一話
月が町を照らしている、誰もいない往来に淡い月の光に照らされた人影が一つ、闊歩している。
カツーン――カツーン――
地面を硬い物で突く音が響く、一際月が輝いた時、その人影の様相が分かる。
懐中時計を取り出し、ステッキを手に掛け、モノクルを動かす。
黒いコートに蝶ネクタイ、若年だが顔は整っていた。
「この時間になっても月が良く見えませんね……邪魔な物が多いのでしょうか?」
そう呟きながら時計をしまう、そのステッキを握り直し……地面を一際強く突いた。
その瞬間、大地は男を中心に隆起した。
大地は撓み、裂け、静かな夜を地獄の夜へと変貌させた。男の周囲に建つ全ての建造物が悲鳴を上げて崩れて行く。
崩れた家から小さな呻きが響く、それは一人、十人と増えていき、さながらレクイエムの様にも聞こえた。
そして……その呻きが聞こえなくなると男はステッキを回し喜んだ。
「やはり月は美しい。無粋な物が月の光を阻む事など有ってはならない事です」
「さ……ん……さん」
虫すら鳴くのを諦めた地獄の夜に、小さく、か弱い声が響く。
男はその声が聞こえた方向に向き隆起した地面から飛び降りた。
ふわりと、まるで重さを感じぬ様な着地……そしてその歩みはまるでワルツを踊る様だった。
「お母さん!お母さん……」
淡い光に照らされるのは幼く、か弱い少女だった。
目の前の現実が受け入れらないのか、ただ母を呼ぶ声だけが木霊する。
「これはこれは、可愛らしいお嬢さまですね」
少女の背後から声が響く、その言葉こそ軽いが。少女の声を奪うには十分な冷徹さが有った。
ゆっくり……ゆっくりと、少女が振り返る。
少女の目にはこの場に相応しくない笑みを浮かべた男が映る。
「ひっ……!」
ザリッ――!
少女が後ずさると同時に、その体は宙へと浮いた。
男が少女の首に手を掛け持ち上げたのだ。
「本当に可愛らしいお嬢様だ……今にもこの手で壊してしまいたくなるほどに……」
余りの苦しさに少女の顔が赤く染まる、意識も途切れかけている。
今、少女に出来るのはその手を掴む事だけだった。
ドサッ――!
強い衝撃が少女を襲う、同時に首の圧迫感が消えた。
咳き込み、悶える少女に男は告げた。
「お嬢さん、私を憎みなさい……恨みなさい……貴女のお母さんを殺したのは私です。そしてその憎悪を持って、私の前に来る事を楽しみにしますよ。これは餞別です役に立つことでしょう」
男は悶え苦しむ少女の頭を掴み、左手を額に当てた……
「ああああぁぁぁぁぁァァァ……!!」
悲鳴を上げる少女に男は一言呟く。
「私の名はファウスト決して忘れるな……」