みちると呼ばれた私の夏。
私には分からなかった。
本当に、まったくどうして、理解不能だった。
だけど、少しだけ思い当たる。
自分もこんな感じだったのだろうか、と。
この子は真っ直ぐで、直球で、素直な、正真正銘の【子供】であるのだと。
陸上部の練習はキツかった。
思っていたよりもずっと厳しかった。
けれど、それ以上に複雑な人間関係に疲れてしまっていた。中学生だった頃もそれなりに複雑だったけれど、高校生になった途端、煩わしさは格段に増していく。
自分を隠すことで精一杯だった。
おしゃべり好きで、お笑いが好きで、一つのことに集中すると周りが見えなくなったりする自分を、隠すことに必死になった。
仲良くなったグループの子達はおしゃべりがだいすきで、けれど、自己主張の激しい子ばかりが集まっていたから、それぞれ抱えている不満も多かった。
誰々は話を聞いてくれないだとか、誰々は自慢話ばかりする、誰々は空気が読めない。
一人の子が席を外す度に、みんながこぞってその子の悪口を言い出すなんて日常茶飯事だった。
自分は言われたくなくて、嫌われてしまうのが怖くて、必死に聞き役になった。
話したいことを我慢して、悪口や自慢話に相槌を打って頷く日々。
みんな俳優やアイドルに夢中で、お笑い芸人が好きだとか笑点が好きだとか、とても言えなかった。
そんななか、夢中になれることを見つけて。
入学して二ヶ月以内に入部する部活動を決めなくてはならないと言われたにも関わらず、私はたった四日で陸上部に入部を決めた。
最初は高校生活に慣れるのに必死で深く考えていなかったから、みんなが体験入部で入ると言った部活に入ることにした。だから、最初のきっかけは、陸上を始めたきっかけは、仲間はずれにされたくなかったから。
だけど、たった四日。
体験入部期間がまだ終わっていないにも関わらず、私は陸上部への入部を決意した。
そんな私に少しの驚きを見せながらも、グループのうちふたりがつられるように「私も」と同意して。
流れでグループの子全員が陸上部に入ることになった。
当時の私は嬉しかった。
自分が興味を抱いたことに、彼女達も一緒に興味を抱いてくれた、と。
夢中になって、一生懸命になって、タイムが縮まれば縮まる程に熱中していった。
先輩が言った。「がんばってるね」と。
顧問が言った。「飛び抜けて熱意がある」と。
友達が言った。「必死になりすぎてダサい」と。
その一言をきっかけに、私の世界は壊れていった。
前から思ってたけど、みちるって鈍いよね。あー分かるだってこの間も彼氏の話したらいつの間にできたのーとかビックリしてたし。反応が遅いっていうかさー、ついてこれてない感じ?それそれ。会話に入れてないよね。みちると佐伯がこの間なんか話しててー。佐伯ってあんたの好きな人じゃん。うん、そうなんだけどさ、みちるには言ってなくて。まさか佐伯とみちる、なんかあったの?いや、そうじゃないんだけどー、みちるに佐伯のことどう思うって聞いたらみちるさ、佐伯くん優しいよねーとか言ってて。うわ、こっちの気持ちに気づけよって感じ。本当。鈍感ぶってんのかな、あれ。さぁ。でもそういうの多くない?やっぱり?私も思ってた。っていうか、結城先生が好きってアタシ言ったのに結城先生に褒められてあからさまにみちる嬉しそうにするしさ。あ、それってみちるがタイム縮んだときのこと?うん。察しが悪いってマジいらつく。少しは気使えよって思うし。うわー分かる。みちるにイラっとすることよくあるもん。でしょー?わたしも前から思ってた。うちも。アタシも。
まって。
おねがい。
ちがうの。
きいて。
わたし。
わたしは。
そんなつもりじゃ──
「明日からハズさない?みちる」
綾奈ちゃん
梨香ちゃん
ゆうちゃん
春香ちゃん
まーちゃん
美枝ちゃん
おねがい。だれか、
「そうしよ」
やめよう、って言って。
ずっと頑張ってきた。
自分を出さないように、みんなに嫌われないように。
ずっとずっと努力してきた。
陸上が思った以上に楽しくて、悪い癖が出ただけなの。
陸上が一番になっちゃったのは、本当に無意識だった。
いつの間にかともだちより陸上が大切になって、その結果、私は自分で被った仮面を壊してしまった。
本当の私なんて、受け入れて貰えない。
だから、みんなに合わせて作り上げた。
グループのなかで、唯一の、みうらみちるを作り上げた。
おとなくして、話をよくきいて、こっそり相談なんか受けて、みんなの秘密をちょっとずつ握ったりなんかする、絶対的な地位。
少し気が抜けただけで、すべてが裏目に出た。
グループのみんなが私を標的にしている間、彼女達がそれぞれ私に喋った秘密は暴かれない。暴くことができない。
なぜなら私はひとりぼっちで、みんなから監視されていて、新しい友達を作ることなんて、到底出来なかったからだ。
味方なんていない。ひとりぼっちだ。
誰も、【私】なんて欲しがってない。
お母さんの口癖は「みちるは良い子ね」だった。
私が馬鹿な振りをしていれば、何にも気付かない振りをしていれば、お母さんは笑ってくれた。
お父さんじゃない男のひと。
家から出される数時間。
買ってきたハンバーグ。
増えていく、ハガキの数。
疲れきった顔のお父さん。
大声で怒鳴り合うふたり。
お父さんの口癖は「みちるの為に頑張るよ」だった。
いつの間にか私は馬鹿になった。
ううん、元から馬鹿だった。
だから、結局失敗した。
私はただなにも知らずに笑っていることに慣れてしまった。
気が付いてしまえば相手が警戒することを知っていたから、なんにも知らない振りをして、それが正しいことだと思い込んでしまった。
少しずつ、少しずつ。
自分が目覚めていく。
そんな感覚だった。
中学校への入学を機に、私はおばあちゃんの家に住むことになった。
目が覚めるようだった。
おばあちゃんと見た笑点はそれはそれは楽しくて、下らないギャグを見ると嫌なことすべてが吹っ飛んだ。
おばあちゃんの相槌が好きで、おばあちゃんとするスナップエンドウの筋取りがだいすきで、いつの間にか全部終わってしまうとおばあちゃんは「みちるちゃんがいるとはやいねぇ」と嬉しそうに笑ってくれた。
おばあちゃんがいなくなって、一人暮らしを始めて、高校へ入学して、ともだちを作って、陸上が好きになって──
それから。それから。
「汚いから立ち上がれよ。砂、すげぇついてるぞ」
つめたい。べたべたする。ざらざらする。
「いじめられてんの?」
「たぶん」
「なんで?」
「わからない、わから、ないの」
──あ、れ。
私、誰と話してる?
ぶわ、と何かが溢れた。
色が、世界が、鮮やかさが、急に戻ってきた気がした。
わたし、ここにいる。
ここにいるよ。
ねぇ、わたし、ここにいるの。
見てる。話しかけてる。男の子が。
私を、見ている。
ひさしぶりに、誰かと目があった。
ひさしぶりに、私が戻ってきた。
止まらなかった。
思いが、感情が、嬉しさが、悲しさが、すべて溢れて仕方がなかった。
気がつけは、そこは公園だった。
気がつけば、またひとりだった。
だけど、とまらない。夢だったのかもしれないと思っても涙はとまらなかった。
きもいんだよ。どんくさいなあ。部活やめれば?はやく消えろよ。なんで学校きてんの。目障りなんだけど。被害者ヅラすんな。あんたさあ。オマエさあ。てめぇ。おい。
「俺が帰ってくるまでに泣きやめって言ったのに」
海の底まで届くような、強引に引っ張り上げる声。
「みちる」
それは、確かに【わたし】の【なまえ】だった。
もう一度。もう一度。【わたし】を、呼んで。
「ハンカチとか無いんだよ。持ってる?」
「ある……」
「じゃあ使えよバカ。目、真っ赤だぞ」
「うん……」
この子は、誰だろう。
こんなに優しくしてくれているのに、私は、泣いてばかりだ。
さっき、私の前にいたのも、絶対にこの子だった。
忘れられるわけない。忘れるはずがない。
ちゃんと覚えている。
色が戻ったから、はっきりと覚えている。
真っ直ぐな視線が突き刺さる。
ゆっくり、ゆっくり、口を開く。
きいて、あのね、わたしね。
話したいことがいっぱいあって、誰かに聞いて欲しくて堪らなくて、だけど、誰も聞いてくれなくて、でも、それは、私が悪いから──
「悪いって本気で思ってんのかよ」
そんなこと。
思ってる、わけ、ないよ。
「お、思ってない……」
「だろ」
「でも、自分が悪いからって思わなきゃ、たえられない」
だってそうでしょう、じゃあ誰が悪いの、私が悪くないなら、一体、誰が悪いの。
みんなが、悪いって、きみは、そう言ってしまうの。
ダメだよ、そんなの、だめ。
だって私が失敗したから、だから、みんなは私を嫌いになって、だからあんなひどいことをして、意地悪をして、でも、いつか、分かってくれるって、信じたくて、もう長いあいだ、ずっと我慢して、きたのに
「だから言えばいいだろ。やめろって」
簡単に、きみは、言う。
言えない言えない言えない言えない言えるわけないだってだってだってだってもしかしたらもしかすると言ったらまた失敗してみんなにもっと嫌われてしまってだから
嘲笑が、うるさい。
「言えないよっ!」
振り切るように発した声に、私は目が点になった。
だけど、目の前の男の子の方がもっとびっくりしていた。
「でかい声出すなよびっくりするだろ」
「私も、びっくりした……」
こんな大きな声、はじめて。
私、こんなに声が出たんだ。
「あいつらに言えないってなんでだよ」
素直になっていく自分がいた。
「だって、言ったらもっと酷くなる」
するりと言葉が溢れてくる。
話せる。自分のこと。我慢しないで、吐き出せる。
「はあ?酷くなったらまたやめろって言えよ。やり返せよ」
「ど、どうやって?」
「かき氷ぶちまけるとか」
私の財布から出したお金で、彼女達はかき氷を買った。
そして、私に返した。
「勿体無いじゃない」
おんなじことをするなんて、絶対にありえない。
そんなことするくらいなら、おかずを一品買いたい。
ああ、食欲が湧いてくるなんて、とても懐かしい感覚だ。
お腹が、すいた。
きんぴらごぼうが、食べたい。
彼はむすっとした顔で、私を睨んでいる。
不満そうな表情に、気持ちが和らいでいく。
私のことを考えて、私の為に、怒っている。
「じゃあどうするんだよ」
「どうするって言ったって……だから、今は我慢するしか……」
「いつまで我慢すんの」
「……」
「つーか、どれくらい我慢してんの」
どれくらい、だったかな。たぶん。
「一年、くらい」
だったはず。
「長えよバカ!ほんっとバカ!」
かっと目が見開いた。悔しげな瞳が私に向かう。
馬鹿って言われて、暖かな気持ちになったのは初めてのことだった。
うん、きっと、私は馬鹿だね。
きみが言うように、馬鹿だ。
「やめろって言えよ!」
叫びが嬉しい。涙が、また出そうだ。
「言えないなら俺が言ってやる!連れて行け!」
彼は真剣だった。私には分からなかった。
本当に、まったくどうして、理解不能だった。
だけど、少しだけ思い当たる。
自分もこんな感じだったのだろうか、と。
この子は真っ直ぐで、直球で、素直な、正真正銘の【子供】であるのだと。
「笑うな」
「だって、おかしい」
「なにが」
「どうしてきみが怒るの」
いつか、私と同じ年になって。
それでもこの輝きを彼は持ったままなのだろうか。
そうだったらいいな。
そうだと嬉しいな。
そして、もし、また会えたなら。
その時、私が、沈んでしまっていたなら。
海の底まで届くような強引に引っ張り上げるその声で、きっと、きっと、私を呼んでね。
夏が来ると、思い出す。
高校二年の夏休み、公園で会った男の子──雄太のことを。
「そう言えばさあ、思い出すよね。みちるがうちらに叫んだときのこと」
「うわあ、懐かしい。アタシらも子供だったっていうか」
「本当にごめんね。今思い出すと罪悪感すごい」
「なんか、昨日のことみたいに覚えてるよ。みちるの大声」
「やめろ!って、みちるからは想像も出来ない台詞だったよね」
「そうそう。みちるに近付くの怖くなってうちらも距離置いたりしてさ」
憂鬱。同窓会なんて、やっぱり来なきゃ良かった。
大学には佐伯くんや彼女達が恋していた男の子もいるけれど、彼女達は誰ひとり大学に受からなかった。
事情は色々あれど、彼女達が居なかったおかげで私は自分を取り戻していったし、もしかすると彼女達が居たとしても、あの日を境に徐々に自分を取り戻していったかも知れない。
十五分も居なかっただろう。
彼女たちは思い出話に花を咲かせ楽しんでいるだろうから、私が居なくなったところでどうも思わないはずだ。
思い出にして、過去の大半を忘れ、印象的なことだけ覚えている彼女達に笑ってしまう。
けれど、今となっては、本当にどうでもいい。そんなことなんて忘れてしまうくらい、大切な思い出がある。
──ブサイクだぞ。砂まみれで。
また、夏が来たね。
今年もまた、あの場所に自然と足が向かってしまう。
去年も一昨年も、その前の年も欠かさずに行った。
七月二十一日。大事な日。
今年も、だめだった。
あの日と同じ時間に、訪れるようにしているけれど、一度も会えないまま。
ただ、お礼が言えたら良いの。
それだけで、いい。他は望まない。
そう思って、もう何年が過ぎてしまっただろう。
神様はきっとわかっているのだ。
私が、それだけじゃ満足しないと。
だから、会わせてくれない。
だから、きっと、会えない。
灰色になりそうだ。
段々と失っていく。鮮やかさが、失われて。
期待なんてしてはいけない。
もう、きっと、会えない。
──会いたい。
「ゆうた」
なみだが、でそうだよ。
「俺が、帰ってくる前に、泣きやめって、言っただろ」
海の底。
引っ張り上げる声。
真っ直ぐな、きみの瞳。
夏が来ると、思い出す。
出会った日のこと、再会した日のこと──思い出に溢れたあの公園で、きみと過ごした愛しい時間を。