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残響

 小さいころから、大人しいと称されるような子供だった。ひとり遊びがうまかったし、比較的もの覚えがよかったからだろう。

 大人しい、という言葉は中学生になるころには、暗い、と言い替えられるようになって、それを受ける私はすなわち排斥の対象だった。表立った嫌がらせを受けることはなく、かといってクラスメイトの輪に入りこめるわけでもなく、やがて教室の隅で本のページをめくっていることが私の日課に変わった。誰も私のことを知らないし、私もまた、誰のことも知らなかった。

 両親は物心つくころには家にいなかった。貿易業に携わり海外勤めをしているのだと理解したのは数年前のこと。それまでは兄がたったひとりの私の家族で、私の支えだった。

 長良彰彦ながらあきひこ。歳の離れた、私のお兄ちゃん。

 大学のお友だちを家に連れてきては私を見せびらかし、どうだ可愛いだろうとにんまり笑っているような人だった。それがいつからのことだったのかはよく憶えていないけれど、私が受験を控えるようになるつい最近まで続いていたことは確かだった。今考えれば、それは二人しかいないこの家を少しでも賑やかにしようという兄なりの心遣いだったのだろう。

 兄が地元の大学に進学したのも、遠くの大学院へ行くことを選ばなかったのも、家に私一人を残さないためだった。お友だちはたくさんいたようだし、彼女を作っていた様子もあったけれど、朝帰りをするようなことは決してなかった。楽しむべきことも全て投げ捨てて、私のために生きていた。

 そして、兄は。――私のために、死んだのだ。


     *


 気が付けば、空は明るくなっていた。

 薄い青に滲む藍色を眺めながら、私はふらふらと体を起こす。病人服がしっくりと身に合っている一方で、ひとりで眠れるようになってから数年、使い慣れていたはずのベッドは、今や他人のもののように冷えきっていた。

 壁にかかったままの時計が示すのは午前六時。三時間と寝ていなかったことに気付いて目をしばたかせた。緊張しているのだろうと結論づけてカーペットに足を下ろす。晒された素足が冷気にしびれた。

 住所の通りに歩いて、この家に行き着いたのは午後二時を過ぎたころだった。

 棒になった足を引きずりながら辿りついた自宅を見て、私はああと声を漏らしただけだった。それが帰るべき場所だったのか、行くべき場所だったのか、私には見当がつかなくなっていたのだ。

 玄関の扉には鍵がかかっていなかった。郵便受けには私の名を指した郵便物が雪をかぶったままで積み重なっており、その中に挟まった担任の先生からの手紙を見つけて、私は少し、泣いた。

「……着替えよう」

 服の襟に手をかけてボタンを外していく。もう病人服を着ている意味もない。クローゼットの中の服は一様に埃をかぶっていたけれど、軽く叩き落とせば汚れはなかった。手早く着替え、部屋を抜け出す。

 博士はリビングの一席に陣取っていた。その机の上には両手で足りないほどの手紙が折り重なっている。彼はその中から一通ずつ封を切っては中身に目を通し、机の端へ放り投げてをくり返していた。

「あの」

 ためらいがちに声をかけると、返事の代わりに一通の封筒を寄越される。

 滲んだインクをかろうじて読み取ると、それは叔母夫婦から私に宛てられた手紙のようだった。博士も読むことを躊躇したのだろう、口には固く封がされたままだ。一度濡れたものを乾かされたのか、封筒には大きなしわが寄っており、傷つけないように手紙を取りだすのに苦労した。

 手紙の字はところどころ滲んでいたけれど、読むのに支障はない。文面は私の身と心を案じ、手紙を出すのが遅れたことを謝るところから始まっていた。葬式と納骨は身内で挙げておいたこと、保険金は父名義の口座に降りていることをこまごまと記し、家に帰り次第必ず連絡をするようにという内容で閉じられている。

 あれと思って読み返す。どうやら私は、入院していた病院から失踪したと周囲に伝えられているようだった。

 かいつまんで博士にそれを伝えると、彼はこれ以上ないというほどに顔をしかめた。クソが、と低く毒づいて、また手紙を漁る作業に戻ってしまう。その苛立ちの矛先が分からない私は、彼を刺激しないように隣に座ることしかできなかった。

 博士は最後の一通を読み終えると、それを机に叩きつける。しばらくして大きく息をついた。それは怒りをこらえているようにも見えた。

「博士、あの」

 睨むような視線が向けられた。叔母夫婦からの手紙を握りしめて、私は唾を飲みこむ。

「お墓、に。行きたいんです」

 瞬く間に彼の額にしわが寄る。見ないふりをして頭を下げた。

「ごめんなさい、これで本当に最後です。あとはなんでも、言うことを聞きます」

 博士はなにかを言いかけたが、口をつぐむ。そのまま目をそらした。

 許されたのだろうかと首をかしげた私の前に、けれど彼は二錠のカプセル剤を置く。そのことに落胆しかけて、飲み続けてきたカプセルと色が違うことに気がついた。

「これは?」

「行きたいなら飲め。飲めないなら聞かん」

 木製のテーブルの上を、二錠のカプセル薬が転がる。両手ですくい取ってそれを見つめた。同じ目で、博士が私を見据えている。

 それがいつもと同じ薬であったとしても、ただのビタミン剤であったとしても、私はそれを飲むしかないのだ。小走りで対面式のキッチンから水を汲んでくると、私は博士の目の前で一気に薬をあおった。冷水が口内を冷やし、前歯の付け根をじんと震わせる。薬が流されていくのを感じ取れたのは喉を通り抜けるところまでだった。

 息を止めて待つ。数十秒が過ぎても、数分が過ぎても、痛みは襲ってこない。硬い表情のまま顔を上げる。

 博士は小さく鼻を鳴らして、椅子から立ちあがった。


   *


 両親が半年ぶりの長期休暇を得て家に帰ってきたのは、私が中学二年の冬休みを迎えたころだった。

 せっかく帰ってきたのだから羽を伸ばしてほしい。けれど沢山、話を聞いてほしい。隠れるようにしながらふたりの様子を伺っていた私を気遣って、家族全員で旅行に出かけることを提案したのも兄だった。

 一も二もなく賛成した両親も、口をつぐむきりだった私との会話のきっかけを欲していたのだろう。ふたりは特別子供に甘いわけでも、厳しいわけでもない人たちだったし、仕事で相手にしているのは重役に就く大人ばかりだったから、私との距離を測りかねていたのかもしれない。そのぶん、兄は緩衝材としての自分の役割をよく理解しているようでもあった。

 天気はあいにくの雪。ほとんどドライブと変わらない、その上外は真っ白に染まってばかりの旅行。それでも車の中は、不思議な温かさに包まれていた。

 きらめくような世界の美しさと、途方もない広さ、そのどこにも人が住んでいることへの驚き――そんな体験を、両親は代わる代わる話していった。その話を聞くのが楽しかった。だから「愛里はどうだった」と話を振られるたびに私は答えに窮し、愛想笑いを浮かべて「普通だよ」と答えては、膝元に置いた両手をきつく握り締めていた。父も母も残念そうだったけれど、一方でほっとした様子でいたのも憶えている。

「お兄ちゃん」

 辿りついたパーキングエリアで、お手洗いに立った両親を見送る。残された車の中で、私は隣に座っていた兄の服の裾をつかんでいた。

「ごめんね」

 大きな声を出すのは苦手だったし、誰かと一緒に笑うことは怖かった。自分の話をすることは、他人の時間を奪っているようで申しわけなかった。そうやっていつもひとりきりでいることも、兄だけに縋って生きていることも、それを両親に伝えられないことも、兄だけが知っていた。兄だけしか知らなかった。

 んー、と兄は考えるように唸ってから、私の頭を撫でてくれた。どんな言葉も私に優しくすることはできなかっただろうけれど、その手だけは包みこむように温かかった。この人が守ってくれるから、生きていけるのだろうと思った。

 踏切に捕まったのはその帰り道だ。

 電車はいつまで経っても姿を見せなかった。待つ車の数は次第に増え、やがて渋滞を巻き起こすほどになった。かんかんと頭を揺らすように鳴り響く音が人々の苛立ちを煽る。中にはクラクションを鳴らす車もあった。

 遠回りしようか、父が困り顔をして頭を掻いたそのとき、私は悲鳴のような音を聞く。

 それは雪の降る日だった。

 きっかけは些細なことだったのだろう。猛スピードで走ってきた電車はレールを外れ、運転手の操るブレーキも凍った路面の上では意味を為さなかった。悲鳴とも金属音とも取れない音が耳をつんざく。目の前に迫った車両と、その奥の恐怖に染まった顔に、私は目を見開いたまま竦んでいた。

 愛里、と。

 名前を叫ぶ声が聞こえるまでは。

 突如、それまで寄りかかっていたドアが開き、私は投げ出されるようにして歩道に転がった。全身がアスファルトに叩きつけられる衝撃に歯を食いしばって耐える。見れば足に、腕に、いくつもの切り傷が作られ、血が筋となって流れ出していた。痛みに泣きだしそうになりながら顔を上げる、その先を見て、私は流れかけていた涙を止める。

 車から私を押し出した手が一本。原形をとどめないほどにひしゃげて、路面に転がっていた。

 それからすぐ、サイレンの音が耳を叩いた。運ばれた先はまるで独房だった。

 死にたかった。死んでしまいたかった。他人に縋りついて生きてきた私がまだ息をしているのは、ただの拷問でしかないと思った。けれど私はひとりでは首を吊ることも、胸に刃物を突き立てることも、高所から飛び降りることさえできない臆病者だった。

 そうして私は魔法使いに出会う。

 願ってごらんと彼は言った。あとは全て俺が叶えてあげるから。どんなものもただ一度願うだけで、きみに与えられるだろう。だからただ望めばいい。整った字の契約書を差しだして、白衣をまとった魔法使いは囁く。

 私は首を振って呟いた。

 そんなものは要らない。兄に会いたい。叶わないなら殺してくださいと。

「それじゃあ、きみを地獄へご案内」

 気取った動作で一礼し、魔法使いが朗らかに笑う。

 ――やがて目覚める始まりの部屋。私の頭に、事故の記憶はなかった。


   *


 長良家之墓とだけ刻まれた墓石は、墓所の隅にひっそりと佇んでいた。

 お葬式も、納骨も、私の知らない間に行われてしまっていた。それどころかひとり病院から姿を消したのだから、残された親戚間では、私はさぞ親不孝な娘だと思われていることだろう。もしくは、一人残されたあげくに心を病んだのだと口さがなく噂を立てられていたのだろうか。

 冬の盛りに早朝から墓参りをする影はどこにもない。昨晩のうちに積もっていた雪の上にしゃがみこんで、私は片手で墓石の上を払った。

「お父さん、お母さん、……お兄ちゃん、ごめんなさい。ただいま」

 ちっぽけだと思った。

 三つの命を懐に納めているはずなのに、墓標は雪に埋もれてしまうほどに小さく寂しい。彼らはここにはいなくて、あの事故現場で塵と化して消えてしまったのだと言われた方が、まだ現実味が持てるような気がした。

 両手に抱える花はない。線香もない。数珠もない。

 身一つで会いに来た私を、馬鹿な子だと笑ってほしかった。

「私、一緒に……一緒に、行きたかったんだよ。どうして残されたんだ、って、意地悪だって」

 広い世界を持っていた両親と、誰をも幸せにする兄がいて、それでも私だけが取り残されたのは、やはり私の出来が悪いからなのだろうと思っていた。多才な兄とどんくさい妹。最後の最後に彼は裏切って、私ひとりを残して、死んでしまった。

 ああ、違う、そうじゃなかった。私は死に損なったのでも、死にきれなかったのでもない。

 生かされたのだ。

 気付きたくなかった。目をそむけていたかった。自分が生かされたことを知った瞬間、私は私の価値をはかろうとしてしまうから。命の重さが等価だなんて、きれいな言葉を信じられなかったから、天秤はいつだって彼らのほうに傾くはずだった。

 けれど刈り取られる三つ分の命から、私は意図的に押し出された。――あの優しさが、私を生かしたのだ。

「ごめんね、ごめんなさい、お兄ちゃん、でも私」

 嗚咽を飲みこむ。は、と息を吐き出した。鼻の奥ががつんとする。

「もう……死にたいって思えないの」

 死にたくない、は、生きたい、を、示さない。

 それは進歩ではなかった。ただの変化でしかなかった。私が私でなくなった、その証でしか。

 ――足音。墓所の近くで足を止めていたはずの博士が、雪を踏んでやってくる。もう時間が近いのだ。私は鼻をすすり、目元をぬぐって手を合わせる。

「おやすみなさい」

 いい夢をと願うことは皮肉だった。

 長くついたひと呼吸を区切りにして立ちあがる。足に疲れがたまっているのか、膝を伸ばした瞬間に体はよろめいた。ふり返った先の博士は、数秒だけ墓石に目をやってから私を見下ろす。

「長良愛里」

 それは紛れもない私の名だ。はい、と答えて、うつむいた。

 施設に戻ったあと、私はきっと責を受ける。その矛先は博士にも向けられているのだろう。契約違反とはいかないまでも、腕輪を捨てて施設を離れたのだ。昨晩言った通りに彼は私の担当から外され、私も新たな科学者と一緒に実験を行うようになるのかもしれない。

 しばらくの沈黙が降りた。怪訝に思って博士を見上げると、彼は左手の簡素な腕時計で時間を確認しているところだった。

「夜のうちに迎えを呼んだ。そろそろ車が到着するだろう」

 何の、と問う必要もなかった。

 あの部屋に帰る。そうして二日や三日に一度、薬を飲んで眠るだけの毎日を送るだけのことだ。

 私の世界は狭く閉じていた。ひとつの小さな部屋に安寧を感じ、日差しの下の自由を望もうとは思わないほどに。だからこれは当然の帰結であり、私が受け入れたことだった。

 遠くに車のブレーキ音を聞いた。腕時計を下ろした博士が私を一瞥する。

「時間だ。最期にひとつ、俺からの質問をくれてやる」

 それは、ほんの気まぐれだったのだろう。

「――生きたいか、否か。答えはふたつ。結果はひとつだ」

「…………あ」

 顔がくしゃりと歪むのを、感じた。

 なぜ、今、よりにもよって今、ここで、そんなことを訊こうというのか。死にたくないと呟いた墓石の前で、その意志を問うのか。

 ぐらりと視界が揺れる。追い詰められた思考のせいだろうかと考えて、すぐに違うと気付いた。それはいつかの夢から目を覚ますときと同じ――落下へのシグナルだ。体を丸ごと包みこむような猛烈な眠気が私に襲いかかる。

 答えなければと口を開く。最後、本当にこれが最後なのだから。

「博士、私は、あなたと」

 体が重い。意志だけではどうにもならないほどの倦怠感がのしかかって、体のバランスを取ることすら難しくなる。暗闇に融けそうになる意識の狭間で、今朝飲んだ薬が睡眠薬であった可能性に思い至った。

 けれど、それを飲ませる必要がどこにあったというのか。あの部屋に帰るだけなら、私は眠らずとも抵抗なく車に乗っている。私に歯向かう意志のないことを博士も知っているはずだ。

 どうしてと目で問う。変わらない博士の無表情が、ほんの少しだけ歪んだ気がした。

「……は、か」

 落ちる。

 底のない暗闇。光のない夢の中。もう私には思い出す記憶もないのに、眠りが邪魔をする。

「時間切れだな」

 それが、博士の声を最後に聞いた一瞬だった。

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