延長線上の冷酷
博士の言葉の意味を考えながら、私はベッドに横になっていた。
アナログの壁時計の針は滑らかに動くばかりで音を立てない。そのため、私が指先一本動かさなければ部屋は沈黙に包まれる。無音は落ち着かないものであったから、私はときおり意味もなく寝がえりをうちながら、はかりかねる博士の思惑に考えをめぐらせていた。
昨日、部屋に送り届けられてから、私は水底に沈むように眠りに落ちた。目を覚ましたときにはもう日付をまたいでいて、時計の表示は午前六時を示していた。
活動できる時間が減っている。それをはっきりと自覚した。昨日の私が長い眠りに着いていたのは外を出歩いたからだとしても、一か月前に比べて睡眠時間が増えたのは確かなことだった。
このまま起きていられる時間が減っていけば、いずれ私はこのベッドの上で目を覚まさなくなるかもしれない。そんなやくたいのないことを考え、それからまた博士の言葉を思い出して、私はただ時間が過ぎるのを待っていた。
扉が開かれたのは午前七時半。
私が目を覚ましているのに気付いて、「早いねえ」と青年は笑った。
「ちゃんと話をするのは初めまして。お目にかかるのは二度目、いや三度目かな。おはよう、愛里ちゃん。気分はどう?」
つらつらと挨拶をしたのは見覚えのある青年だった。私ははっとして体を起こし、しわのよっていた病人服を撫でつける。気にしなくていいよ、と笑いながら、彼は片手で抱えていた朝食のトレイをベッド脇の机に下ろしてにこりと笑った。
「今日からきみの管理をします、広瀬一哉です。これからよろしくね」
「よろしく、お願いします」
勢いに呑まれそうになりながら頭を下げると、彼はふんふんとうなずいた。
「なにか気にかかっていることはある? 今回の引き継ぎに関して、不安なこと、わからないこと。俺個人への質問でもいいよ」
博士はどこへ。その質問が浮かびあがったけれど、すぐにもやになって消えていった。他の被験者に配属されたか、研究に専念することになったのだろう。彼のような科学者が首を切られたとは考えにくい。
代わりに「広瀬さん、でいいですか?」と尋ねた。彼は不意をつかれたような表情をして、それから笑う。嫌味のない笑顔だった。
「いいよ、お好きにどうぞ。広瀬さん、一哉さん、呼び捨て、カズくん、お兄ちゃん。最後のは可愛らしくていいと思うけど、ちょっと犯罪臭がするね」
人好きのする性格だ、と思った。終始にこにこと笑っているけれど、決して媚びを売るようではない。会話をするときは人の目を見る。するりと懐に入られても気付かないだろう掴みどころのなさが、そのまま彼のフットワークの軽さを示しているようだった。それは愛想を良くすることも、自分を取り繕うこともしなかった博士とは正反対で、私は身を引きそうになる。屈託なく話しかけられると気後れがするのだ。
「他には? どんなことでもいいよ、きみみたいな子にストレスを与えないようにって言われてるしね。前任の奴の名前でも教えようか、どうせ教えてないでしょう、あいつのことだし」
悩んだ、けれど、首を振った。
彼は博士で、それ以外の誰でもなかった。私の名前が本当に長良愛里であるのか、わたし自身にも分からないように。例え彼の本名がアレキサンダーであったり、ナポレオンであったり、大五郎であったり、ただの番号であったりしても、私はああそうですかと受け入れていただろう。それでも彼を博士と呼ぶことに変わりはないのだ。
広瀬さんは「そう」と簡単に引き下がり、小脇に抱えていたファイルをようやく胸元に置いて、なにごとか書きつけた。
「実験は明日にしようか。まずは俺に慣れてもらわないとね」
言って、彼は部屋の中身に目を走らせる。隅に置かれた衣糧ボックスと洗濯かご、ベッド際の机に散乱するハードカバーの本と、デジタル式の目覚まし時計。壁には日付が丸でくくられたカレンダー。あとは私がここで目を覚ましたときと同じ状態のまま保たれている。まばたきをくり返しながら、広瀬さんは不思議そうな顔をしていた。
「欲しいものはないの? 服とか、化粧品とか」
「見る人、いないです」
「それもそうか。じゃあ音楽、テレビはどうかな」
考えたこともなかった、と伝えると、広瀬さんは目をしばたかせる。驚いたように、そうかあ、と呟いた。
「女の子にしては欲がないっていうか。記憶喪失なんだっけ? 確かに、なにが好きだったかってことも分からないんじゃ欲しがりようもないかな」
そうなのだろうかと首をひねる。それから彼が、以前どことも知らない場所に連れて行かれた安井という名の男の人を担当していたことを思い出した。博士が指摘したことが確かであるなら、彼は私とは違って被験者の権限を自由に用いていたのだ。それに引き比べれば、必要最低限にも足りないものばかりを揃えた私の部屋はひどく殺風景に見えたのだろう。
とはいえ、自分が口にした内容に大きな意味を見出すような人ではないらしい。広瀬さんは束の間考えるそぶりを見せて、手を叩いた。名案を思いついたとばかりにぱっと顔を明るくする。
「外に出ようか。窮屈だよね、ここ」
「いいんですか?」
「俺がいればね。昨日だって外出したんでしょう? 気分転換になるし、適度な運動はいいことだと思うよ」
医者のようなことを言う。どうしようと考えてからうなずいた。積極的に外出したい理由があるわけではないけれど、その申し出を断る理由もないのだった。
食事を終わらせてからにしようか、とほほ笑んで、彼はパイプ椅子に腰を下ろす。湯気を立てているトレイの中身は博士が運んでいたものとほとんど変わらなかった。被験者からの特別な指定がないかぎり、施設の誰かが一括して調理しているのだろう。
いつもの通りに少しずつ口に運び、咀嚼して、飲みこむ。食事に対して、以前のような嫌悪感はもう起こらない。広瀬さんはそんな私の様子を、水槽の魚に向けるような目で見つめていた。
*
寒くないかな、と問う声に、「大丈夫です」と答えた。
昨日と同じコートを渡されて、私はふたたび同じ道のりを歩いている。そこに人通りはない。閑静な空気、不気味なほどの静寂が町並みを覆っていた。
あれはうちと提携している研究所、あれは私設だね、と言いながら広瀬さんは建物を指さしていくけれども、その違いは私にはよくわからなかった。子供に振る話題ではなかったと判断したのだろう、彼はやがて話を変えた。
「愛里ちゃんは何になりたいの?」
「何に……」
「うん。先生だとか、花屋さんだとか。お嫁さんっていうのは女の子らしいけど、きみぐらいの子だと幼稚に見えるのかな」
何かになることを、私は許されているのだろうか。
運よく生き伸びているだけで、私はいつあの部屋で目覚めなくなってもおかしくない人間だ。人体を用いている以上は被験体もそうそう代えが効く対象ではないから、すぐに使い物にならなくなることを避けるために、薬剤の種類や量を調整しているだけのことなのだろう。私が服用しているのは軽度のものだという類のことを、博士が口にしていたのを覚えている。
生きているかぎり私はあの部屋に残って、被験者として暮らしていくのだろうと思っていた。だから質問への答えは簡単には浮かばない。場を濁すように、問いを発するのが精一杯だった。
「広瀬さんは、どうして科学者になったんですか」
尋ね返されるとは思わなかったのか、彼は息を詰めた。そうだねえとあごに指をやる。
「生きていくため、お金を得るため、それはもちろん。俺自身薬学に興味があって、大学で専攻していたっていうのもあるけど、愛里ちゃんが訊きたいのはそういうことじゃないよね」
うなずかないまま曖昧にする。もともと意図があって尋ねたわけではないのだ。視線から逃げるように目をそらすと、広瀬さんは追及もせずにそらを見る。けれど別段そこになにかを見ているわけではないようだった。
足音だけが続いて、いくらか経ったころに、彼は深く息を吐きだした。
「……苦しまなくていいから、かなあ」
聞き覚えのある声色は、私が会話を盗み聞きしたときと同じものだった。――精巧かつ繊細に作られた細工の中身が、その実ひとかけらの粘土にすぎないことを暴くような、声。
「好きなことを研究して、実験していれば、それだけでお金はもらえる。大した責任も負わされない。知らない誰かが苦しんでいようが俺には関係なかったから、実験を管理することも特に苦じゃないし。そう、楽だったからかな。参考になった?」
小首をかしげて、彼は尋ねる。私はひととき言葉を失った。
性格の裏表ではない。彼の冷酷さはあくまでも無邪気さの延長にあるのだ。その点において、彼は笑顔も、言葉も、偽る必要はない。つまりは彼もまた科学者なのであり、実験を管理する立場にいる人間なのだった。それを失念していたのは私のほうだ。
うすら寒さを感じて視線を落とす。無言は答えにならなかっただろうけれど、広瀬さんはふたたび前を向いて歩き出してしまった。
また少し進んだところで、あ、と思う。
博士が踏みとどまった道を、彼はさも当然というように越えていったのだ。思わず立ちすくんでしまった私に気付いた広瀬さんが「どうしたの?」と振り返る。ごめんなさい、なんでもありません、胸によぎった戸惑いを表に出さないように彼に続くと、やがて目の前に踏切が見えてきた。
かんかんと鳴り響く、悲鳴のような音が耳をつんざく。黄と黒の縞模様が私の目を捉えたその途端、心臓がひとつ、音を立てて鳴った。
「…………あ、あ」
「愛里ちゃん?」
怪訝そうな顔が向けられる。けれど私にはもう、それに答える余裕がなかった。
湧き起こる、猛烈な頭痛と、吐き気。鉄の棒で頭の中をかきまわされるような。痛み。不快感。目の前、が、白と黒に点滅する。足が震えて、耐えきれずにしゃがみこんだ。尻を落としたはずなのにまだ体が揺さぶられているような感覚がする。奔流、視界を埋めつくす白い光に染まった世界は夢の中と同じでそこにそこにそこに見えた、の、は、私のほうへ伸ばされた大きな手と恐怖と決意に染まった誰かのかおと滅茶苦茶になった車の中身と黒と黄のまだらからは血のような赤色が吹きだし耳障りなサイレンを鳴らして私を、
――フラッシュバック。
「い、あ、ああ……っ、」
絶叫、した。
腹の底から嫌悪と異物を感じて、涙が染みる。喉の奥から酸っぱい汁が湧きだして、あまりの息苦しさに吐き出した。もはや視界は使い物にならず、混濁した意識は急速に沈んでいく。
あーあ、と頭上から声が降った。続いて携帯端末の操作音が。
闇に落ちた私が最後に聞いたのは、けたたましく鳴り響く踏切の音だった。
*
薄汚れた白、が見えた。
それは光ではなかった。そのことに何故だかとても安堵して、二度まばたきをする。夢の中のように頭が浮かされていて、思考の歯車はうまくかみ合ってくれなかった。どうやら私は歩道にぺたりと座りこんでしまっていて、その白に頭を支えられたまま眠っていたらしい。一体なにがと仰ぎ見る。
一か月と数日。見慣れてしまった仏頂面がそこにあった。
ふん、と彼は鼻を鳴らし、しかし私を放り出すでもなく余所を見る。
「そのうち車が来る。動くな」
相変わらずのそっけなさに、私は何故だか酷く安心してしまって、ほっと息をついた。けれどその吐息にはつんとくるような臭気が混じっている。はっとして口元に手をやると、そこに粘り気のある触感を覚えた。
嘔吐したのだ。それも吐瀉物の上に倒れこんだのか、コートにも名残が染みついている。
涙、鼻水、ぼろぼろの顔で自分が気を失った時のことをたぐるように思い出して、私は博士の胸を押して彼から離れようとした。けれども、力の入らない腕では自分の上半身すら支えることもままならない。博士が私の動きに気付いて眉をひそめた。
「なんだ」
「……きたな、い……です、から」
実際、彼の白衣には黄みを帯びた染みが広がっていた。私がどれだけのあいだ気絶していたのかまでは定かではないが、その汚れはまだ新しい。早く洗わなければ落ちなくなるかもしれない。汚すことが前提の衣服であるとしても、実験に関係のないところで、それもこんなもので染みを作ってしまうのでは、他でもない私がいたたまれない。
しばらくその抵抗を見下ろしていた博士が、私の肩甲骨のあたりに手を置いた。それだけで私の腕は力を失くしてしまう。
「処理をさせておいてよく言う。もう遅い」
へたりこんでいる場所は倒れこんだ場所と同じだった。言葉に導かれるように目をそらせば、確かに地面に痕は残されていない。すべて彼に任せて眠ってしまっていたのだろう。申しわけなさと安心とで胸が詰まって、こぼれ落ちたものは涙だった。
「……ごめ、なさい、博士」
しゃくりあげ、謝りながら、縋りつく。
「大丈夫だと、思ったんです。博士じゃなくても、大丈夫なように。迷惑かけたく、ないのに……なのに」
だめだったんです。
絶叫の余韻に喉はもう潰れている。絞り出した声は掠れた。
「わたし、博士、じゃないと。駄目で。なにも、もう」
白衣の襟を握る力はもうほとんど残っていないというのに、私をそこに縋りつかせるものは何なのだろう。
いくら考えても納得できない、弾き出される答えはあまりにも身勝手だ。――世界に彼が存在する、それだけで、生きていられるかもしれないなどと。私はまた、他人に縋りつくことで醜く生きようとするのだ。
博士が穏やかな呼吸をする。彼の胸に寄せた額に鼓動が伝わった。
とん、と頭が叩かれる。
「寝てろ」
その言葉がスイッチとなったように、ふたたび私は意識を取り落とした。
*
白い光が視界を覆う。
くり返された夢からはもう明度が失われていた。冷え冷えとした空間で、私は初めて両足を動かす。延々と続くかのような世界に、また誰かの手が伸ばされた。
――違う。
あれは私に伸ばされた手ではない――私を、突きとばした手だった。
理解が降ったと同時に世界は瓦解して、光の壁が取り払われる。朦朧とした夢の世界でも、その向こう側にあるものだけは真実だった。意識とは無関係に進む足が、やがて動きをゆるやかにし、止まる。そこに至って私はやっと受け入れた。光の向こうにあったものを拒絶していたのは、私だ。
無彩色に沈んだ石碑。
それは、まるで。