで、少しすると冷えは収まって、ちょうどいい感じになった。だが剥き出しの腕は、鳥肌がなかなか収まらなかった。
指導員を見てみる。女は案外平気そうな面構えをしていた。
「ふう……これで楽になったね」
女は先ほどの鋭くて隙のない物言いとはまるで違っていた。この態度を俺はよく知っている。明け方まで一緒に勉強していた時の、あの態度だ。女がそのようになってくれたことで、俺は気持ちが一気に楽になった。「戻ってきてくれたんですね」とつい口走ってしまう。女はそれに、ぎこちない笑みを浮かべるばかりだった。
「とりあえず、座ろっか」
「はい」
女の丁寧な先導で、俺たちは隣り合った椅子に向かい合って座った。
しばらく俺は何も話せなかった。こういうことなのかもしれないという考えは俺の中にある。でも、それを直接訊いてしまうのも駄目な気がしたし、かといってオブラートに訊くというやり方を俺は知らない。ともするとこの女を傷つけてしまうのではないかという心配もある。だから俺は、視線をうろつかせるくらいのことしかできなかった。
女はそんな俺を見かねたのか、自分から話し出す。
「ごめんね、あなたを混乱させるようなことになってしまって。多分隠してもわかっちゃうだろうから、正直に話すことにする。……私の中にはね、もう一人の私がいるの。別人格と呼んでいいんだと思う、私の裏の存在。昔は逆だった。今こうして話せている私が、太陽の見えている時間帯に活動できて、夜になったり、太陽がほとんど見えなくなったところでだと、別人格の私が現れるようになっていた。でもいつしかそれは変わってしまって、昼があの荒っぽい方になって、夜とか、こういう場でしか、今の私は存在できなくなってしまった。理由はわからない、ただ、気づいたらこうなっていたとしか。でも……考えてみたら、この仕事を始めてからなのかもしれない、昼夜逆転が起こったのは。自分で選んだくせに、実はこの仕事をあんまり好きになれなくて、それで無意識のうちに、別人格の方に、仕事の中心を任せたいって思っちゃったのかもしれない。これは今考えたことだから、実際のことはわからないんだけど」
「太陽を憎んでいる、っていうのは、一体どういう……?」
俺はどうにか口を開く。女はそれに対してはきはきと、むしろ威勢よく答える。
「うん。それの意味っていうのはつまり、私は別人格の方を恨んでいるってことなの。これがあなたの疑問に思っていたことの答えになるのかしら? それは確かに私には違いないんだけど、でも今の私では決してない。それはかつて、私であったもの。この言い方も、ちょっと語弊があるんだけどね。でもそう言わざるを得ないような、すごく微妙な存在。それが私の別人格。こうなってしまったのには、きっと何か理由があるんだと思う。今の状態があまりに自然だから、いつだったかはもうほとんどぼやけてしまったんだけど、でも私たちがこうして二つに分かれてしまった分岐点が、過去のどこかに必ずあるはずなんだ。その時から私たちは、いわば別々の存在になってしまった」
女はここで一息ついた。だがまだ話し足りないようで、その後すぐに、言葉を紡いだ。
「別人格の私は、今の私にとっては完全に恨むべき対象として存在している。だから私は、別人格のことをそう思うしかない。ちょっとわからないよね。じゃあこう考えてみて。人と人との付き合いだったら、前まで嫌いだった人が、あることをきっかけにして好きになることって、往々にしてあると思うの。それは、二人が全く別の存在だから。関係性がこうって決まっているわけじゃないから、後でいくらでも変更が効くものなの。でもね、それが自分と自分とだったら、通用しなくなる。それは最初から、今の私に恨みを抱かせるために生まれてきたものなの。遺伝子レベルで、今の私が別人格の私を嫌いになるっていうことが、決定されてしまっているの。そしてそれは、多分向こうも同じなんだと思う。私たちは表と裏。でも、今じゃどっちが表でどっちが裏なのか、ごっちゃになってしまっている。この争いは昔から今までずっと続いている。ある時には向こうが勝利して、ある時には今の私が勝つ、みたいにね。で、そのトリガーとなっているのが、太陽、というわけなの。だから私は、太陽を恨んでいる。これが私たちを規定しているのだと思うと、つい気持ちが荒くなってしまう」
そう話し終えると、女はカーテンの方を見た。そこには太陽があるはずだった。ちょっとでもカーテンをめくれば、人格は逆転してしまうに違いない。それくらい、危ういところにこの女がいるということだ。そんな話は聞いたことがなかった。聞いたことがあったのだとしたら、こんなに驚きはしなかっただろうから。
「なんか、テストに合格して浮かれてたんですけど、指導員さんの話を聞いてたら、それどころじゃないぞって、なりました。いたたまれない気持ちになった、というか……」
「無理して同情する必要はないのよ、生徒くん」と女はでっぷりした体をくゆらせて言った。「これはものすごく個人的な問題だから。もしこの気持ちを本当に分かち合えるのだとすれば、それは同じような経験をした人か、それかこの手の専門家しかいないでしょうからね」
「それは、いわゆる二重人格、というやつなのでしょうか」
「どうだろうね。私は二重人格を本当には知らないから」と女は言った。「でもあれって、子どもの時につらい目に会ったりして、人格をもう一つ別にこしらえなくちゃならないっていう必要性から生まれるんだと思うの。健康な生活を送っている人は、二重人格にはならない。私もそういう方で、二重人格になる必要のなかった人間だったはずなの。むしろ、こうして人格が二つになったことで、つらい目に会うことだってある。そしてその時は、別の人格がそれを肩代わりしてくれるなんてことにはならなくて、苦痛を受けるのはその時の人格に限られているの。そう都合よく、ポンポン入れ替わったりはできない。できるとすれば」と女は俺から目を離す。「私たちを照らしている恒星が、地平線の底に沈んだり、昇ったりする時だけ。それ以外にも、方法は一応、あるんだけどね。例えば今みたいに」
「なんだかおとぎ話みたいですね」と俺は茶化す。だが茶化すほどの雰囲気でないことはわかっていた。女は真剣に悩んでいるのだ。
俺はどうしてこんな話になってしまったのだろうと思った。俺は単にここの生徒で、指導員やこの施設に普通以上に関わるはずじゃなかったのだ。だが、このでっぷり太った女は、そういう意志を貫いて、人間的に俺の気を惹いていた。俺にはある一人の女の子がいる。いわゆる彼女、というやつだ。その子は今も、俺がこの施設から出るのを待っている。ここはいかなる人間も立ち入り禁止で、面会も許されていないから、その間、女の子は一人で過ごさなくてはならないのだ。彼女とは中学時代からの付き合いで、その頃は、この女ほどではないけれど、ぷっくりと太っていた。それで俺は、この女にこれほどの興味を抱いてしまったのかもしれない。思えばあの頃、俺たちはある意味で、ずっと一緒だった。
いつのことだっただろう。あれも確か、暑い夏の日だった。夏休みに入った後のことで、俺たちは同じソフトテニス部のために学校に来ていたのだ。それを機会にして、俺たちは教室で二人で会った。まだ正式に付き合う前の話だ。
俺たちは第二学年になり、同じクラスになった時から、妙に惹かれ合っていた。話をすると思いがけず気が合った。話し合いをするような場面が学校生活の中で何度かあったのだが、そんな時は必ず、俺たちは同じ意見を共有していた。第三学年になってもそれは変わらなかった。相変わらず同じクラス内で、意見を共にしていた。だから彼女から、部活が終わった後に呼び出しがかかったその時も、まあそういう類の話なんだろうなという軽い気持ちでいたのだ。
しかし、あの時期は性欲がパンパンに膨れ上がっていたから、もちろん、そういうことにも若干の期待はあった。でも、それは完全にではなかった。正直に言ってしまえば、中学時代のあの女の子のことを、性的対象として見ることは、俺にはできなかったからだ。仲が良かったと周りから見られていたのは事実だけれど、その関係は深まることなく維持し続けられた。つかず離れずの関係だ。性的対象は別の女の子に託していた。俺は毎晩、狂ったようにその子のことを考えては、もの思いに耽ったものだ。仲間たちとそういう下品な会話もしていた。だが、その太った女の子とは、下品な話はおろか、友人同士がするようなごく普通の会話すらしていなかった覚えがある。する必要がなかったのだ。俺たちはあまりに考えていることが同じだったから、会話という手段を挟まずとも、互いの思っていることが、なんとなくわかってしまっていたのだ。だから、話す時といえば、意見を表面的に一致させる必要のある時だけだった。学校行事内での話し合いとか、あるいは部活のミーティングだとか、そういう場合だ。それ以外は、思えば仲良くおしゃべりができなかった気がする。中学時代を通じて、ずっとそれは変わらなかった。それは彼女の持つある種の神秘的な雰囲気が原因だったのかもしれない。彼女は他の女の子とは明らかに違っていた。特定の友人も持っていなかったようだ。常に一人で行動できるだけの気概も備えていた。周りもそれを理解したうえで、彼女との関係を取り結んでいたようだった。
だから俺は、教室に行く前に、彼女とのキスを想像したり、彼女の裸を思い浮かべたりなんてことはしなかった。ただ、どんな議題について俺たちは意見を共有するのだろうかといういやに学者めいたことしか思っていなかった。それは教室に入って、彼女を目の当たりにしてから、粉微塵に打ち砕かれた。彼女は俺に、告白をしてきたのだ。
(好きです。私と付き合って下さい)
それは平均的な告白のスタイルだった。こればかりは、彼女と思考を同調させている俺でさえ、予想だにできなかった。だが、よく考えてみれば、これは予測可能な範囲だったのだ。どうして彼女は、わざわざ空き教室に俺を一人呼んだのか。話し合いをするだけであれば、グラウンドの自転車小屋とかでも充分だったはずだ。金管楽器の音が鳴り響き、人の声など遠くからしか聞こえないここに連れてきたということは、それ相応のアプローチを、彼女は必ずやこちらに仕掛けてくるだろうということだったのだ。
俺はそれにオーケーの返事をした。彼女はそれで、すごく喜んでいた。そうして今まで、仲睦まじく過ごしてきていた。高校も同じだ。意見が一致するのだから、頭の範囲だって当然一致する。
けれども、もしそうなら、俺だけがこの施設に来てしまう事態は起こり得なかったわけだ。俺がここにいるのなら、彼女だってここにいなくちゃならない。共に指導されなくてはならない。これが起こらなかった。どうして?
それはわからない。施設に赴く前、俺は彼女と会う機会があった。この時、彼女はこんなことを言っていた。
『いつかこうなることになるんだって、ずいぶん前から思ってたんだ。やっとそれが現実になって、ちょっとほっとしているのかもしれない。自分のことながら、その辺はあまりよくわからないんだけど。でも、これだけは言える。私たちは、もう私たちじゃないってこと』
今思えば、それは別れの挨拶だったのだろうか。でもそれは、今までの一心同体の関係じゃなくて、個人対個人の付き合いになるんだよ、ということを、意味していたのかもしれない。俺の今回の施設行きは、その始まりだった。だからこそ、あの女の子、今ではすっかりスタイルが良くなって、化粧も上手くなり、友人もたくさんいる女の子は、俺と別れる際、あんなに晴れやかな表情だったのかもしれない。
俺は涙が止まらなくなった。ただ悲しかった。女の子のあの笑顔が妙に輝いて映し出されていた。それは俺の瞳を一旦乾かした後、一挙に湿らせた。こんな気持ちは生まれて始めて味わった。でっぷり太った女は、心配そうに俺の顔を下から覗いていた。
「大丈夫? 私、おかしなこと、言ったかしら?」
「いえ、違うんです」と俺は言う。「ただ、外にいる一人の女の子のことを思い出していたら、変な気持ちになってきちゃって」
女はそれ以上問い詰めなかった。俺はこの女が今どういう顔をしているのかが非常に気になった。馬鹿にしたような上目遣いだろうか、それとも、天使みたいな慈愛に満ちたものだろうか。今は太陽が出ていないから、きっと後者なのだろう。だが今は、その優しさが身に堪えるようだった。どうせなら、上目遣いで俺を罵倒してくれた方がよっぽど楽かわからない。俺は顔を上げられなかった。泣いている顔をこの女に見られたくないのもあったけれど、それ以上に、今この女を見てしまえば、また昔のことが思い出されるだろうということが、わかりきっていたからだ。
それからしばらくすると、女は椅子をすぐ近くまで寄せてきて、俺を腕で包み込んでくれた。腕は鉄板みたいに火照っていて、猫の肉球みたいにふわふわしていた。俺は腕に抱かれながら女の体に寄り縋った。それからもずっと顔を上げられなかった。女の顔はすぐ近くだろう。そしてそれは、あの頃の女の子の顔をしていることだろう。そのことを思うだけでも堪らなくなってしまい、なおさら女に縋りついた。一体どうして俺はこんなことになってしまったのか。こんな姿を友人か誰かに見られたら、俺はもう死ぬしかないだろうなと思った。だが、友人なんてここには存在しない。よって俺は、思う存分この女に抱かれていることができた。
最終的に俺は全てを打ち明けた。彼女が変わってしまったこと、俺たちの関係が変わりつつあること。俺はそれが恐い。だからはっきり言って、施設から出たくない。そういうことを洗いざらいぶちまけてしまうと、女はしっかりした口調で言った。
「でも、あなたは合格したのよ? それは、あなたがここを出たいっていう気持ちがなければ、達成されなかったことだと思う。そしてこのことは、彼女さんともう一度会いたいっていうところに繋がるんじゃないのかしら」
「そうかもしれないです。でも、恐いんです」
「なにが?」
「それは」と俺は言い淀む。「それは……彼女の顔をもう見ることがないんじゃないかっていうことが。今までの関係じゃなくなることは確かです。これからどういうものになって、最終的に、どんな形になってしまうのか。それを見届けるのが、恐い」
女はそれきり黙ってしまう。俺の言ったことを分析しているのだろうか。それとも、あまりにうじうじする俺に嫌気がさして、今すぐ別人格に移ろうかと企んでいるのかもしれない。だがどちらでもよかった。この頃になると、俺はもう、やけくそに近い状態だったのだ。
「あなた、これ、触ってみて」
思わず女を見る。女はプクプクした人差し指で、自らの額を指し示している。そこは水玉の汗でいっぱいだ。ついに狂っちまったのだろうかと俺は思った。だが、女は本気らしかった。俺は仕方なく、右手の指で額に触れてみた。額は、指先に力を入れるとべこりとへこんだ。そしてジトッとしており、ヌメヌメした感触が無慈悲に伝わってきた。
「それを……舐めてみて」
俺は彼女の言ったことを訊き返した。女は繰り返し言わなかった。ただ、俺がベトベトの指先を舐めるのを、心待ちにしている様子だ。俺はためらった。そして幾分、気持ち悪くもなった。まさか他人の汗を舐めることになるなんて、絶対におかしい。でも、女は舐めるまで俺を解放してはくれないだろう。俺は観念して指をしゃぶった。指先からは果物の味がした。
俺は指先をむさぼるように舐めた。いくら試してみても、それは間違いなくフルーツの味だ。しかし何のフルーツかはよくわからない。数種類のものがミックスされているようで、特定しづらい。「これは?」と訊くと、女はにこりとした。
「私の汗はね、特別製なの。でも、いつでもこうというわけにはいかなくて、条件が揃ってないと、こういうことにはならないんだ」
「条件って?」
女は自分の二重顎辺りを指差す。
「まず一つ。それは、私が今の私であること。わかりづらいかな? もっと具体的に言うと、今こうして話している私じゃなくって、指導している時のあの厳しい私であったならば、汗はこうはならない。あなたも見たと思う。太陽を浴びながら、滝みたいに汗を流す私を」
「はい」と俺は、昨日と今日の指導室での様子を思い出して言う。
「あれは普通と同じで、舐めてもしょっぱいだけなの。とはいっても、その味を私は本当には知らないんだけどね。舐めるのはいつも自分のフルーツみたいな汗だけで、別人格のものとか、他の人のものを舐める機会ってなかなかないから」
「知らない方がいいと思いますよ」
「そうね」と女は言った。それから、女は俺にぶっとい指を向けた。
「そして二つめ。それは、舐める人が、心に腫瘍を持っている人だった場合。腫れ物、だね。あまり触れられないような……。それがあるせいで、他人に心を開くことのできなくなってしまった人。それはすごく不格好で、自分が見ても気持ち悪くなるくらいだから、ましてや他人になんて見せられなくなってしまうの。だからそれは、誰にも触れられないまま手つかずで放っておかれることになる。そういうものを、持っている人」
女は次に、女自身を指し示す。やや自嘲気味に。
「私もだから、そういう人の一人なんだ。別の人格が生まれてから、腫瘍はいつのまにか現れていて、今も私を蝕んでいる。どうにかしたいとは思う、でも、あの人格がどこかに行ってしまうまでは、きっとずっと、腫れは収まらないんだと思う。こんなことを話したことなんてなかったんだ。専門の人にも、さっぱりわかってもらえなかったし。決意して診てもらったことはあるんだけど、みんな漏れなく、それは幻覚だとか、妄想だとかで片付けてしまった。なぜならそれは、二重人格でもなくて、まだ名前のついていない未知のものだから。それは限りなく私だから、二重でも何でもないのよね。それは、いわば……『私たち』と呼ばれるべきもので、でも『私たち』では決してないもの。くっついていて、でも同時に、離れているもの」
女の言葉で、施設に来る前、あの子の最後に言ったことを思い出す。『私たちは、もう私たちじゃないってこと』。でっぷり太った女の、もはや誰に対して言っているのかわからない語りは続く。
「多分向こうの私としても、この腫れ物をなんとかしたいって思っているに違いない。でもそれはつまり、どちらかが消えてなくなるということをも意味している。それは間違いなく、世間的に必要なことなんだろうと思う。でもね、分離してしまった以上、どちらも確固とした一つずつの個人なんだよ。それは私なんだけど、でも私じゃない存在。それが消えるということは、私自身が消えるということ。私もね、それが恐いんだ。あなたと同じなんだよ。恐くて、たまらない。変わることが、どうしてもできないでいる」
「もしも」と俺は質問を試みる。「別人格の、荒っぽい方の性格がなくなってしまった時、そのことはあなたには伝わるんですか」
「多分、伝わってくるんだと思う。それは疑いなく私なわけだし。それに、人格が一つに残されてしまったら、腫瘍はなくなって、この汗だって普通の人と同じになるわけだし」
「どうしてこんな味なんでしょう」
「それは私にもちょっと。ノート、貸してみて」と女は言った。俺がノートを机の引き出しから取り出して広げると、女はページをめくっていく。間もなくして、目的のページに辿り着いた。それは昨夜、俺と女とで一緒に勉強した時に使っていたページだった。
「あの時、私は今の私だった。ここ、嗅いでみて? 私が汗を垂らしたとこ。きっとフルーツの香りがするだろうから」
女の示したところに鼻を近づける。そこからは芳醇な果物の匂いが漂ってきた。俺がかねてから気になっていたことの全てが、ここで解決した。信じられない、という顔で女を見つめる。女は照れたように、はにかんでいた。
「あなたが匂いのことを訊いてきたとき、内心ドキドキだったんだから。あの時はうまく誤魔化せたけれど」
「いや、誤魔化せてませんでしたよ」と俺はすかさず言う。「それに最後に言ったじゃないですか、匂いのこと、話してくださいよって。あれにあなたは頷いていました。それってつまり、誤魔化せてないことがあなたにもわかっていたって、ことですよね」
「え、そんなこと、言ってたかしら? お尻を打った痛みと眠気で、ちょっと……」
俺は耳を疑った。とするとこの女は、尻を思いきり床にぶつけたにもかかわらず、まだ寝惚けていた、ということになる。俺は思わず吹き出してしまった。女はわけのわかっていない顔だ。それを見てさらに笑えてきた。乾いた笑いがひとしきり響くと、女はちょっとムカついた顔になって俺を睨んできた。
「駄目でしょ、大人をからかっちゃ」
「すみません。もう笑いません」
俺が謝ると、女は機嫌を戻したように微笑んだ。良い顔だ、と思った。太った人に限らず、沈んだ顔をしているのは、あまり見たくはないものだ。
「まあ、そのことは置いといて」と女は気を取り直して言う。「恐いのは、あなたも私も同じってこと。踏み出すのには相当の勇気がいる。でも、踏み出してしまえば、あとは道のりに歩くだけだから、恐いのは一歩目だけ。患部にちゃんと目を向けて。それをどう対処したらいいのかを一生懸命考えなくちゃいけない。最初は目が眩んで、うまくいかないだろうけれど……そのうち慣れてくる。そうすれば、対処法だって、それに立ち向かう勇気だって、自然に湧き上がってくるだろうから」
「難しそうです」と俺は言う。「でも、やってみることにします。そのために、こうしてテストにも合格したんですからね」
「そうよ。もしも変わることを本当に恐れていたんだとしたら、あなたは解答記入欄に何も書かなかっただろうから。勉強したいって思って、昨日の夜、職員室に来たんでしょ? あの時から、あなたは決意できていたのよ。その時点で、あなたにはもう、卒業するだけの資格を持てていたんだと思う」
「そう言ってくれると、心強いです」と俺は言った。女はふくよかな右手で、俺の頭を撫でてくれた。
「卒業おめでとう。あなたはこれから、あなたでなくなる。でもそれは、人生のどこかで必ず起こること。そこに直面して、悩みながらも前に進もうとするあなたを私は讃えたいし、これからもどんどん変わり続けることを、私は応援していきたい」
女は立ち上がる。椅子を片付けた後、指導室の扉を開けてくれた。
「さ、行きなさい。あなたはもう、いつでも出られるのだから。荷物を持って、校門のところに集合すること。そこで最後のお別れをしましょう」
俺も立ち上がった。指導室を出る前、俺の最後の指導員に一礼した。そして扉をぬけて、階段を駆け上がっていった。運動不足なんて関係ない。なんにせよ気持ちの持ちようなのだ。
荷物は軽かった。この三週間で重みがなくなったのだろう。学生鞄の中には少しのノートとプリント類、筆記用具だけが入っていた。どうりで軽いわけだ。エロ本などは全部置いてきた。ルームメイトが上手に処理するか、誰か他の人間に託されることだろう。俺はまた、別のものを買う予定でいる。
日差しは眩しかった。一時間も浴びていれば、溶けてゼリーになってしまいそうだ。久々に戻ってきた携帯で、早速天気予報を見たのだが、今日は三十七℃あるらしい。夏真っ盛りといった感じだ。こんな日は、家で過ごすよりも、いっそのこと外に出てはっちゃけた方がまともな気がする。これほど頭のおかしい気候なのだから、人間も多少頭をおかしくしなくちゃやってられないのだ。太陽のこの激しい攻撃は、そういう風に人間を仕向け、この頭のおかしい季節を堪能させるに違いない。そして秋になり、俺たちを冷却することで、夏の思い出を一層際立たせようとしてくるのだ。罪な季節だ、と思った。だがわかったうえで、それに乗っかってみるのも悪くない考えだ。
彼女に電話を掛けた。だが留守電で、まったく繋がらなかった。どこかに出かけているのかあるいは。俺は携帯を思いきり地面に叩きつけたくなった。くそったれ。と、怒りをこの場で叫びたかった。だがまだ決まったわけじゃない。叩きつけたり怒鳴ったりするのは早計だ。それに、校門ではでっぷり太った指導員が待ってくれているのだ。こんなことをしていたら、せっかくの見送りを台無しにしてしまう。
女は鉄門のすぐ脇に立っていた。ぴっちりスーツの中は、今頃は蒸し蒸しして凄いことになっていることだろう。だが女は、そういう雰囲気などまるで感じさせないほど、涼し気だった。指導室で見た時とは、また変化しているようだ。実際のところはわからない。もしかすれば、太陽によって作りだされた幻影だったのかもしれない。陽炎が女を、より理想的な姿に見せているのだ。近づいていくとそれがますますはっきりしてきた。瞳は穏やかではなく、かといって厳しさに溢れているわけでもなかった。口元にしても、女が一体どういうことを思っているのか、いまいち判断材料になり得なかった。手を前で組み、脚をぴたりと揃え、まるで乗客を招くキャビン・アテンダントみたいにして、俺を迎えてくれる。その通りであったのかもしれない。俺はこれから施設を離れ、生まれ育った故郷へと帰るのだから。フライトは安全に、かつ迅速に行なわれなければならない。
俺が真正面まで来ても、女は何も言わなかった。ただ、こちらを見上げるばかりだ。こうして並んでみると、女は俺よりも一回り身長が低い。この事実は俺の過去の記憶を揺さぶった。脳内にその時の光景がよみがえり、ふらつきそうになった。俺は指導員から何か言葉がかかるのを期待していた。女は黙りこくっていたが、やがてわずかな微笑みを浮かべた。そうして、俺の右頬にキスをしてくれた。身長のせいで、俺は少し屈まなければならなかった。くちづけはすぐに終わり、女はまた施設に戻っていった。次の生徒が明日になればやってくる。そのための準備にとりかかろうというのだろう。
あの時の女は、一体どの女だったのかと今になって思う。別人格を克服できたのだろうか、それとも、あの時の女は別人格の方だったのか。それは二週間経った今でもよくわからない。女の微笑みはどちらともとることができたからだ。厳しく指導してくれた先生が、卒業する段になって、頑張ったね。と、急に優しくなる例を、俺は中学時代に経験したことがある。そういうことなのかもしれないし、もしくは。施設に行くことができなくなった今では、確認する術はない。だが、確認しない方がいいのだろうとも感じていた。なぜなら、もうあのでっぷり太った女は、俺も含め、もう自分たちそれぞれでちゃんとやっていけるだろうからだ。俺にできたのだから、あの女にできないはずがないのだ。元気でやっているだろうか、指導生活は順調だろうか。それだけが気がかりだ。
ノートからはもう、熟した果物の匂いはしない。ただの汗に成り代わってしまった。というか、この熱気でとっくに乾いてしまっており、今ではどこに汗が垂れたのかが不明なくらいだ。女の痕跡といったら、ノートに書かれた、俺の間違いを指摘する走り書き程度のものだった。それすらももう、女を思い出させはしなかった。施設をまず想起して、その後で、ああ、あんな指導員もいたなあ、くらいのものだ。記憶とはそんなものだと思う。時間が経てばどうしても薄っぺらくなるものなのだ。しかし、たとえどれほど薄っぺらくなったとしても、決してなくなりはしないだろうということも、またはっきりしていた。
携帯には新たに別の番号が登録された。夏祭りに行った際、偶然出会ったクラスメイトのものだ。おそらくこういう運命にあったんだと思う。遅かれ早かれ、俺たちは俺たちでなくなることになっていたのだ。あるいはあの時にはもう、既に俺たちは俺たちでなかったのかもしれない。彼女はとっくに決断を済ませており、俺だけが彼女のことをいつまでも忘れられないでいたのかもしれない。それももう、わからない。わからないことだらけだ。
それはそれで良かったのだ。というか、そう思わなければ、これから先、やっていけない。今の女の子は、以前のとあまり違わず、ちょっと変わったところのある女の子だ。クラスでは不思議ちゃん系としてみんなに認識されている。夏祭りで会えたのは本当に偶然だった。どちらも一人で歩いていたところを、出会いの神か誰かが巡り会わせてくれたのだ。だが神が助けてくれたのはそこまでで、後のことは全部俺たちに任せっきりときた。さっきから、いくら携帯を鳴らしても、なかなか出てくれないのだ。今日でもう四度目になる。しつこいと思われて嫌われた可能性があったが、電源を切っていないところから察するに、まだ起きていないだけなのだろう。休日の彼女は、起床時間が常人よりも五時間ほどずれているのだ。そこはぜひ直してほしいところではある。だがこうして、馬鹿正直に携帯を鳴らし続けているところからして、俺は彼女のその性質を愛しちまっているのだろう。正午を過ぎ、五度目の電話を入れたところで、「うるさい」という彼女の声が返ってきた。その声はまさに起きたてほやほやといった感じだ。俺はそれに「お前のせいだよ」と言った。俺はそれに「お前のせいだよ」と言った。秋に近づきつつある季節だ。だがまだ熱気は収まらない。部屋の窓から入ってくる風は、まだまだやれるぜという夏の意志を如実に表していた。