レプリカ
ベルを鳴らしている目覚まし時計を止めようと顔を上げる。途端、頭上からなにかが落ちた。眠気まなこのまま手探りで掴みあげて、その一瞬で私は意識を覚醒させた。片手で握るとはらりはらりとシーツに落ちていくそれは、見間違いようもなく私の毛髪だったのだ。
衝撃を隠しきれないまま、私は鳴り響いていた目覚まし時計をなんとか黙らせる。ふと頭に触れ、撫でるように指先でこすってみると、肩先までの長さの髪がいとも簡単に散っていく。そしてその向こうに、確かに地肌に触れる手ごたえがするのだった。
真っ先に薬の副作用を疑う。もしくは最近終えたばかりの点滴の薬剤を。
枕元に散った毛髪はかき集めると毬のように丸まった。ここ数日で抜け毛の量は増えたように感じていたが、これほどまでになるとは思っていなかった。鏡を見たいのは山々だけれど、そうしたところで自分がショックを受けるだけなのは明らかだった。
大きくため息をついたところで、早足で廊下を踏む音が聞こえる。はっとしてベットから飛び出し、扉に手を置いた。ノックもなく開けられようとした扉が阻まれる。
おい、と向こう側から声が伝わる。突き刺すような苛立ちがこめられたそれに、身のすくむ心地がした。
「開けろ」
「ごめんなさい、今、無理です」
いつならいいのかと問われたとして、きっと私に答える言葉はなかった。数分、数時間で元に戻るようなことではない。それどころか明日になればもっとひどくなっているだろう。
もちろん博士はそんな栓のないことを尋ねるような人ではなかった。開けろ、嫌です、の問答をくり返したあと、不気味なほどの沈黙をおいて、彼は不愉快そうに鼻を鳴らす。
「着替えか? お前の裸なんぞ至極どうでもいい。開けろ」
頬がかっと熱くなった。「ち、ちがっ、違います!」と大声で言い返して、扉に置く手に力をこめる。
いつまでも一着の病人服を着ているわけにもいかないからと、博士に下着と替えの服を頼んだのは、もう一か月ほど昔のことだ。衣糧の入ったボックスが部屋に置かれるようになったのはそれからで、着替えを畳んで籠に置いておくと博士が持っていく仕組みが作られた。
どうして私には男性があてがわれているのだろう、女性の科学者はいなかったのだろうかと何度考えたかわからない。もし担当が女性であったなら、今だってこんな押し問答をせずに済んだだろうに。
「……とにかく今は、」
突如、手元に強い衝撃が走った。苛立ちが頂点に達した博士が、向こう側から扉を蹴りつけたのだ。音と振動に驚いた私の手から力が抜ける。しかし博士は、私の隙に乗じて扉をこじ開けるような真似はしない。
――開けろ、と。
聞いたこともないような、低い声がした。
そのときの私は言うなれば蛇に睨まれた蛙のようで、しずしずとドアノブをひねって博士を招き入れる他に選択肢を見出すことができなかった。氷のような目で私を一瞥した博士は、やはりさして興味もなさそうに顔をそむけ、パイプ椅子に腰を下ろした。彼は沸点が低い割に怒りが長続きしない。――というより、私のやることなすことに、博士は常時不機嫌そうにしているのだった。
「体に不調は」
決まり文句となった問診に「髪が抜けました」と消え入りそうな声で答える。筆記音が続くことはない。その代わりに心底馬鹿にするような顔をされた。
「それがどうした」
「全部、抜けてしまうんでしょうか」
髪の束をそっと包んで、ごみ箱に放りこむ。博士がボールペンの先でファイルを叩いた。
「自分が飲んでいるものが栄養剤かなにかだと思っているのか? 馬鹿が、毒物だ。髪ぐらい抜けて当然だろうが」
そのまま書類に向き合ってしまう。つまりは彼にとって、私の受けた衝撃は書き留める価値もない内容だったということだ。
昨日でとうとう十回を数えた投薬のあとでも、私はまだ生き伸びていた。外に出ることもない、生きるか死ぬかをさまようだけの私にとって、見目などどうでもいいのだろう。この状況で綺麗になることに執着するわけではないけれど、と私は残った前髪をつまんだ。ほんの少し力を入れただけで抜け落ちてしまう。
「博士。あの、次、でいいです。帽子を頂けませんか。やっぱり恥ずかしい……ので」
ああ、という博士の返事は、承諾を意味するものではなかった。なにごとかを思い出したかのようなイントネーションだ。不思議に思って顔を上げると、ちょうど彼が資料をまとめて立ちあがろうとするところだった。
「次はない。俺は今日でお前の管理を下りるからな」
「……え?」
「明日からは後任が来る。お前のすることは変わらない、今まで通りに実験を続けろ」
そう、説明をするときのように、淡々と言う。
実際、彼にとってそれは管理者の引き継ぎという作業でしかないのだ。今までのように感情の入りこむ余地はなく、ならば当然別れを惜しむようなことはしない。私が言葉を失くしていると、連絡は以上だと言って博士は立ち去ろうとする。
「ま、待って下さい!」
呼び止めながら次の言葉を探した。どういうことですか、という問いが意味を為さないことは知っていた。理由が返ってきたとしても、博士が留まるわけではない。
首だけでふり返った博士の白衣の裾を握る。口を開閉させた私がしまいに吐き出したのは、「外」の一語だった。
「……それが?」
「外、に。行きたい、です」
「知るか。後任の奴とでも行け。最後まで面倒をかけるな」
「最後だから!」思わぬ大声が出て、ああやってしまったと思う。うつむいて続けた。「最後だから、行きたいんです。ほんの、少しで、いいんです」
お願いしますと、頭を下げたままで言う。断られる未来が目の前に見えているような気がした。恐ろしくなって上が向けない。
はあ、とこれ見よがしなため息が頭上から聞こえ、博士の骨ばった手が私の手を払い落とす。彼はそのまま、私を一瞥だにせずに部屋を出ていってしまった。
失敗したのだ。ひりひりする右手をもう一方で包んで唇を噛む。彷徨うようにベッドの上に座りこみ、重力に任せて体を倒すと、やり場のない情けなさが襲ってきた。もしかしたら、さっきの会話が本当に最後の会話だったのかもしれない。それならあんな頼みごとをするべきではなかった、あれでは恥を晒しただけだ。
目を閉じて考え事をしていると、思考はどこまでも沈んでいく。それに待ったをかけたのは、閉じられたはずの扉がふたたび開く音だった。私はぎょっとして肩を揺らす。
「外出を頼んでおいて自分は二度寝か。いい度胸だな」
薄手のコートを二枚抱えて、顔をひきつらせた博士が立っていたのだった。信じられない思いで少しずつ体を起こしていくと、彼は唐突に、そのコートの一枚を私の膝元へ放る。どうして、と口だけを動かすも、博士の耳には届かなかったようだった。小さな舌打ちが続く。
「早く着ろ」
「ご、ごめんなさい」
コートの袖に腕を通すと、それはあつらえたように私の体に合っていた。
これといった装飾のない、シンプルな紺色のダッフルコートだ。私が留め具まできっちりと留めるのを待って、博士は私に背を向けた。ついて来いということでいいのだろう。そそくさとあとに続く。博士の歩幅について行くには、私は倍近くの速さで足を動かさなければいけなかった。
透明な壁を越えてエレベーターで地上に上る。建物の構造は単純だ。エレベーターからまっすぐに歩けば、外へ続く自動ドアが私たちを迎える。
それを抜けて、外へ出る。視界に飛びこんできた空はよく晴れていた。吸いこんだ空気に湿ったアスファルトの香りが混じっている。眼前を横切る道路には、目をこらさなければわからないほどに薄く、雪が積もっているのだった。
道路の両脇にはシャッターの閉められた商店と背の低いビルとが無秩序に並んでおり、向かいに見えた磨かれた自動ドアには私と博士の姿が映っていた。けれども私たちの他に人通りはなく、それどころか車の一台も道路を走っていない。
時を止めてしまった、では足りなかった。レプリカの町にたった二つの人形を置いたような違和感と無機質さが、漂う空気を薄気味の悪いものに変えていた。コートを羽織った博士が先導するので、私は早足で彼に続く。
「誰もいないんですか?」
問うと、博士は自分の腕時計に目を落とした。
「午後十時から翌日の午前九時まで、この研究区域には通行規制がかかる。情報規制の一環だ」
「今は……」
「午前八時。まだ誰も出歩かない時間だ」
この町の無音はそういうわけだ。もしかしたら、その規制の中で外へ出てくるのは、とんでもないことだったのではないだろうか。不安になって足を止めると、二歩ほど先へ行ったところで博士がふり返った。
「外に出ちゃいけない時間だったんでしょうか」
確かに外を歩きたかった。けれど博士にまで規律を破らせるのは本意ではない。
しかし彼は表情も変えず、「被験者の自覚はないのか?」と問い返してきた。その意図がわからずに目をしばたかせると、眉間にしわを寄せられる。
「俺は話したはずだ。被験者の要望を、科学者は金で賄いうるかぎり全て叶える。これは国の決めた規定だ。例外はない」
それじゃあ。口から出かけた問いを飲みこんだ。
私が頼んだら、博士はこれからも、私の管理に就いていてくれるんですか。そう問うのは卑怯だと思っていたし、なにより博士の異動を命じたのは他でもない国なのだ。私に別の管理者を充てることで、なんらかの益が生まれるのだろう。子供の我がままで振り回すことではない。
聞き訳がよくなったのは、些細なことで苛立ちを露わにする博士が傍にいたからだろうか。そうかもしれないし、違うかもしれない。記憶のあったころから言いつけを守る子供であったなら、それが今でも身に染みついていてもおかしくはないのだ。だとしたら、どんなことも諦めて、受け入れて、私は生きてきたのだろうか。
無言でしばらく歩いたところで、ふと博士が足を止める。時間をかけて周囲を見渡し、少しの間考えこんで、ぐるりと方向を転換した。博士? と声をかけた私に、彼は唐突に「引き返すぞ」とだけ言って、もと来た道を歩いていってしまう。
わけがわからなかった。その先になにか危険なものがあるのか、これから博士にとってなにか重要な予定が詰まっていたからなのか、はたまた外出という建前で許された行動範囲がそこまでであったのか。私に思いつく理由はどれも憶測の域を出ない。
けれどひとつだけ明らかなのは、その時間が終わりを迎えようとしていることだった。
「……博士、あの」
「なんだ」
「今まで、ありがとうございました」
博士が立ち止まり、私のほうを見て、ほんの少しだけ目を瞠る。
唐突が過ぎたのだろう。私もこんなふうに言うつもりはなかった。伝えるならばもっとしっかり伝えられればよかった。余裕があるときに切り出せなかったのは、予想外のことが起こりすぎたせいだ。
「色々、本当に。ありがとうございました。外に出られたこと、嬉しかったです。迷惑かけてごめんなさい」
深く深く、頭を下げる。空っぽな私に中身があるなら、このお礼にだけは心がこもっているといい。
私が生きているのは、博士に生かされたからだ。長良愛里という名前を、被験者という肩書きをくれたのも彼で、保たれた距離やくり返される拒絶は、虚ろなばかりの私には心地の良いものだった。
「……お前、は」
あれ、と思う。
博士のそれは、聞いたことのない声だった。
困惑なんて、しないはず、だった。彼を構成するのは確定と断定、命令、他人と自分との線引きを頑なにするもので、その境界をあやふやにするようなことを彼は嫌っているのだと、そう思っていたから。恐る恐る見上げた顔には深い眉間のしわが刻まれており、そのことが私を大きくうろたえさせる。
「お前は何故、実験を受け入れた?」
「……博士?」
「被験者候補には十分な説明と拒否権が与えられるはずだ。何故お前はここに来た? 欲しいものもない、したいこともない、ならここに来ることにどんな意味がある?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、なにひとつとして答えを返すことができない。私が当惑しているからであり、そもそも答えを持ち合わせていないからだ。あの日あの部屋で目を覚ましたとき以前の記憶がないことを、彼も知っているはずだろう。
それでも博士は問いかける。質問の形を取っているだけで、それは彼が、自分の思考を整理しようとしているだけなのかもしれなかった。
博士のような人が、そうしなければならないほどに混乱している。それだけで私の中には不安が募っていく。幾度にも渡る問いのくり返しの果てに彼が辿りつき得るのは、ただひとつの結論でしかないのだ。
「お前は、死ぬためにここにきたのか?」
喉の奥がひくついた。
ほんの小さな一歩を後ずさることで、私は心の安定を保とうとする。
「……分かり、ません」
嘘だ。
本当は知っている。知らなくとも気付いている。
私はきっと、自ら望んでここに来たのだ。死ぬかもしれないということを、死ぬことができるということだけを頼りに。だから、恐れを感じないのだ。
「死ぬこと、は、怖くないん、です。でも」
水槽の中の金魚が小さなあぶくを吐き出すように、細切れの言葉が私の口をついて出る。思考は声に追いついていなかった。
「薬を飲むとき。飲んだあと。痛くて、寒くて、苦しいとき、その一瞬だけ、死にたくないって思うんです。生きたいとも、思わないくせに。心は、心のほうは、私が死んでも構わないって思うのに。体は、まだ生きようとするんです」
――どうしてですか。
どうして、私は。
「私は死にたかったんですか。それじゃあどうして生きているんですか。どうして、なにも思い出せないんですか……」
博士に言ったところで、それどころか誰に問いかけたところで、答えが返ってこないことは分かっていた。
だってもう誰もいない。どこにも見つからない。見つけられない。私を知っている人、私を心配してくれる人、私を見ていてくれた人。思い出すこともできないのに、縋ろうなんて馬鹿げている。
博士は困惑と不快を表情から削ぎ落としていた。私の動揺は、彼にいつもどおりの怜悧を与えたらしかった。当惑と冷静のあいだで、私たちは反比例する。
そうして彼が最後に発した問いは、私の思考を停止させるには十分だった。
「長良愛里、お前に」
兄はいるか、と。