泡沫の濃青
呼び起こす声を聞かなくなったのはいつからだろう。
私は眠りの浅いほうであったから、目覚まし時計が鳴れば数秒と経たずに飛び起きる便利な体を持っていた。眠ることが怖いのか、夢に沈んだ記憶を掘り起こそうとしているのか、もしくはその両方だったのか。投薬実験が繰り返されて活動できる時間がすり減っていっても、私の体は深く眠るということをしなかった。質より量を選んだ体が睡眠時間を伸ばしていくのは当然のことだった。
整合性の取れない過去の映像が、今も少しずつ私の中に沁みこんでくる。構築されていく記憶は紛れもなく私が体験してきたものだ。噛み合わないピース、欠けたピースも、やがて戻ってくるのだろうという確信があった。半狂乱になるほどの記憶は全てあの踏切の前で流れこんできてしまったから、今の私に帰ってくるのは、かつて過ごした静かで穏やかな日々だけだった。
そっと目を開く。癖で確認した時刻は午後十一時を過ぎたところだった。顔を動かせば、壁際の椅子に博士が座っている。彼が部屋にいる代わりに、担当に付けられていたはずの青年の姿はどこにも見えない。原因は私だろうか、と思いながら体を起こす。
「教えて下さい」
私の第一声を、博士は無言で聞いていた。
「博士、言いましたよね。兄がいるかって。あなたは、なにを知っているんですか」
形成されていく風景に、足りないものは人の記憶だった。
教室の中に立つ自分、居間で食事を摂る自分、車の後部座席に座った自分。その光景と自分の姿だけは思い浮かべることができるのに、そこにいた誰かの姿がまだ思い出せない。
「私に、兄が、いたとして。博士はどうしてそれを」
言いきることはできなかった。博士が遮るように立ちあがったからだ。私は静止の声を上げるけれど、彼が聞きいれることはない。思い出したようにぱたんと扉が閉められて、呆然とした私だけが残される。出ていった彼が戻ってくる保証はどこにもなかった。
消沈してうつむく。そのとき小さな物音がして、私は床のほうへ目を向けた。博士のファイルからすべり落ちたのか、そこには一枚の資料が残っていた。
「長良、愛里……」
記された名は自分のものだ。上部には年齢、性別、と簡単なデータが記されている。そのまま下のほうへ目を滑らせて、私は危うくその資料を取り落としそうになった。
家族構成。戸籍。住所。祖父母まで掲げられた名前のリスト。
取りこぼしなく詳細に書かれたそれらを、誰が調べ、記したのかは定かではない。しかしそれが虚偽のないものであることは、まだ曖昧なままの記憶が証明していた。指で追いながら最後の一文にまで目を通して、私は長く長く息を吐き出す。
長良秀彰、長良智里、そして、長良彰彦。その名前は、もう他人のものではない。
行かなければいけない、と思った。
資料を折りたたんで病人服のポケットに押しこむ。勢いのままに部屋の扉を開いて、誰もいない廊下を走った。そうして透明な壁の扉に手を置いた私は目を瞠る。かけられているはずの鍵が外されているのだ。
いったい誰が、どうして。考えかけて首を振った。迷っている暇はない。たとえ扉が固く閉じられていたとして、私は体当たりをしてでもここを出ようとしていたのだから。それが罠であったとしても、飛びこむしかなかった。
壁を抜け、降りてきたエレベーターに乗って地上を目指す。到着音が鳴るまでの時間はひどく苦痛だった。その扉が二度目に開かれた瞬間に足を動かして、私は頭にある道順のままに建物を出た。
外には雪が降っていた。
薄着で出てきたことを思い出して身を震わせたけれど、今さら部屋に戻れはしない。科学者や黒服の男たちに捕まればそれで終わりだ。左腕に嵌まった発信機は、今も彼らに私の脱走を知らせ続けているのだろう。いつまでもここに留まってはいられない。
走り出す。地理に自信はないけれど、まっすぐに進んでいけば踏切があることだけは知っていた。そこには当然線路が走っているのだ。外れないように伝っていけばいつかは駅が見つかるだろう。そうすれば最低限、自分のいる場所を明らかにすることができる。
この研究区画を抜けさえすれば、どこにでも人はいる。あとはヒッチハイクでもいい、身一つで走っていってもいい。一文一銭身につけていない私ではどこまで行けるかわからないけれど、他に方法がなければそうするしか方法がないのだ。透明の扉に鍵がかけられていなかったという、これからあるかどうかも知れない、たった一度の偶然に賭けるしか。無謀なことに意志だけは固かった。
体が重い。久しく運動を忘れていた体は、走り方も覚えてはいないようだった。すぐに息が切れてしまうけれど、足を止めることはすなわち諦めることを示していた。退路は断たれている。行くしかない。
差し掛かった踏切を、逡巡の後に左折する。
背中に怒号を聞いた気がした。私を追っているのだろうか。ふり返る勇気も、気力もなかった。右足で地面を蹴り、左足を伸ばして、今度はその左足で地面を蹴る、そのくり返し。不安定な呼吸、不格好な走り方で、私は走るしかなかった。重力が、雪が、細い足が、なにもかもが恨めしくなって、呪うような気持ちで腕を振る。
ふいに町が無音になった。背後から聞こえていた声も、足音も、なにもかもが一掃されたかのように消えうせる。あれ、と思って、足を止める。――止めてしまった。
「……っ!?」
ぐい、と横合いから腕を引かれた。疲弊していた私の足は咄嗟に踏ん張ることもできず、地面に引き倒されるようにして路地へと連れこまれる。視界の端で白衣をとらえた瞬間、私はその手から逃れようと身をよじった。
「放してください! 行かなきゃいけないんです、私は……!」
連れ返されることへの恐怖ではなく、どこにも行けないことへの恐怖だった。じたばたと体を暴れさせながら、自分にまだそれほどの力があったのかと驚いていた。
相手は科学者だ。黒服の男でないのなら、そこに拳銃がないのなら逃げられるかもしれない、と思った。けれど私の手首を掴んだ大きな手のひらには思いのほか力がこもっていて、子供である私の抵抗ではかなわない。
たとえ腕が折れても、外れても、行かなければならない。反対側に体重をかける。自分でも意味を取れないようなことを喚きながら、足を蹴りだそうとする。
「黙れ」
――意志を折るような叱責と、声、だった。
科学者の顔を見る。忌々しそうに眉間にしわを寄せた博士が、雪をかぶって立っていた。
理解してしまった途端に、私の体からは力が抜けていった。持ち主が動きを止めるのを待っていたとばかりに体じゅうに鈍痛が走り、私はようやく限界の寸前まで自分を追い詰めていたことを思い知る。それでも、限界を超えようとでもしなければ、私は目指す場所へは辿りつけないのだ。
「……お願いします、博士……」
頬を伝ったものが涙なのか、火照った体で溶けた雪の粒なのか、わからなかった。握られたままの腕をぶらりと垂らして懇願する。単なる甘えた子供の我儘。言うなればそれだけの願いを、私は何度叶えてもらってきたのだろう。
逃げ出してしまったから、もう私は被験者ではない。博士に頼みごとをする資格もないのだ。以前目にしたように黒服の男を呼ばれ、そしてどこかへ連れて行かれる。実験よりも恐ろしい目に合うようなことがあるのだろうかと頭の隅で考えた。
私の左手。痕が付くほどに強く握られたそこに、博士は空いた左手を近づける。正確にはその中のカードを。
場違いな電子音が鳴った。
博士はあっけらかんと外れた腕輪を放り投げる。痛いほどの力で握られていた腕が落ちた。
「我儘はこれが最後だ。長良愛里、お前は家を見に行く。それだけだ。明日からは施設に戻って、また実験を始める。当然俺も担当から外されるだろうがな」
「……博士、」
「お前の返事は関係ない。これは決定事項だ」
彼は抱えていたコートを差し出した。
やけに見覚えがある、と思ったのは、それが広瀬さんの着ていたベージュのトレンチコートだったからだ。戸惑う私に押しつけるようにして受け取らせると、博士はそれきりなにも言わずに歩いて行ってしまう。方向は実験施設とは反対だった。私はコートを羽織るだけ羽織って、彼を追いかける。
踏切を左折した私の判断は正しかったらしい。ほどなく見えてきた駅の構内に、まばらに人が歩いているのを見てほっとする。博士のお金で近い電車に乗りこむと、すぐに発車のメロディが流れた。
規則正しく枕木を踏む電車の中に、乗客は数えるほどしかいない。二十代後半、もしくは三十代前半の白衣の男と、男物のコートを羽織った中学生ほどの少女という組み合わせはどうしても人目を引くようだった。最初こそ奇異の視線がちらちらと寄越されていたけれど、乗り降りのない電車の中ではそれも次第になくなっていった。誰もがなんらかの事情や人生を抱えていることを、どの乗客たちも心得ているのだ。
がたん、ごとん、と振動する電車に眠気が誘われる。意識を保つために首を振った。
「透明な扉の鍵。開いてました」
「……それが?」
「博士、ですよね」
質問である必要もない。それは確認でしかなかった。
博士は否定も肯定もせず、目をそらしただけだった。もうなにも喋ってはくれないのだろう、と私は諦めて窓を眺める。暗がりに沈んだ町並みが表れては消えていき、またひとつ無人の駅を通り過ぎた。
私たちが目指す駅は終点だ。乗客に乗る誰もが同じ駅に向かっているのだろう、几帳面に無人の駅に留まるたびに、電車は乗り降りのないまま発車のメロディを鳴らしていた。各駅停車のこの電車では、辿りつくまで二時間近くはかかることだろう。
私が沈黙を持て余していたとき、博士がふいに口を開いた。
「長良彰彦とは、大学院で知り合った」
ひとりごとのようにも取れる声で、ぽつりと。私がなにも言わなければそれまでと思っていたのだろう、彼の目は誰もいない向かいの椅子を見つめていた。
「……お友だち、だったんですか?」
「ただの同期だ」
腐れ縁の相手のことを語るように、博士はいくらか苦い顔をしていた。彼でもこんな表情をするのだと驚きながら、私は彼の低い声に耳を澄ましていた。
「お人好しで、煩わしかった。医者になると言っていた。衛生兵になると妹が心配するんだそうだ。まとわりついてきては妹が妹がと煩かった」
「妹……」
「名前は知らん。奴が言っていた気もするが、忘れた」
興味のないことには一切の注意を払わないのだ。博士らしくもなく饒舌に、博士らしいことを言うものだから、私は唇に笑みが浮かんでしまうのをこらえられなかった。気付かれないようにともごもごと噛み殺す。
「博士は、何になりたかったんですか?」
思いついて尋ねた。子供の頃でも、大学院生のころでも。その答えはいつのものでもよかった。私は自分が何者にもなれないことを知っていたから、誰かの言葉に耳を傾けていたかったのだ。けれど博士は考えることもなく、「忘れたな」と言って、それきり黙りこむ。
何かになりたいと、思わなくても。人はいつかなにかに変わってしまうのだと思った。
電車に乗りこんでから八つめの駅名を、穏やかな声の電子アナウンスが告げる。扉が開いて、閉じて、また電車は進み始めた。うつらうつらと揺れた私の頭が博士の肩に当たって、苛立ったような気配が伝わる。反射で謝った声は、けれど自分の声だというのに遠いもののように聞こえた。
煙のような眠気が私を包んで、頭を重くする。
「…………ん」
次に目を覚ましたとき、通り過ぎた駅の名前は、先の駅から十と少し先のものだった。
私が起きたことに気付くや否や博士が煩わしそうに肩を揺らす。それまで彼に寄りかかって眠っていたことに気付いて、私は急いで体を起こした。
「ごめんなさい」
謝ったときにはそっぽを向かれている。気恥ずかしくなって窓の外に目を向けると、もう雪は止んでいた。私の頭や肩を濡らしていた雪も、車内の暖房によってすっかり乾いてしまっている。
――終点、終点。
アナウンスがそう告げると、まどろんでいた乗客たちがそれぞれに荷物を取り上げて立ちあがった。長身を椅子から立ちあがらせた博士がちらと私を見るので、私もそそくさと身を整えて腰を上げる。
私たちが乗ってきた電車は終電であったらしい。走行中に日付をまたいだその電車が寂しげに車両基地に向かうのを見送って、先を行ってしまった博士を追う。駅の構内を照らすのは疲れたように光を放つ蛍光灯のみで、その病的な光は時代に追いつけなかった寂寥感を醸し出していた。
目覚めたばかりの目に夜風が染みる。ごしごしと目元をこすって顔を上げた。ポケットに入れたままだった資料を取り出して、町の名前を確認する。最寄駅はここで間違いなかった。
住所を確認しながら、ふと思い当たって博士の顔を仰ぐ。なにか言いたいことでも、と見下ろしてくる彼をじっと見つめてから、私はなにも言わずに視線を戻し、資料を畳んだ。その資料一枚、落としたのが意図的であろうとなかろうと、もうどうでもいいことだ。
冷えこんだ息を吸いこむと、頭が冴え冴えとするようだった。胸の奥が震えているのを意識して、それをあえて受け入れる。
終着点が、近づいていた。