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世界中を幸せに

降ればどしゃ降り

作者: 雨咲まどか

 序 


 世界の中心はあの人だ。だからきっとあの人は、神様なんだ。きっときっと、神様なんや。

 私は今日も、彼の元へ行く。彼の所が私の居場所だ。

 施設でも、学校でも、病院でもない。私は彼の所にいたい。

 制服も着替えずに、学校が終わると私は一目散に彼の家へ走る。くすんだ緑色のセーラー服をみんなはださいと言うけれど、私は気に入っている。彼が、可愛いと言ったから。

 彼は私の叔父らしい。ようわからんけど。

 あの日病院のベッドで始めに見たのは、彼の顔だった。涙が溜まってきらきら光る目が、綺麗やと思った。

 一年くらい前の小学六年の時だった。私は、その日より前の事をあんまり覚えていない。

 両親のことも、なにも。誰も教えてくれなかったし、私も思い出したいと思わなかった。ただ、両親はもう、私を育ててくれないらしかった。

 彼は私のことを一番心配してくれた。私は彼のことだけ信頼できた。みんな私と距離を置いたのに、彼だけは優しくしてくれた。

 でも独身だから私を引き取ることは出来ず、違う親戚に引き取られた。

 その親戚の家は遠くやったから、私は生まれ育った土地から離れることになった。けれど、どうでもよかった。思い入れどころか、たいした記憶もないのだ。そんなことより、親戚の家は彼の家に近かった。むしろ好都合やった。

 私はそののち、親戚の家から追い出され、施設へ入った。彼の家がもっと近くなったから、嬉しくすらあった。

「こんにちは」

 不用心に鍵のかかっていない扉をがらりと開けて、勝手に中へ入る。お邪魔しますは、言いたくないから言わん。

 独り暮らしでまだ二十八歳なのに一軒家に住む彼の家は、立て付けも悪くボロい。私は好きやけど。

 予想通り彼は居間にいた。炬燵に入り込み畳に寝転がって、何か紙切れを眺めている。

「どうも」

「あ、つばさちゃん」

 彼はごろんと寝返りを打って私を確認すると、破顔して片手をあげた。

「休憩中なん?」

「んー、そんな感じ。大体終わったから大丈夫―」

 ふふふと嬉しそうに声を弾ませる彼は心底幸せそうなので、大体終わった、というのは本当やろう。

 彼の仕事はイラストレーターだ。割と売れっ子で、忙しそうにしていることが多い。暇そうな彼は久しぶりだから、私まで嬉しくなる。

「お茶いれようか?」

「ほんと? ありがとう」

 私は鞄を置いてコートを脱ぎ、台所へ。彼はコーヒーより紅茶より、緑茶を好んだ。私はかなり調べ上げ研究して、緑茶を入れるのが得意になった。

 お湯を沸かして、茶筒を手に取る。蓋にマジックで猫の絵が描いてあった。

 この家は落書きだらけだ。彼が仕事に忙しい時も、家中に彼の欠片があるから寂しくない。

 私は彼に、なんでもいいから恩返しをしたかった。彼のために出来ることがあるなら、なんでもしたかった。彼の願いを叶えたかった。

 去年の七夕、私達は二人で笹を飾った。短冊に書かれた彼の願い事はたった一枚、一番空に近いところに付けられていた。

『世界中が幸せになりますように』

 私はいつまでたっても、この彼の願い事を叶えられないでいた。幸せになってと人にお願いしてみた事もあったし、人助けは率先してやったし、給食のプリンだってあげたこともある。でも、そんなに単純なものではないみたいだ。

 どうしたら、世界中の人は幸せになってくれるんやろう。私じゃ出来ひんのか。でも、どうしても、叶えたい。

 湯飲みと急須をお盆に載せて居間へ戻る。彼は炬燵にもたれ掛かっていた。

「疲れてるん?」

「うーん……そうなんかなあ。ちょっと眠いかも。お茶ありがとう」

 お茶を入れた湯飲みを差し出すと、顔を上げてお礼を言ってくれる。

「飲んだら寝た方がええよ」

 私が言うと、お茶に息を吹きかけて冷ましながら彼は曖昧に頷いた。

 いつまで経っても私の訛りが取れないのは、取るつもりがないからだ。彼が、私の喋り方が好きだと言ったから。たまに私の訛りにつられてしまう彼が、面白いから。

 本当は、もう方言を使わずに喋れるはずだ。むしろ忘れてしまわないように、必死になっていた。薄れていく訛りに、私は焦っていた。

 熱いお茶を一口飲む。

 前を見れば、彼が居る。

 こうして彼のそばに居れば、私は幸せだ。

 私を幸せにしてくれる彼のことを、私は幸せにしたい。なにも出来ない自分が、歯がゆかった。

 この一方的に依存した関係は、たぶんもうすぐ終わりにしなきゃいけないのだと、思う。中学に入った頃に気付いた。私の存在は、彼に迷惑をかけるだけだ。

 彼は、気だての良い可愛い奥さんでも貰って、子供を作って、幸せな人生を歩むべきなんや。私に構ってなんておらんと。

「そういえばさ」

 低い彼の声を聞きながら、湯飲みの中の緑に視線を落とす。

「……うん」

「昨日の夜、庭の木にこれが引っかかってるの見付けた」

 彼は指先で挟んだ紙切れを私に渡した。

「引っかかってたん?」

「うん。風船に紐で結んであった。風船の方は割れちゃったんだけど」

 私は紙切れを持ったまま目を瞠った。

 風船にメモをくっつけて飛ばしたのは、私だった。

 不幸せな誰かに届いて、片っ端から幸せになってくれと、何十個も風船を飛ばした。具体的な『幸せ』がよくわからないから、幸せになれとだけ書いて。

 彼に渡されたメモに目を通す。

『どこかのだれか様へ。あなたが幸せであるよう、祈ってます』

 私は少し恥ずかしくなって、顔を赤くした。書いたときはこれしかない、って思ったけどこうして見るとちょっと無茶苦茶な方法だったかもしれない。

「どうかした?」

 ずいぶん切ってないのか、伸びてきている真っ黒い髪を揺らして彼は首を傾げる。

「……これ、見付けたときどんな気分やった?」

「うん? 嬉しかったかなー。プレゼント貰ったみたいで。幸せになったよ」

「ほんまに?」

「ほんまに」

 なんで疑うの、と彼はけらけら笑う。その顔が、滲んだ。

 コタツウサギとかいう、炬燵の上でポーズを取っているだけのオリジナルキャラクターが所々に描かれている炬燵に額を押しつける。

「翼ちゃんも眠いの?」

 首を横に振る。彼の大きな手が、私の髪を撫でた。

 私が飛ばした風船が彼の元に届いたんだ。彼が幸せになってくれたんや。

 もっともっと、届けばいい。どこかの誰かの、辛い今日に。

 私は、私の頭を撫でる彼の手に自分の手を添えた。確かに眠たいらしい彼の手は、子供みたいに温かかった。

 この依存した関係は終わりにしなくちゃいけないのだと、思う。

 かみさま神様、世界中が幸せになったら、ええね。



 1


 私がルーレットで3を出した瞬間、おじさんが叫んだ。

「まった!」

「人生ゲームでまったはないやろ」

 私はお構いなしに、自分のコマをゴールに進める。

 えっと、一位は十万円か。銀行役のおじさんに手を差し出すと不服そうな顔をされた。

 おじさんは、私の「叔父さん」で、親代わりで、兄弟代わりで、それから、神様だ。

「また負けた……なんでだろう……」

 がっくり肩を落としているおじさんを尻目に、人生ゲームを片づけていく。

「おじさんは職業えり好みしすぎ。定職就けずにフリーターになっちゃったら元も子もないやん」

「えー、だって俺の能力が生かせる職業じゃないとさあ」

「最近の若者みたいなこと言わんの」

 ついこの間高校生になったばかりの私に言われて、おじさんはくせ毛頭を掻いた。

 無駄に大家族なおじさんのコマから人形を外す。よくこの人数をフリーターで養ったなあ。

 おじさんは畳に転がって呻き声を上げた。そんなに悔しいんか。

「そもそも、人生ゲームって二人でやるものじゃないね」

「言いだしたんおじさんやん」

「今度はみんなでやろう。たぶん司くんあたりには勝てる気がするきっと」

 自信なさそうに言って、おじさんは天井に向かって拳を突き上げた。おじさんがゲームで勝てる相手なんかおるんかな、と思ったけど黙っておく。

「けど、これいくらするんやろ。ちょっと『人生ゲームしたい』って雑誌で言っただけでファンから送られてくるなんて、イラストレーターもすごい職業やなあ。アイドルみたい」

「ありがたいんだけど、申し訳ない……。あんまり気軽にそういうこと言っちゃだめだねえ」

「……私、ジェンガ欲しい」

「反省したそばから次を要求しない」

おじさんは苦笑してごろりと寝返りを打った。困ったように笑うとき、彼の垂れた目は細くなって目尻に皺が寄る。私はその顔がすごく好きだ。

 仕舞い終わった箱をテーブルに置いて、私は菓子鉢に手を伸ばした。緑茶好きのおじさんらしく、見事なまでに渋いお菓子ばかりだ。ちょっと迷ってから醤油煎餅を手に取った。

 その時、チャイムが鳴って沈黙が流れた。

「誰だろ」

 おじさんは首を捻ってから、緩慢な動作で起き上がると玄関へ。私は煎餅を囓りながら彼が戻ってくるのを待った。

 神様が神様じゃなくなる予感が、していたのかもしれない。

 だから私は、目の前に現れたその人に、優しい声で「こんにちは」が言えたんだ。



森下由子もりしたゆうこさん。仕事の知り合いで、近くまで来たから寄ってくれたんだって」

 その人を紹介するおじさんは、いつものくしゃりとした笑顔を浮かべていた。

 モリシタユウコ。私は口内で反芻させて、息苦しさを感じた。不思議に感覚が研ぎ澄まされて、右手で摘んだままだった醤油煎餅の欠片が、制服のブラウスの上を転がっていくのを感じる。

「お茶いれてくるから、二人は座ってて」

 独特ののんびりした口調でそう言うと、おじさんと森下さんは視線を交差させて同時に笑った。「私がする」と言いたかったけど声が出なくて、台所へと姿を消してしまうおじさんを見送った。

 静かな部屋に、私がお煎餅を囓る音だけが響いた。

 森下さんは私の左隣へ上品に腰を下ろした。二十代後半くらいだろうか。特別美人ではないけれど、丸い大きな目やぽってりした唇をしていて可愛らしい雰囲気を持っている。

 小さな一軒家で一人暮らしをしているおじさんの家には、よく突然の客人がやってくる。イラストレーターという職業柄もあって、家を留守にする事が少ないからだろう。でも、こんなに綺麗な女の人がやってきたのは初めてだった。

「翼ちゃん、だよね? よく幸広ゆきひろさんからお話聞いてるよ」

 綺麗に化粧された目元と丁寧に巻かれたダークブラウンの髪を眺めていたら、話しかけられてしまった。思わず俯くと、胃が冷たくなっている事に気が付く。

 とうとうこの日が来たんだ。私は心の中で何度も呟いた。とうとう来たんや。この日が。



 おじさんは、私の「叔父さん」で、親代わりで、兄弟代わりで、世界の中心だった。世界の中心は神様だから、彼は「神様」なのだ。

 小学校六年の、ちょうど今と同じ梅雨の時期のことだった。私は両親に捨てられた『らしい』。『らしい』なのは、記憶がないからだ。私の記憶の始まりは、病院のベッドで見たおじさんの顔だ。

 家族を失ったらしい私は、生まれ育った場所から離れて親戚の家や施設で三年半の間を過ごし(おじさんの家に入り浸ってたけど)、高校で寮に入り、今に至る。私立高校の学費は奨学金と特待生制度で賄って、足りない分と寮費はおじさんが出してくれた。

 記憶も感情も自分の置かれた状況も、何もかもがぼんやりした生活の中で、私はおじさんのことを誰よりも信頼していた。

「だけど私、彼女出来たなんて聞いてない」

 俯くと、のろのろ歩く自分の足元が目に入った。

 寮の夕食時間が終わってしまうから私は先に帰ったけど、まだ森下さんはおじさんの家にいる。「邪魔者がいなくなった」、なんて思われてたらどうしよう。とんでもなく嫌だ。

 ふと見上げた空は、深い灰色をしていて今にも雨が降り出しそうだった。

 降ればどしゃ降りになるだろう。



 少し湿っぽい河川敷の堤防に、私はお構いなしに制服のまま座り込んでいた。

 まだ梅雨は明けてないはずなのに、夕方でもこんなに明るい。

「どうしたらええんやろ……」

 呟くと、隣で空を見上げていたつかさくんがこちらを向く気配がした。

「どうしたらもこうしたらも、そもそもその森下さん? が彼女だって決まった訳じゃないんだろ?」

 今年の春にランドセルを卒業した司くんは、話しにくそうに掠れた声で言い、立てた膝の上で頬杖を付いた。捲り上げられた大きめのカッターシャツから伸びる腕が、うっすら日焼けし始めている。

 おじさんの家の近所に住む司くんとは、もう二年以上の付き合いになる。よくおじさんの家で一緒に遊んでいたものだけど、私が高校生に、司くんが中学生になると、その頻度はどんどん減ってしまった。

 私は司くんのどこか呆れたような横顔をちらりと見てから、ため息を一つ。

「女の勘は鋭いんよ、司くん」

「……女の勘は僕にはカンカツガイだなあ」

 司くんは喉の奥で笑った。彼は私よりも三つも年下の癖に、私よりも難しい言葉を使う。私やって言葉を知らない事はないんやけど、司くんは覚えた言葉を自分のものにするのが上手いんやと思う。

「それで、仮におじさんに彼女が出来たとして、翼はどうしたいんだ? おじさんを奪い返すとか?」

 私は目を丸くした。

「奪い返すなんて、そんなんとんでもない。おじさんには幸せになって欲しいし。ずっと考えてたもん。おじさんは、可愛い奥さんでも手に入れて、幸せな家庭を育むべきやって」

「じゃあ、何も問題ないんじゃないか?」

 その言葉の苦々しさに、私は顔を顰めた。毛穴の一つ一つまでが、その事実を拒否している感覚がする。それでいて、自分でも何度だって辿り着けた結論だった。

 何も問題ない。その通りやった。でも、じゃあ、この目頭の熱さや、みぞおちのずっしりした重みは、何なんやろう。

 オレンジ色の空はとっても綺麗なのに、夕日には雲が掛かっていた。私は膝頭に額を押しつけた。

 どうして私は今、泣きそうなんやろう。

「あんまり思い悩まなくても」

 見るに見かねたのか、司くんは声に優しい色を乗せた。彼はどんどん大人になっていく。会ったばかりの頃は私より背もずっと低くて可愛らしかったのに、今では僅かだけど身長を抜かれて、ついでに可愛げもどこかに落としてきたようだ。

 私はいつまで立っても子供のままなのに。

「思い悩むのは私の義務やもん」

「ギム?」

「ギム」

 面を上げると司くんが怪訝そうにしていた。空気は温いのに、頬をなでる風だけが冷たい。

 なにか言いたそうに目線を泳がしてから、司くんは諦めたみたいに空を見た。

「そういえば、翼、ここでたまに風船飛ばしてたよな。あれって、どういう意味があったんだ?」

「……世界中を幸せにしたかってん」

 司くんはまたしても首を捻った。

 中学生の頃、私は風船に手紙を付けていくつも飛ばしていた。手紙に「幸せになって」とだけ書いて。とにかく私は、世界中を幸せにしたかった。もちろん、今もだけど。

 世界中が幸せになる事は、おじさんの『願い事』だった。初めて一緒に過ごした七夕の日、彼はこう言って、短冊に願い事を書き込んだ。

「世界中が幸せになったら、いいね」

 私はこの願いを叶えたかった。それが、私に出来る一番の恩返しだと思った。

「それと風船飛ばしと、なんの関係が?」

 司くんの問いかけに私は小さく息を吐いた。

「世界中を幸せにするのって、案外難しくって」

「そりゃあまあ、そうだろうな」

「昔読んだ絵本に書いてあってん。風船は、一番欲しがってる人のもとに届くんやって。だから不幸な人に幸せになって下さい、って頼むには風船に届けて貰うのが一番ええやろうと」

 ほとんど残っていない幼い頃の記憶の中で、その絵本のことは唯一鮮明に思い出せる。繰り返し読み聞かせてくれた誰かの声と、ページいっぱいに描かれたカラフルな風船の絵。

 曇り空の切れ間から夕陽が漏れている。

 司くんは絵本の事や私の無茶な願望について、何も言わなかった。その代わり、ゆっくり立ち上がるとズボンをはたいて、さよならみたいに呟いた。

「その世界中、っていうのには、翼は入ってないのか?」



 寮の部屋に戻ると、同級生が大勢いた。目を丸くしていると、ルームメイトの祐希ゆうきちゃんが私に向かって大きく手を振った。

「翼おかえりー!」

 すると、残りのみんなも口々に「おかえり」と合唱した。なんかすごい。

 祐希ちゃんは私と違って活発で、友達が多い。入学してまだ三ヶ月も経たないのに、クラスの中心人物としての地位を確立している。なのに私とも仲良くしてくれるからなんだか不思議だ。

 そして祐希ちゃんの人望が生み出した結果が、この状況らしい。お菓子を持ちよってお喋り大会をしているんだ、と祐希ちゃんは説明した。

「ね、翼は好きな人いるの?」

 ポテトチップを飲み込んで祐希ちゃんが首を捻ると、部屋中の視線が私に集まった。あ、あかん。とんでもない会合に足を踏み入れたかも。

「えーと、おるって言えばおるけど、恋愛とかそんなんじゃないねん」

 正直に言うと「えー」と不満があちこちから聞こえた。こういうテンションになった時の女の子は、一種の酔っ払いだ。お酒飲んだことないけど。

 ひとまず、注目を逸らそうと私はみんなの顔を見回した。

「じゃあ、みんなはおるん?」

 何人かが頬を赤らめ、騒ぎ出した。どうやら半分くらいの子が好きな人がいるらしい。相手はそれぞれで、彼氏って子もいれば先生、って子までいた。

「……もし、好きな人に彼女出来たらどうする?」

 思い切って切り出すと、急にみんな静かになった。変なこと聞いたかな。

 少しの沈黙のあと、祐希ちゃんがぽつりと呟いた。

「諦める。幸せになってくれたらそれでいいから」

 その台詞は、強気な彼女には似合わないような気がした。

 幸せになってくれたらそれでいい。じゃあ、祐希ちゃんの幸せは? そこまで考えて、はっとした。自分のことじゃなければこんなに素直になれるんだ。



 次の日曜日、おじさんの家へ行った私は、着いた途端帰りたいと思った。

 玄関の隅っこでエナメルのパンプスがピカピカ光っている。おじさんの家は古い日本風の造りだから、こんな靴は似合わない。

 私は履きつぶしたスニーカーのつま先を手で擦ってから、廊下を慎重に歩き出した。

 耳を澄ませると笑い声が二つ聞こえた。不自然じゃない表情を探しながら、私は心臓が早鐘を打つのに気がつかない振りをする。

 おじさん達は縁側に座っていた。久しぶりに天気がよくて、光が差し込んでいる。

 振り向いて挨拶してくれたおじさんの顔がいつも通りで、私はほっと胸をなで下ろした。

 森下さんが笑いかけてきたけど会釈だけで返して、反対側のおじさんの隣へ腰掛ける。

「翼ちゃん、そこの笹、森下さんが持ってきてくれたんだよ」

 嬉しそうな彼の目線の先を辿ると、一メートルはありそうな長い笹が襖に立て掛けてあった。

「……へえ」

「去年は作り物の笹に短冊を付けたでしょ? 今年は本物だよー」

「すごい」

 本物、か。私は満面の笑みのおじさんに応えようと、口角を上げた。でも、それに反応したのは森下さんだった。

「喜んで貰えて良かった」

 森下さんはふんわり笑って、前髪を撫でつけた。ピンクベージュのワンピースがよく似合っている。私は思わず自分を見下ろした。お気に入りだった自分の白いワンピースが、急に子どもっぽく思えた。

「翼ちゃん?」

 おじさんが私の顔を覗き込んだ。焦って後ずさると、目の前に色とりどりの長細い紙が突きつけられる。

「短冊、どうぞ」

 いたずらが成功したみたいに彼は笑って、私は黙ってそれらを受け取った。

 青色の紙を右手で摘まんで太陽に翳す。願い事、かあ。

 考え込んでいるとおじさんが油性ペンをくれたので、握り込んで蓋を取った。

 私の願い事は決まってる。おじさんの願いが叶うことだ。だから去年も一昨年も「願いが叶いますように」と書いた。……司くんには「それ、願い事としてどうなんだよ」って言われたけど。

 今年も同じ事を書こうとした私は、寸前で手を止めた。

――その世界中、っていうのには、翼は入ってないのか?

 ついこの間司くんに言われた言葉が、どこからか聞こえてきた気がした。

 世界中。おじさんのいう世界中には、きっと私も入っていると思いたい。じゃあ、森下さんはどうだろう。無論、入っているはずだ。そんなら、世界中を幸せにする事って――。

 私は短冊とペンを持ったまま、後ろに倒れ込んだ。背中が熱い。日に当たっていた廊下は、想像したより熱を持っていた。梅雨明けはまだ先だけど、七月の気温はもう十分すぎるほどに暑い。

 視界の隅でおじさんと森下さんが談笑している。短冊で目を隠した。いつの間についたのか、青色の真ん中にペンの黒い染みが滲んでいた。



 七夕当日は、曇りだった。湿っぽい独特の空気や、暗くて時間感覚が曖昧になる感覚は嫌いじゃない。ただ、星が見えないからっておじさんががっかりするだろうな、と思うと私も少し残念だった。

 放課後、制服のままおじさんの家を訊ねると、今日はあのパンプスはなかった。代わりに大きな運動靴がある。司くんだ。

 ほんのちょっと駆け足になって居間へ向かうと、壁にもたれて座る司くんの姿だけがあった。

「よう」と言われたので「よう」と返して鞄を置く。

「あれ、おじさんは?」

「なんか急に花火したくなったとか言って買いに行った」

「ふうん」

 パンプスのことばかり気にして、おじさんの靴がないことに気がつかなかったな。

 とりあえず腰を下ろすと、テーブルの上に短冊が散らばっているのが目に入った。

「短冊書いてたんや」

「願望は自力で実現する主義なんだ、って言ったら「減るもんじゃないんだからー」って言われたから書いた」

 おじさんの口調を真似て言う司くんに、私は吹き出してしまった。

 笑いながら短冊を手に取る。『これ以上暑くなりませんように』、『平和な一年でありますように』、『消費税が下がりますように』……。

「なんやろう、願い事にフレッシュさがない。司くんっていくつやっけ」

「星に願いたくなることなんか、こんなもんだろ」

 司くんはぶっきらぼうに頭を掻いてから、私に向かって顎をしゃくった。

「そういう翼はなんて書いたんだよ」

 私は目をぱちぱちさせた。あれ、なんて書いたっけ。すごく適当に書いたから忘れちゃった。

「えーと、思うままに筆を走らせた……かな?」

「なんで疑問系なんだよ」

 年下の男の子にくすくす笑われて少し決まりが悪くなった私は、話を変えようと辺りを見回した。

「あ、それ、おじさんの画集やん。司くんが見てたん? 珍しいね」

 司くんの隣に分厚い本が置かれているのを見つけて手を伸ばすと、彼は焦ったようにそれを私から遠ざけた。そのまま立ち上がって、本棚に戻してしまう。

 私は目を瞬かせた。

「今、美術で絵を描いてるんだ。だから参考にと思って」

「……そう、なん。司くんは器用やからいい絵になりそうやね」

 何か触れてはいけないことを言ったのだろうか。私は人との距離のつかみ方がよく分かっていない。だから、誰がいつ、私を見捨てても、仕方がないのだと思う。記憶は無いけど、両親もきっと。

 私が落ち込んだ様子をみせたからか、司くんは取り繕うように微笑んだ。

「僕、美術部に入ろうかと思ってるんだ。画家になりたいとか、そういうのじゃないけど。絵の勉強がしたくて」

「へえ、また何か描いたら見せて」

 笑って応えながらも、私はショックを受けていた。

 司くん、部活入るんや。じゃあ、もっと会う機会が減っちゃうんかな。

 おじさんにも司くんにも、私と過ごしている時間以外もそれぞれの世界があって、日常があって、友達や恋人が出来たりして、居場所が出来ていく。それはとっても素敵なことの筈なのに。

 どこか重たくなった空気を変えたのは、おじさんの「ただいま」だった。

 おじさんは私を見てにっこりした。手にコンビニの袋をさげている。

「いらっしゃいー、翼ちゃん。花火買ってきたんだ、一休みしたら一緒にしよう!」

 私が頷くと、司くんが口を挟んだ。

「でも、まだ外明るいよ」

「あえて明るいうちに花火をする、これがオツって奴だよ」

「オツって意味、ちゃんと分かってる?」

「…あ、俺、お茶いれてくるよ。司くんは短冊書き終わったなら笹の好きなとこにくっつけててー」

 司くんの質問には答えず、おじさんはそそくさと台所へ行ってしまった。私もようわからんから大丈夫やで、おじさん。

 私は司くんの短冊付けを手伝うことにして、縁側の柱に括り付けてある笹へ。何の気なしにぶら下がっている短冊を眺める。

『健康第一』

『世界平和』

 この辺はおじさんやな、彼の字は独特だからわかりやすい。

「あ」

 上の方にある青色の短冊を見やって、私は思わず声を上げた。自分で書いたのに忘れてた。

『たくさん花火したい』



 ろうそくがないからと、アロマキャンドルに灯された火を三人揃って眺める。

「わ、すごいにおい」

 司くんが僅かに眉根を寄せた。おじさんはなぜだか神妙な顔をしている。

「海外旅行のお土産とかで大量に貰ったんだよね。まさか花火に使うことになるとは」

「それはあげた人の台詞だろ」

 言いながら、司くんはゆらゆら揺れる火に花火を翳した。アロマの甘ったるい芳香と湿った土の香りに、火薬の燃えるにおいが混ざって、少しくらりとした。

 私とおじさんもそれぞれ花火に火を付けた。オレンジ色の光が足下で弾ける。

「今日曇りで残念やね」

「そうだねえ」

 私の言葉におじさんはしゃがんだまま空を見上げた。相変わらずの曇り空は、天の川どころか星一つ見えない。

「でも、なんで一年に一度しか会えないのに、よりによって梅雨なんやろ」

「……やっぱり恥ずかしいからかなあ。俺たちに見られながらの逢い引きなんて」

「え?」

 私は目を丸くして、花火に照らされたおじさんの顔を見た。

 ああ、そっか、宇宙に浮かぶ織姫と彦星の立場からしたら、雲のせいで会えないなんて事はないのか。星の立場になって考えたことなかった。

「晴れてても星なんて大して見えないけどな」

 司くんはちょっと拗ねたみたいに言って、終わった花火をバケツに放り投げた。花火が水に浸かる時の、じゅう、という音が私はなんだか好きだ。

「それに、雨が降ると天の川の水かさが増して会えない、って話だよ。梅雨なのは普通に罰だからだろ」

「ええっ? 織姫と彦星のお話ってそんなんやっけ?」

「司くん夢がなーい」

「おじさんが夢みがちなんだよ」

 この司くんの言い分にはおじさんも堪えたらしい。花火を握りしめたまま固まっている。

 二十も離れた中学生に夢みがちと評された大人の気持ちを、私は想像しただけでいたたまれなくなった。

「おじさん、夢見がちなのはおじさんの良いところやで」

 私が拳を握って頷くと、司くんが笑い出した。

「それ、全然フォローになってないよ」

「え、あ、ごめん」

「いいんだよ、翼ちゃん……」

 司くんが笑うのにつられたのか、おじさんも吹き出した。そうしたら、私も可笑しくなってしまって、三人で顔を見合わせて笑った。

 ずっとずっと、こんな風にいれたら良いのに。そう考えて、私は首を傾げた。私は一体、どうなりたいんやろう。大人になりたいんか、子供でいたいんか。

 辺り一面に広がったアロマキャンドルの香りは、しばらくのあいだ鼻腔に張り付いて離れなかった。



 まだ日は落ちきっていないけれど、あちこちで外灯がともり始めている。

 帰り道、司くんは自分の服に鼻を押しつけて顔を歪めた。

「なんか服にまであの変な匂い付いた気がする」

「ほんまやねえ」

 アロマキャンドルで花火はやらない方がいい。終わった頃にはみんなの気持ちは一つだった。

 でも楽しかったなあ。思い出してにやけていると、横を歩く司くんの足どりが緩くなった。

「ずっと聞きたかったんだけど、記憶を取り戻したい、とは思わないのか?」

 司くんは言いにくそうに切りだした。記憶、かあ。

 私は腕を組んで考え込んだ。

「中学生の時は、ほとんど思わんかった。どうせろくでもない記憶やろうし。でも――」

 言いながら、私はおじさんと森下さんの事を思い出していた。あの二人は、もしかしたら結婚するかもしれない。結婚したら、家族だ。そして私はただの親戚。じゃあ私の家族って、どこにおるんやろう。このままじゃ一人になるかもしれないと考えたら、怖かった。

「最近はちょっと気になりだした」

 司くんはしばしの間黙り込んでから、ぱっと面を上げた。

「僕も手伝うから、一度本気で思い出そうとしてみないか? 今日はもう遅いから、明日にしよう。明日の放課後、そうだな……まあいいや、とりあえずおじさんちに来て」

 来るもの拒まずのおじさんの家は、とうとう待ち合わせ場所にまでされてしまった。



「と、いうわけで、作戦会議を開始します」

 翌日、私達は予定通りにおじさんの家に集まっていた。

 いつになく真面目な声を出す司くんに、私は思わず背筋を伸ばして居住まいを正す。念のため、今日はきちんと私服に着替えてきた。

「議長、お茶です」

「ありがとう」

 彼が小学生の頃から愛用している、ネコの肉球柄の湯のみを差し出すと、仰々しく受け取られた。男の子って、なんで『作戦会議』みたいなの好きなんやろ。

 議長はお茶で、その薄い唇を湿らせると咳払いを一つした。

「ひとまず状況を整理しよう。翼が記憶無いのって、いつからいつまで?」

「――生まれてから、十二歳くらいまでかな。はっきりした記憶の始まりが、病院で見たおじさんの顔やから」

「でも、一般常識とかは覚えてるよな」

「うーん。そうやなあ。友達のこととか、学校のこととかも、うっすらなら覚えて無くもないねんなあ。ただ、家族のこととなるとさっぱり」

「本来なら一番忘れなさそうなことだよな」

 二人揃って首を傾げる。

「考えられるのは、やっぱり家族が記憶を無くした原因ってことだな」

 この司くんの意見は、私も考えていたことなので頷く。

 家族については、何も覚えてないと言っても過言でない。家族構成はもちろん、誰一人として顔も名前も思い出せない。

「もしそうならきっと、思い出したって嫌な記憶ばかりってことなんかな」

「……おじさんには、翼の家族のこと聞いたことある? 少なくとも母親のことは知ってる筈なんだよな。おじさんの姉なんだから」

 私は記憶を掘り返した。といっても、つい数年前の話だけど、

「気がついてすぐの時は何度か聞いてみたけど、毎回「ゆっくり思いだそう」って言わるから聞かなくなった。しばらくしたら、どうでもよくなっちゃって聞きたいとも思わなくなってた」

 おじさんが教えたがらない、っていうことは、思い出さない方が幸せって事なんかな。

 私はちらりと二階を一瞥した。おじさんは仕事中で、二階の部屋に閉じこもっている。後でお茶でも持って行ってあげようか。

「じゃあ、思い出すきっかけになりそうなものに心当たりは?」

「きっかけ、かあ」

 如何せん記憶喪失なものだから、きっかけを思い出すのも難しい作業だ。

 瞼を閉じて考え込むと、司くんはテーブルの菓子鉢からかりんとうの袋を取って開封した。

「たこ焼きパーティーでもしてみる? 最近はタコパっていうらしい」

「お好み焼き派やわ」

「じゃあ関西弁の漫才のDVDでも借りてくる?」

「なんでやねん」

「おお、本物だ」

 司くんはパチパチと手を叩いた。私はむっとしながら、司くんが持っているかりんとうに手を伸ばして口に運んだ。人が食べてるのを見たら食べたくなるのって、なんでやろ。

 それにしても暑い。窓を閉めてクーラーを付けても、おじさんは怒らないだろうけどなんとなくまだ憚られる。せめて梅雨が明けるまではなあ。世界中の幸せを願う私としては、地球環境にも優しい自分でいたい。

「あ」

「なに?」

「風船の絵本! 前に話したやん。あれ、誰かが読んでくれたような気がする。男の人の声だった。ちょうど今の司くんみたいな」

 私が興奮した口調で言うと、司くんはふむ、と顎に手を当てた。

「男の人……父親の記憶かな。先生とか近所の人、親戚って線もあるけど。もしくは、僕みたいな声って事はもっと若い、兄弟か友達かも」

「おお、司くんってなんか、頭脳は大人、って感じやな」

「誰が名探偵だよ」

「いや、そこまでは言ってへんけど」

 


 作戦会議を終えた私達は、マイナーな絵本だから近所の図書館には無いだろうと踏んで、電車に乗って大きな市立図書館までやってきた。

 綺麗にジャンル別けされた館内は想像以上に広く、一生掛かっても読み切れないであろう量の本が並んでいた。

 司くんの茶色がかった目が輝いている。そういえば、本好きなんだっけ。

「後で見て回ろっか」

 提案すると、彼は満面の笑みで首を縦に振った。こういう所は十三歳やなあ。

 絵本コーナーは簡単に見つかった。手分けして、風船の絵本を探していく。

 二人とも絵本に夢中になったりして、捜索は難航しかけたけれど、とうとう見つかった。

 男の子が風船を持って立っている表紙。見つけた瞬間から、心臓が早鐘を打ち始めた。

「――あった!」

 声が裏返ってしまっていたかもしれない。私が呼ぶと、司くんは駆け寄って来た。座って読もう、と手を引かれたので着いていって、ソファに腰掛ける。

 ページを捲る手は少し震えた。絵も、内容も、記憶とぴったりあっていた。

 懐かしい、という感覚が脳に流れ込んでくる。なんで懐かしいんやろう。誰と読んでいたんやろう。感情だけが胸の奥まで入り込んで、膨らんでいく。

 最後のページを読み終えた時には、私の視界は滲んで上手く絵が見れなかった。瞬きをすると涙が絵本の上に落ちる。

「翼、大丈夫?」

 横で見ていた司くんは心配そうな顔をしていた。私は何も言えなくて、涙を止める方法を考え続けていた。



 窓の外では雨が降っている。電車の座席に座ると、私は借りた絵本が濡れてないか確認した。

「結局、何も思い出せへんかったなあ」

 残念に思いながらも、私はどこかほっとしていた。

 景色と一緒に、窓に張り付いた雨粒も流れていく。電車に乗ることは滅多にないから、新鮮な気分だった。

 隣の司くんは、なんでか申し訳なさそうに俯いている。

「ごめん」

「え? なにが?」

「記憶を取り戻そう、なんて無責任だった」

 どうにも彼は、言い出しっぺであることに責任を感じているらしい。決意したのは私やし、司くんが気にする事ちゃうのにな。

「ええよ、そんなん。私一人じゃ勇気出なかったし、いい機会やった」

 笑いかけると、唇を噛んで目を逸らされてしまった。

「違うんだ。記憶が戻れば、翼はおじさんに執着しなくなるんじゃないかって、軽い気持ちだった。そんなに簡単な事じゃないのに」

「司くんは優しいなあ」

「……たぶん、翼の記憶は、翼を守るために消えたんだ」

 電車の揺れる音を聞きながら、私は司くんの言葉の意味を思案した。

 記憶に「もう大丈夫」って思われるくらいに、強い人になりたいなあ。

 私は視線を落として絵本の表紙を眺めた。

「ねえ、司くん」

「なに」

「幸せって、どういうことやと思う?」

「急に深いテーマだな」

 司くんは顔を上げて腕を組んだ。

「前にさ、「世界中を幸せにする」って話をしたら「幸せって、何かと比べなくちゃ分からないから無理」って言われたことがあるねん」

「……誰に」

「知らない人。不幸そうな顔してたから励まそうとしたけど失敗しちゃった」

「翼ってたまに突飛な行動取るよな」

 私は目をぱちぱちさせた。

 そうかなあ。見知らぬ不幸な人を元気づけようとするのって、突飛なんかな。突飛ってどんな意味やっけ。

「不幸な時があるから幸せな時があって、幸せな人がおったら不幸な人がおる。だから誰かが幸せになるためには、誰かが不幸にならなあかんねんって」

「……そうかも、しれない」

 景色が、少しずつ見覚えのある街並みへなってゆく。雨は変わらず降っているのに、遠くの空は明るかった。

「その時は、私、それでも世界中を幸せにしなきゃ駄目なんだ、って特に深く考えんかった。でも今は、それってすごく悲しいことなんちゃうかって、思うねん」

 まだ言葉が出て来そうな気がしたけれど、喉に引っかかって苦しくなって、口を閉ざした。

 私は車内を見渡した。楽しそうにお喋りする女子高生達と、暗い顔でスマホの画面を見つめるサラリーマン。並んで眠る若いカップル。そわそわと扉の前に立つ男の子。

 一体、誰が幸せで誰が不幸だろう。そんなの私には分かりっこなかった。



 2


 七夕から四日後、私は何故か森下さんと二人きりで喫茶店にいた。

 小さなテーブルを挟んで向かいに座っている森下さんは、運ばれてきたコーヒー二つを眺めてから善良そうに笑った。

「パフェとかケーキとか、なんでも好きなもの頼んで良いのに」

「……結構です」

 どうしてこんな事になったんやろう。私は心の中で呟きながらカップを傾けた。

 飲み込んだコーヒーは苦い。けど彼女の前で砂糖を足すのは、どうしても嫌だったから我慢した。

 放課後、おじさんの家へ行く途中で森下さんに出くわした。彼女はなんの考えがあってか私をお茶に誘い、断り文句が思いつかなかった私は黙って付いていくしかなかった。

「甘いもの、好きじゃない?」

「……好きです」

「あれ、そうなんだ。まあ、晩ご飯あるしね。何が好き? よかったら今度幸広さんちに持って行くね」

 私は「ありがとうございます」が上手く言えなかった。

 森下さんは、学校の事とか好きなものの事とか友達の事とか、色んな事を私に訊ねてはころころと表情を変えた。

 私と真逆だ。もはや清々しいまでに。

 そう実感したら、口の中のコーヒーが苦みを増したから、思わず口が滑った。

「本題はまだですか」

 言ってしまってから、すぐにしまったと思った。私は世界中を幸せにしなきゃいけないのに、敵視してどうする。

 丸っこい目を瞬かせたのち、森下さんは口元に笑みをのせた。

「幸広さんって、不器用でひどい人よね」

「ひどい? おじさんが不器用なのは認めるけど……」

「そこは認めるのね」

「おじさんは誰より優しいよ」

「それはあなたが見たいところだけ見てるからよ」

 森下さんは真っ直ぐに私の目を見た。

「私、あの人が好き。不器用なところも、ひどいところも、全部含んで好き」

「……だから、なんですか」

「だから、あなたのことも大切にしたいのよ」

 私はミルクの溶けたコーヒーに視線を落とした。少しも減っていないカップの中から鼻腔へ抜けてゆく香りに、むせかえりそうだった。

 この人は私が、自分をよく思ってないことに気がついている。なのにこうして笑いかけて、優しくする。

 大人だ、と思った。

 窓の外では雨が降り出していた。



 土曜日、私はやりかけの宿題を放棄して、おじさんちの居間で転がって本を読んでいた。おじさんはよく児童文学の挿絵と表紙を担当していて、ここには本が沢山ある。

 今日は私以外に客はおらず、おじさんも仕事部屋に籠もっていて暇だった。

 おじさんの仕事部屋は二階にあって、締め切りが近付くと閉じこもって出てこなくなる。

 ドアが閉まりきっていない時は声を掛けても平気な時で、閉め切られている時は出来るだけそっとしておく、というのがいつの間にか出来ていたこの家のルールだ。

 私は掛け時計に目をやった。午後六時。寮の夕食終了時間まではまだまだ時間があるけれど帰ろうか。

 帰る前におじさんに挨拶するため、私は荷物を纏めて二階へ向かった。古い家だから一歩登るたび、ぎしぎし音が響く。

 仕事部屋のドアには隙間があって、中の様子が窺えた。今日はまだ余裕があるんかな。

 隙間を覗くと散らかった部屋の奥におじさんがいた。

 大きな机に向かって丸められているなで肩の背中までの、ほんの数メートルが、なんでか遠い。

「ひどい、か」

 森下さんが昨日言った言葉を私は無意識に呟いた。するとおじさんが振り返る。顔色は悪くなさそうだ、よかった。

「どうしたの? 翼ちゃん」

「そろそろ帰ろうかと思って」

 精一杯に可愛く笑ったつもりだったけど、おじさんは僅かに眉尻を下げて頷いただけだった。あの人なら、目線一つで彼を赤面させる事だって出来るのに。

「そっかー、天気も悪いし気をつけて」

 私は一度手を振って歩き出してから、足を止めた。もう一度ドアを開けるとすぐにおじさんと目が合った。

「おじさんって、ひどいん?」

 こういうのは、本人に聞いた方が早い。悩んだってどうせわかんないし。

 聞かれたおじさんは鼻の頭を掻いた。

「ひどい?」

「うん。ひどい人なん?」

「そうだなあ……」

 そんなわけ無い、と笑ってくれると思った。なのに彼は、きゅっと眉間に皺を寄せた。

「ひどい人かもしれない」

 瞬間、私は失望していた。なんでこんな事言うんやろ。あの人の言ったことを肯定するんやろ。

「ばいばい」

 私は無愛想に言うと、足早に階段を降りて玄関へ行って靴を履く。

 彼は一歩一歩階段を降りていくみたいに、ただの人間になっていく。

 右肩に掛けたトートバッグが重い。片側でばかり持ったら駄目だって、言われたっけ。けど、私の肩なんてどうだっていいんやろ。

 ビニール傘を開いて、ローファーで水たまりを踏みならした。寮までの道をずんずん進んで行く。寮までは一駅で、電車賃がもったいないから歩くようにしている。おじさんは定期券を買おうか、って言ってくれたんだけど。

 十分くらい歩いた時だった。強い横殴りの風が吹いて、私は思わず立ち止まった。傘がしなって、服が雨で濡れてしまう。

 おさまった頃ようやく顔を上げると、灰色の空に赤い風船が浮かんでいるのが見えた。風に流されて、どんどん遠くへ。

 小さくなっていく赤色に導かれるみたいに私は視線を滑らせて――、『その人』の顔を、見た。

 おじさんに少し面影が似ている。髪や背格好なんか、そっくりだ。

 そしてなにより、目元が鏡で見る私のそれによく似ていた。

『その人』は唇を噛みしめて私を見つめていたけれど、やがてゆっくり口を開いた。

「翼、久しぶり」

 その声は私の鼓膜と脳を撃ち殺して、心臓の奥まで届いた。鼓動がうるさい。

 私はこの時、どんな顔をしていただろう。

「俺のこと覚えてる、かな」

 いつも思い出す、絵本を読んでくれたあの声と、どうしてこんなに似てるんだ。

「四年以上も放っていて本当にごめん。母さん達の事、聞いたよ」

 全身の肌が粟立つ。唇と指先だけが勝手にわなないて、それ以外は粘土になってしまったみたいに動かない。

 私はこの人を知っている。違う、知っていた。

 気がついたら、走っていた。無我夢中で来た道を戻って、いつのまにかおじさんの家にいた。靴を脱ぎ捨てて廊下を走り抜ける。おじさんは台所にいた。

 おじさんの姿を見た瞬間、私はその場にへたり込んだ。上手く息が出来なかった。

 彼は目を丸くして、私の方へやってきた。

「どうしたの。ずぶ濡れじゃないか」

 言われて、傘をどこかに置いてきた事を知った。

 次々と脳内に映像が流れ込んでくる

 そうだ、私はあの日――階段から落ちたんだ。

 

 

 あの家の中心はお兄ちゃんだった。七つも年の離れた、たった一人のお兄ちゃん。

 物心付いた頃から私は、自分のことよりもお兄ちゃんのことを褒められることの方が多かった。

 お兄ちゃんは、賢くて、格好良くて、優しくて、人気者だった。私は幼心に誇らしかった。お兄ちゃんを中心に、家族中が上手くいっていた。

 なのに、いつからやったかな。少しずつおかしくなっていったのは。

 お兄ちゃんが笑わなくなった。するとお母さんも笑わなくなって、それからお父さんも笑わなくなった。私が何を言っても、何をして見せても、彼らはにこりともしなかった。

 お兄ちゃんはお母さんに酷いことを言うようになった。お母さんとお父さんは喧嘩ばかりするようになった。それでも両親とも、お兄ちゃんに付きっきりだった。私なんてほとんど居ないのと同じだった。

 そして私は理解したのだ。

 この家の中心はお兄ちゃんだ、と。

 だからお兄ちゃんが居なくなって、家族が崩壊した。

 お兄ちゃんが高校を卒業してすぐだった。家を飛び出したきり帰ってこなかった。お母さんは悲嘆に暮れて、お父さんはお母さんを怒鳴った。

 私はもちろんショックだったけれど、心の片隅で淡い期待が育つのを感じていた。

――お兄ちゃんが居なくなったなら、私が中心になれるかもしれない。

 でもそれは違っていた。お兄ちゃんが帰らなくなって、三日が経ち、一週間が経ち、一ヶ月が経っても、私はむしろ居場所を無くしていく一方だった。

 二ヶ月が経つと、今度はお父さんが出ていった。

 お母さんはずっと泣いていて、私が慰めなきゃと思った。もう私しかいないから、お母さんも私を見てくれるんじゃないかって思った。

「お母さん元気出して」

 勇気を振り絞って言った私の言葉を聞いて、お母さんはゆらりと顔を上げた。感情のこもらない目で私を映して、にじり寄ってきた。私は怖くなって後ずさった。後ろを確認する余裕なんて無かったから、背後に階段が近づいていることに気がつかなかった。

「なんでアンタなんだ」

 お母さんが呟いた瞬間、私は階段を滑り落ちていった。そうして次に目が覚めた時に見たのは、おじさんの顔だった。



 私の肩にはタオルが掛けられ、手にはマグカップが握らされていた。緑茶ばかり飲むおじさんには珍しく、ココアを入れてくれたようだ。甘い香りが脳を溶かす気がした。

「おじさん……」

 私は一度口を開いたけれど、すぐに黙り込んでしまった。

 ぐちゃぐちゃになった頭の中で、あの凛とした声がはっきり蘇る。

――あなたのことも、大切にしたいのよ。

 そうだった。私はもう、彼に依存しちゃいけないんだ。

 考え出したら、声が出なかった。代わりに涙だけがぼろぼろ出て、雨水と一緒に床を濡らした。

 感情と記憶がぐるぐるぐるぐる思考をかき乱して、吐き気がした。

 お父さんは、どこに行ってしまったんだろう。

 お母さんは、あれからどうしてるんだろう。

 お兄ちゃんは、どうしてまた私の前に現れたんだろう。

 どうしておじさんは、私に何も教えてくれなかったんだろう。



 3


 私がどうにか寮に戻った頃には、門限はとっくに過ぎていて寮長に叱られた。それでも、本来ならもっと厳しい筈の罰則がほとんど無かったのは、おじさんが電話して送り届けてくれ、事情を説明してくれたからだ、と知ったのは翌日の放課後のことだった。

「締め切り前やのに、悪いことしたなあ」

 部屋のベッドに転がって、天井眺める。

 二段ベッドの下段をジャンケンで勝ち取ったルームメイトの祐希ちゃんは、今日はまだ帰ってきていない。

 今日の授業は何一つ頭に入らなかった。おじさんが行かしてくれた高校なのに。

 寮のある学校に行きたい、と言った私に、おじさんは嬉しそうに「お金は気にしないで」と言った。大人になったら返そうとは思っているけれど、迷わず応援してくれたのが嬉しかった。

 寝返りをうつと、ほぼ同時にノックの音がした。ドアの向こうから私に呼びかける声がする。この声は、クラスメイトの三木さんかな。

 私はのろりと起き上がって、重い足でドアへ向かった。

「あ、翼ちゃん。なんか、弟さんが来てるよー。校門のとこで待ってるって」

 三木さんはこれから部活らしく、体操服を着ていた。

「弟?」

「うん。じゃあね」

 詳しく訊ねる隙を与えず、彼女は陸上部エースの脚力を惜しみなく発揮してどこかへ走り去った。

 弟? 私って、弟もおるん? 記憶が戻ったはずなのに、覚えがない。

 気乗りしないけれど、私は校門へ行くことにした。こうなったら、どうにでもなればいい。もう。

 身だしなみを気休め程度に整えながら足を進める。外は曇天で、今にも降り出しそうだった。



 校門前で女子高生の注目を一身に受けているのは、制服姿の司くんだった。彼は私を見付けると「よう」と言った。

「……司くんって私の弟やっけ」

「説明すんの面倒だったから」

 司くんはしらっと言いのけて、歩き出した。私は小走りになって付いていく。

「どこ行くん」

「言ったら嫌がりそうだから言わない」

「なんやそれ」

 私は文句を付ける元気もなくて、彼の半歩後ろを大人しく歩いた。いつの間にやら、頭が私の目線より上にある。男の人は、すぐ変わってしまう。すぐ私の知らない人みたいになっていく。

「ねえ、ほんまにどこ行くん?」

 もう一度聞くと、司くんは低く掠れた、別人のような声を出した。

「……おじさんのとこ」

 私は目を見張って足を止めた。司くんがこちらを顧みる。その視線から逃げ出そうとしたら手首を掴まれた。

「離して」

「駄目」

「やだ、行かない」

「行かないで、どうするつもりだよ」

 私は司くんを睨みつけた。彼の力は想像よりも強くて、手を振り払えなかった。

 どうするって、なに。

「そんなん、司くんに関係ないやん」

 司くんは一瞬だけ傷ついた顔をして、でもすぐに私を睨み返した。

「関係なくても、放っておけない」

 せっかく落ち着きだした心が、またぐちゃぐちゃになっていく。昨日の今日で司くんがこんな事を言い出すなんて、つまりはおじさんがわざわざ話したんだ。なんでそんなことするんやろう。

「おじさんに、なんて言われたん」

 私が言うと、司くんは急にばつが悪そうに目を逸らした。握られている手首が汗ばんでいく。

「昨日の話、聞いた。自分には何も話してくれなかったから、僕なら力になれるんじゃないかって、お願いされた」

 全身の力が抜けるのを感じた。

 どこかで期待していたんだ。こんな風に私の所に来て心配してくれるのが、おじさんだって。

 でも彼は来なかった。司くんに頼んで、自分では行かなかった。

「逃げないから離して。痛い」

 力なく私が俯くと、司くんは慌てて手を離した。

「ごめん」

「――でもそれなら、なんでおじさんのとこ行くん?」

「そりゃあ、彼女なんか作っていちゃつきやがってって言いに行くんだよ」

「な、なんでそうなるん」

 司くんはきょとんとして見せた。こっちがしたいわ、その顔。

「だって、おじさんに話せないような翼の悩みっていったら、それだろ。失恋相手には言えなくて当たり前だし」

「シツレン?」

「え? 翼って、おじさんの事好きだろ? 恋愛の意味で」

 一気に顔が熱くなって、私は口をぱくぱくさせた。

 こいつ、丁寧に『恋愛の意味で』まで付けやがった。年下の癖に。

 私の反応を見て、司くんは眉間に皺を寄せた。

「もしかして、本気で自覚無かったのか?」

 やっぱり逃げよう。

 回れ右をしようとしたら、また手首を掴まれてしまった。



 私と司くんは、並んで堤防に腰を下ろした。

 思い返せば私が落ち込んでる時、彼はいつもここで話を聞いてくれていた。

 司くんの横顔を一瞥してから、私は膝を抱えた。昨日の雨で堤防は濡れていて、司くんがタオルを貸してくれたのでそれを下に轢かせてもらった。

 曇っていても十分に暑い。ため息を吐いたら、膝が熱くて嫌になった。

「私、甘えてばっかりやね。おじさんにも司くんにも」

 口にしたら、こんな事を言う余裕がある自分に気付いて驚いた。昨日はもう、明日以降を生きていく自分を想像さえ出来なかったのに。人間って、こんなに強いんだ。私みたいなのでも、こんなに。

「それはいいけど、昨日は何があったんだよ。おじさんのことじゃないならさ」

 司くんは少し拗ねてるみたいに頬杖を付いた。

 私も真似して頬杖を付いて、空を見た。雲がどんどん流れていく。

「……お兄ちゃんに会った」

 思い切って話してみたら、何ともない事のようにすら思えた。ただ、兄と妹が久しぶりに会っただけ。文字にしたら、なんてことない。

 だけど司くんは、怪訝そうに私を凝視した。

「翼って、お兄ちゃんいたっけ。――というか、翼」

「うん、思い出しちゃったみたい」

 おじさんには何も言えなかったのに、司くんにはすらすら言えたのが不思議だった。

「思い出しちゃったって、そんな」

 唖然としてすらいる司くんに、私はほんのちょっとだけ笑った。

「お兄ちゃんは、私の家の中心やった」

 私は昨日思い出した事を余すことなく司くんに語った。細かいことは、私自身も思い出しきれてない部分があるから省略したけれど。

 話し終えて、ふと司くんの方を見ると彼は泣いていた。そういえば、司くんは泣き虫なんだった。

「なんで泣くん」

 司くんは、はっとしたように手の甲で目元を拭った。

「だって、翼が泣いてるから」

 久しぶりに、子供っぽい彼の口調を聞いた。たった数年前なのに、遠いことのようだ。あの頃は楽しかった。この台詞を吐くのは、まだ早いかもしれないけれど。

 頬を両手で押さえると、思った以上に濡れていた。

 赤い目をした司くんは、短い沈黙の後で「よし」と声を上げた。

「やっぱりおじさんとこ行こう」

「……なんで」

「おじさんは酷い。翼になにも教えないなんて。こんな形で記憶が戻る可能性くらい、考えついたはずなのに」

「酷い?」

 つい最近、同じような会話をしたばかりだ。私はスカートの裾を握りしめた。

 なんで森下さんも司くんも、おじさんを悪く言うんやろ。

「おじさんは残酷な人だって、前から思ってた。学費も寮費も払ってるくせに、一向に翼を養子にはしなかったし」

「それは……えっと、独身だからやって」

「翼はおじさんのこと、神様みたいな人だって言うけど、僕はそうは思わない」

 司くんの色素の薄い瞳は、真剣だった。私が反論を考えている内に彼は続ける。

「おじさんとちゃんと話さなきゃ駄目だ。ただの一人の人間としてのおじさんと」

「……私だって、わかってるよ」

「わかってないよ。わかってるだけじゃ駄目だってこと」

 責められて、私は頭に血が上っていくのを感じた。なんで追い打ちをかけるようなことばかり言うんだ。

「私のことなんか大して知らん癖に」

 酷く冷たい声色になってしまった。慌てて口元を押さえたけれど、司くんは心臓に何十本も棘が刺さったみたいな顔をしていた。

「あ……」

「とにかく、明日でも良いからおじさんとこ行きなよ」

 司くんは立ち上がって、歩き出してしまった。私の伸ばした右手は行き場を無くして、湿った空気を掴んだ。



 翌日の天気は晴れだった。私は澄んだ夕焼け空を眺めながら、縁側に腰掛けた。

 隅の柱の所で笹が揺れている。みんなで花火をしたあの日から、今日でちょうど一週間。たった一週間でこんなにも変わってしまった。

 畳を踏む足音が背後から聞こえる。おじさんが二階から降りてきたようだ。

「いらっしゃい、翼ちゃん」

「……おじゃましてます」

 久しぶりに口にした「おじゃまします」は、思ったよりも舌触りの良い言葉だった。

 おじさんは眠たそうに眼を擦ってから、私につられるように笹を見やった。

「そろそろ片付けなきゃなあ。お嫁に行き遅れちゃう」

「誰が?」

「そこは「雛人形じゃないんだから」でしょ」

 くすくす笑いながらおじさんは縛っていた紐を解いて柱から笹を外し、縁側に横たえた。

 上から順に短冊を外していく。私もそれに倣って、逆から短冊を外していくことにした。嫁云々はともかく、確かにいつまでも出してるようなものじゃないだろう。

「ねえおじさん」

「なーに」

「司くんから何か聞いた?」

 おじさんは何故だか少し悩み込んでから首を横に振った。

「何かあったの?」

「酷いこと言っちゃった。私のこと心配してくれてたのに」

「そっか。司くんならちゃんと謝れば許してくれるよ」

 短冊外しに苦戦するのを止めて、彼は私の頭に手を置いた。

 目の前が滲む。いつになれば涙って枯れてくれるんやろう。泣くと頭も胸も痛くなるから嫌なのに。

「ねえおじさん」

「なーに」

「おじさんは私の家族のこと、どれくらい知ってるん?」

「……一通りは」

「なんで教えてくれへんかったん? お母さんのこととか、お兄ちゃんのこととか」

 緑色の短冊がおじさんの手から滑り落ちた。目と口が丸くなっている。それがちょっと間抜けで、私は可笑しくなった。

「翼ちゃん、もしかして――」

「うん。思い出した。ほとんど全部」

 これでもう後戻りは出来なくなった。少なくとも、あの一週間前にはもう戻れないんだろうな。

『たくさん花火したい』と書いてある青色の短冊の結び目を解きながら、私はゆっくり息を吐いた。

「私、お兄ちゃんがおかしくなってから、いい子でいようって思うようになってん。それしかないと思ったから」

 おじさんの表情を窺う勇気はなかった。萎れた笹の葉を指の腹で撫でる。

「お父さんもお母さんも、お兄ちゃんのことでずっと大変そうやったから、私は迷惑掛けちゃいけないって。いい子でいれば、その内私の努力にも気がついてくれるんじゃないかって。でも、あかんかった。真面目に頑張ったって、お兄ちゃんみたいに期待される事も、褒められることも無かった。やのに、私がちょっとでも手を煩わせるようなことしたら、「今大変なの知ってる癖に」って怒られた。お兄ちゃんにかける時間はいくらでもあるけど、私にかける時間はないねんって。あの時、どう考えたってお兄ちゃんが問題児で、私は優等生やったのに。なんで」

 言い終えると呼吸が荒くなっていた。記憶って、本当にやっかいだ。思い出さなければよかった。こんな気持ち、二度と知りたくなかった。

「……ごめん」

 おじさんが面を伏せて呟いたので、私は首を捻った。

「なんで謝るん」

「姉さん達の様子がおかしいのは、俺も知ってた。何度も電話で相談されてたんだ。あんなことになる前に、様子を見に行くべきだった」

「仕方ないよ、遠かったんやし」

 わたしのお母さん――つまりはおじさんの姉にあたる――は、大学進学を機に関西へ移り住んだ。そこで出会ったお父さんと結婚して、私達が生まれた。だからあの頃、私がおじさんと会う機会はお正月の親戚の集まりくらいだった。

 あれ、でもなんで私が慰めてるんやろ。

「そんで、なんで教えてくれへんかったん? 私が可哀想だったから? でも、遅かれ速かれ知るんやったら、私はおじさんに教えて貰いたかった。こんな形じゃなくて」

「――翼ちゃんは、俺と似てると思ったから。年の離れた優秀な兄姉がいて、親に見放されてる所が。だから、言えなかった。けど、違ったね。翼ちゃんは、俺なんかとちっとも似てない」

 彼は顔を上げて、寂しそうに笑った。

「親に見放されてる?」

「あ、ごめん、言い方悪かったね」

「そうじゃなくて、おじさんも、見放されてるん?」

 考えてみると、そういえばおじさんが両親の話をする事は滅多になかった。ただ単に、私に気を遣ってただけなのかもしれないけれど。

「両親は、二人とも俺がイラストレーターを目指すことを反対してたんだ。美大に行くことになって以来、ほとんど会ってない。奨学金で賄いきれない学費を払ってくれたのは、姉さんだった」

「じゃあ、私の高校のお金、払ってくれてるのは……」

「純粋に翼ちゃんを応援したい気持ちがほとんどだけど、姉さんへの恩返しじゃない、って言うと嘘になる」

 初耳の話ばかりで、頭がこんがらがりそうだった。

「そんなら、私のこと、養子にしてくれなかったのは? 独身だからってだけじゃないんやろ?」

「……不安だったんだ。記憶が戻った時に翼ちゃんが、養子になったことを後悔するんじゃないかって。姉さんがどんな母親だったかは知らないけど、姉さんよりも俺が選ばれることなんて無い気がして」

 おじさんは背中を丸めて、くせ毛頭を抱えた。彼の姿がこんなに小さく見えるのは初めてだった。

 私は短冊の最後の一つを外した。『世界平和』。ありがちなのに、なかなか叶わない願い事。

「ねえ、おじさん。最後にもう一個だけ」

「……どうぞ」

「お母さん、元気にしてるん?」

 ぬるい風が吹いて、汗ばむ肌を撫でた。

 顔を覗き込むと、真っ黒の瞳と目が合って、おじさんは今にも泣き出しそうに首肯した。涙が溜まった目は、やっぱりきらきらして綺麗だった。

「元気だよ。まだ精神的に不安定だけど、少しずつ回復してる」

「そっか、いつか会えるかな」

「もちろん」

 彼は大きく頷いて、反動で涙が落ちた。でも、見なかった振りをした。

 お茶いれるよ、とおじさんは腰を上げて私に背を向けた。私も居間に戻って壁に寄りかかる。

 台所からはお湯の沸く音に混じって鼻を啜る音がした。

 しばしたって、おじさんは湯のみが二つ乗ったおぼんを手に、いつも通りに笑った。色違いの、赤と青の湯のみ。私は迷わず赤を取った。

 あれ。私、以外と普通だ。

「翼ちゃん。俺が言うのもなんだけど、司くんと早く仲直りしてね」

「……でも司くん、私に愛想尽かしちゃったんちゃうかなあ」

 私は昨日みた司くんの表情を思い浮かべて嘆息した。

 緑茶を一口啜ってから、おじさんは「あ」と声を上げた。

「そうだ、いいもの見せてあげる。司くんには内緒だけど」

 おじさんは本棚の所へ行くと自分の画集を持って戻ってきた。真ん中辺りをぺらぺら捲る。すると、栞のようなものが挟まっていた。

「短冊?」

 ついさっき片付けていた短冊と同じ大きさの緑色の紙を指で摘まんでみる。一度丸められたみたいに、皺だらけだった。

「裏返してみて」

 言われるままに裏返すと、サインペンで何か書かれていた。

『世界が翼に優しくありますように』

 理解できるまで、三回は読んだ。この筆跡の持ち主は、すぐ分かった。司くん、だ。

 固まってしまった私に、おじさんはにんまりした。

「ちゃんと笹に吊すべきだったよねえ」

 全身が熱くなっていく。泣いてるからなのか、照れてるからなのか、バカなことをいった自分が恥ずかしいからなのか、わからなかった。


 

「どういう状況?」

 肩で息をしながら居間に駆け込んできた司くんは、畳の上で向かい合って座る私達を見て眉根を寄せた。寝癖があちこちについてるし汗をかいてるし、かなり急いで来てくれたみたいだ。

「よう」

 私が片手を上げて言うと、司くんはぶっきらぼうに「よう」と返した。

「まあいいから、座って司くん。あ、コマの色勝手に決めたよー」

 おじさんは私の横に座るよう司くんを促して、緑色のコマを渡した。森下さんは少し申し訳なさそうに会釈している。

 司くんは混乱が解けないようでしきりに瞬きをしていた。

「それはいいんだけど、僕、おじさんに「至急来られたし」ってメール貰って、それで、なにかあったのかと……」

 司くん以外の三人で顔を見合わせる。正直なところ、ただの人生ゲームの人数会わせなんやけど……。

 そういえば私、司くんと喧嘩中やわ。あれからまだ数日しか経ってないから心配してくれてたんやろうか。心が痛む。

 気まずい空気が流れた。

 どう言ったものか、とおじさんに視線を送ると、彼は神妙に頷いた。

「いいかな、司くん。人生ゲームっていうのは、一人より二人、二人より三人。そして、三人より四人でやった方が断然面白いんだよ」

「……つまり、人生ゲームの人数あわせのためだけに、貴重な休日の昼間から呼び出されたと」

 手の甲で汗を拭いながら呆れた声を出す司くんに、おじさんは私の方を向いて首を横に振った。

「だめだ、即バレた。司くんの推理力怖い」

「司くんはたぶん、若返りの薬でも飲んでるんやわ」

 様子を窺うと、司くんは何とも言えない表情で私達を見ていたので揃って口を噤む。

 見かねたのか、森下さんが司くんに笑いかけた。

「ごめんね。でもせっかくだし一緒にやりたいな」

 司くんは目を見張ってから、口の中でなにかもごもご言ったけど聞き取れなかった。頬がほんのり上気している。森下さんすごい。司くんも可愛い女性に弱いんか。私はなんでか、彼の反応にもやっとしてしまって唇を尖らせた。

 かくして、人生ゲームが始まった。

 

 

 数十分後、私は一番にゴールし、その次にゴールした森下さんと一緒におじさんと司くんの対決を観戦していた。

 見たところ、おじさんの方がゴールに近い。前におじさんは「司くんになら勝てる」みたいな事を言ってたし、よっぽど勝ちたいようで真剣そのものだ。まあ、つまりは大人げない。

 私は楽しそうに勝負の行方を見守る森下さんを横目で見た。すでにゴールした彼女の黄色いコマは、子供が四人もいる大所帯だ。

「森下さんは、おじさんと結婚するん?」

 明日の天気でも聞くみたいに言ったけど、森下さんは面食らっていた。けれど、その森下さんよりも動揺したのはおじさんで、札束を落としてしまいそこら中に散らばった。

 手分けしておもちゃの一万円札を拾い集める。

 森下さんは私の目をみて、にっこり笑った。

「わかんないけど、私はしたいなあ」

 おじさんは額に手を当てた。司くんが「早くしてよ」と文句を言っている。

「そうなんや。おじさんのどこがいいん? あ、良い意味で」

「どこが、かあ。そうだなあ――」

「ゴール! ゴールした! 司くんの負け!」

 森下さんの言葉を遮るようにおじさんが叫んだ。ああ、聞きそびれちゃった。また今度聞けばいっか。

 照れ隠しも手伝って大喜びするおじさんに、司くんはにやりと口角を上げた。

「残念、おじさん。人生ゲームは、ゴールしたら勝ちじゃない。お金持ちが勝つんだ」

「え」

 お金を数えた結果、おじさんは最下位になった。売れっ子俳優の司くんと、フリーターのおじさんでは収入がまるで違ったのが敗因やろうな。

 片付けをしながらも、おじさんは「誰になら勝てるんだ」と肩を落としていたけれど、思い出したように手を叩いた。

「そうだ、一番になった翼ちゃんは、みんなに何かお願いしていいよ」

「えっ! ほんまに!」

 急に舞い込んだ景品に、私はガッツポーズした。

 お願い事は決まっていた。一番にならなくても、今日頼もうと思っていた願い事。

「じゃあ、おじさんと森下さんは私も入れて三人で食事に行くこと。……司くんは、これからちょっと付き合って」



 二人でおじさんの家を出て、並んで歩を進める。司くんは心なしか気まずそうな様子で、なんだか申し訳ない。

「何の用」

 無愛想に言う司くんに、私は頭を下げた。

「こないだはごめんなさい。手伝って欲しい事があって」

「別にいいけど」

 目をぱちくりさせる司くんを連れて、河川敷までの道を歩く。一歩進むたび、手に提げている大きなビニール袋ががさがさと音を立てた。

「なに、それ」

「後で分かるから、今は秘密」

 司くんは僅かに肩を竦めた。

 天気がよくて、日差しが強い。今日は絶好の日和だ。ちょっと暑すぎるけれど。

「私さ、お兄ちゃんとお母さんに会って話することにした」

「そう」

 彼は大きなスニーカーでのんびりコンクリートを蹴っている。歩幅まで抜かれちゃったんやなあ。

「お母さんの方はまだ先になるけど、お兄ちゃんにはもうすぐ会うねん。おじさんに同席して貰うことにした」

「――それはよかった」

 会ってどうなるかは、想像も付かない。案外なんともなくて拍子抜けするかもしれないし、大事件に発展するかもしれない。でもどんなことになっても、私達は大丈夫なんじゃないかって思う。

 また、みんなで笑える。人数は増えていくかもしれないけれど、それもいいかもしれない。

「よし、着いたで!」

 私は元気よく腰に手を当てた。

「いつもの河川敷だろ、ここ」

「まあいいから、手伝って。――風船飛ばし」

 首を傾げる司くんに、私はビニール袋からゴム風船を取り出して言った。



 司くんにヘリウムガスで風船を膨らまして貰い、私がそれに糸と手紙を付けていく。完成したものは飛んでいかないように大きな石で留めておく。

 暑さに弱い司くんは唇を尖らして、手で顔を仰いだ。

「風船とばしって、環境に悪いんじゃなかったっけ」

「決まりを守ってやれば問題ないんやで」

 結構予算が掛かるから、たまにしか出来ないけど。

 夕方の河川敷は、ジョギングする人や犬の散歩をする人がちらほらやって来る。私はこの光景が好きだった。

「これ、何が書いてあるんだ」

 私の手から手紙を取り上げて、司くんはしげしげと観察した。四つ折りになっている紙を開いて、中に書かれている文字を音読する。

「『拝啓どこかのだれか様 貴方の幸せを祈っています』? なんだこれ。翼、まだ「世界中を幸せにする」とか言ってるのか」

「そりゃあもちろん。嘘みたいにまだまだ本気やで。むしろこれからやもん」

 世界中が幸せに、なればいい。おじさんのためじゃない。私の、本心だった。

 赤、黄色、ピンク、青、緑、黄緑、白にオレンジ。色とりどりの風船が出来上がっていく。

 途中で子どもが近寄ってきたから、手紙を付ける前のものを一つあげた。

 材料の残りを確認したら、あと三個分しか無かったので、私は最後三つの制作は司くんに任せて自販機へ行くことにした。流石の私も、暑い。

 ミルクティーとオレンジジュースを一本ずつ買って戻ると、彼は作業を終えてくつろいでいた。

「はい、報酬。好きな方どうぞ」

 司くんは少し悩んでミルクティーを選んだ。きっと、私がオレンジジュース好きなの、知ってるからなんやろうけど、黙っておく。

 蓋を開けてオレンジ色を流し込む。喉が急激に冷やされる感覚は、いつ味わっても爽快だ。

「で、告白はしたのか」

「――ぐ、げほ、がほっ」

 良いタイミングで司くんが口を開いて、私は盛大に咽せた。

「な、なに、が」

 収まらない咳の合間を縫って訊ねると、彼は愉快そうに笑った。

「わかってる癖に」

「……そんなんせえへん、よ。それにこれは、そんなんじゃなくて、もっとこう、そういうんじゃない方のあれなんやって。ほんまに」

「――それとかこれとか多すぎて訳わからんのやけど。ほんまに」

「関西弁真似せんとって」

 どっと疲れてしまって肩を落とすと、隣で司くんは笑い転げていた。失礼極まりない。

 私は夕陽の反射する水面を見やって、すこし笑った。

「おじさんのこと、確かに好きやけど、二人には幸せになって欲しい。姪として」

 嘘じゃなかった。恋なんかじゃない、ただの執着心だった。きっと。

 でもいつの日か、言えたらいいな。貴方のことが、本当に大好きだったって。

 そうしたら彼は目を丸くするだろうから、ありがとうって言えたらいい。とっても辛かったけど、それよりもっと豊かな気持ちを知れたんだ、って。あんなに嬉しくて胸がいっぱいになったり、毎日が楽しくてきらきらして見えたのも、貴方のおかげなんだって。

 ふと、トランペットの音が聞こえ始めた。河川敷のどこかで誰かが練習しているみたいだ。聞いたことある曲やけど、なんやったっけ。何かの映画かな。

「そういえば、司くんって格好いいらしいね」

「……なんだそれ」

「祐希ちゃんと三木さんが言ってた。弟格好いいねーって」

「誰だよ」

 どうでもよさそうに司くんはため息を吐いたけど、若干にやけたのを、私は見逃さなかった。

 格好いい、かあ。もっと小さい頃から知ってるから、そんなこと考えたことなくて、祐希ちゃん達の発言には不意をつかれた。でも言われてみれば、昔から司くんは女の子にもてていた。

 どっちかというと司くんは見た目より、大人っぽい言動とか心が広いところとか、そっちの方が魅力だと思うけど。

 私は横目で司くんを見て、ミルクティーを飲む瞬間を見計らった。

「ところで、おじさんの画集にラブレターが挟まってるの見つけたんやけど」

「――げほっ」

 司くんはものの見事に咽せて、耳まで真っ赤になった。私は笑いながら、狼狽える彼の背中をさすってあげる。

「な、なんで、それ」

「あ! これ、言っちゃ駄目なんだった」

 わざとらしく付け足す私を、彼は恨めしそうに見た。

「じゃあ言うなよ!」

「……だって私、司くんの話聞きたいねんもん。――いつも聞いて貰ってばっかやから」

 次の瞬間、彼は思いも寄らない事を言ってのけた。赤面必至の、中学生らしからぬ台詞を。

「僕――俺の話を聞いたら、きっと翼は驚くよ。だって俺、翼が好きだから。翼が想像してる何倍も」

 私は唖然として、呼吸すら止まってしまった。

 司くんは風船の束を取って、半分を私に手渡すと残りの半分を手に堤防を駆け下りていく。

 私は慌てて追いかけた。

 並んで、計十九個の風船を掲げる。

「降ればどしゃ降り、ってことわざ知ってる?」

「……聞いたこと無い」

「悪い出来事は続く、って意味で――」

 なんでこのタイミングでそんな話するんだろう、と思いながらも私は続きに耳を傾ける。

「反対に、良い事も続くって意味もあるんだ。だから、嫌なことばっかり続いてどうしようもなくなっても、いつかは終わりが来て、次は良いことが沢山起きる、ってこと」

 私達は同時に手を離して、空に広がっていく風船を見つめた。色んな色が、太陽の光を受けて輝いている。風に流されて、それぞれどこかに飛んでいく。

 泣けるくらいに夕陽が綺麗だから、たぶん明日は晴れるだろう。

 いつの間にか梅雨が明けていた事を私が知るのは、もうしばらくしてからの事だった。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 「健全な僕ら不健康な日常」からこちらを読ませていただきました。 あのほのぼの話から、恋の切なさとか森下さんの登場とか、翼ちゃんの記憶、家族。 本当にいろいろとありました。 まるで自分がおじさ…
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