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神様がくれたもの

作者: 花岡巳殿

 表門を潜る前からその異様な光景は広がっていた。

 白っぽく、人の足によって踏み固められた土から膝の高さまで伸びた鶯色で小筆のように細い茎。その先には幾重もの赤い繊維のような花弁がある。

 門の敷居を跨ぎ、その光景にどうしようもなく立ちつくしていると、屋敷の方から声がかかる。目線を上げれば、縁側に虎柄の陣羽織を纏った巨漢が立っていた。

 煤だらけの顔。生け捕りにした虎から剥ぎ取ったと自慢していた陣羽織は急所を避ける形で裂けている。手には長身に負けず劣らずの朱槍が握られており、その刃先の輝きが褐色の汚れでくすんでいることから、戦から帰ってきたばかりなのだろうと悟る。かくいう俺もその帰りであった。

「今帰りか、遅いな」

「陣払いに手こずったんだ」

 二十代にそぐわぬどら声を響かす大男に答えると、手の甲で顔を拭う。

 男にしては若干白く細い手に黒が彩られる。戦闘に用いられた、火縄銃から放たれた火薬の粉が肌にこびり付いたのだ。薬莢から玉が飛び出る際に響く破裂音と、その場に立ちこめる煙い火薬臭が思い起こされる。

 小さくため息をつき、白と黒の向こうにぼやけて赤が映った。改めてこの敷地に起こっている異様な事態を思い出す。

「何故彼岸花が咲いている」

 戦から帰って早々、疲労と困惑のため息を混じらせ口から溢すと、縁側の上から巨漢がお手上げ、と言わんばかりに肩でため息をつき、後頭部を掻いた。

「俺が帰ってきた時にはもう咲いていた」

 やや視線を下げ、俺たちが戦場にいる間に咲いたであろう彼岸花を凝視する。

 ただ一、二本咲いているだけならどうってことはない。それが一カ所で束になって咲いていたとしても問題はない。だのに彼岸花が咲いているという光景を異様視したのは、この花が束となり、屋敷に沿って列を成して延々と咲き乱れていたからだ。その本数は俺が一歩も動くことなく、視界に入れただけで数える気は起こらない。

「家中の人間は不吉だとか喚いて近寄りもしない」

 浅黒い肌の巨漢は眼を閉じ、欠伸を噛み殺しながら呟いた。

 彼岸花は元来不吉な植物と言われている。根に毒を持っているというのもそうだが、世間は「彼岸花の下には死んだ人が埋まっている」という迷信を信じた。花弁の色が赤く、まるで人の血のようだったことからそんな迷信が広がったのだろう。

 不吉な血の色を持つ花。生まれながら持つ色のせいで嫌悪された。

 ――鈴乃を思い出すな。

 詠嘆を胸で呟き目を細めると、花弁と目線を同じにしてしゃがみ込む女の、小さいながらも、きちりと正しく伸ばされ、頼りたくなる背が見えた。繊維のように細い花弁を壊れるものでも触れるかのように突いている。

 何かを包み込むように咲く彼岸花を、女は白く細い、けれど女の品のある手とは程遠い生傷だらけの痛々しい両手で、手前にあった一つを包み込む。

「そういえばお前、確か利春と仲良かったよな」

 女が花を包み込もうとした寸前、その背が見えなくなった。自身が眼を見開いたせいだ。

 胸にあった温もりが、根こそぎ持って行かれ、空いた穴を冷たい風が貫通していく。そして次の瞬間には冷えが憎悪を煽り、巨漢を睨み上げた。

 だが巨漢はその視線を気にする素振りを見せない。というのも家中では「眼つきが悪く気の強い男」というのが俺の代名詞になっていた。

 不快なことで顔を顰めても、誰も気づかない。「元からあんな顔」と皆が皆、気にも留めず、己に与えられた仕事をいそいそと片付けるのだった。

 今回は、今までのそれとは比にならないくらいの鋭さを含んで睨んだ。だがこの巨漢は一向に気がつかない。

「この彼岸花、辿ってみな」

 顎で促すと、仏頂面を浮かべたままなかなか動こうとせずにいる俺に、痺れを切らした巨漢は大きく息を吐き、縁側を歩いて行った。角を曲がり見えなくなる。乗り気ではなかったがついて行くことにする。

 彼岸花に沿い歩き、角を曲がってもなお赤い花道は続いていた。だが曲がった先に屋敷を囲う壁があった。流石に壁の上を伝って咲くことはない。行き止まりだと気付いた彼岸花道も、壁の手前で途切れていた。俺を促した巨漢も、途切れた位置で縁側にいる。

「ここさぁ」

 足取り重そうに花道の途切れまでやってきた俺を確認すると、巨漢は屋敷側を向いた。

 一瞬見たその男の眼が、浅黒い肌をした熊のような男にはそぐわぬ、礫を投げ入れられた湖の水面のように揺らいでいた、と感じていると、ここがようやくどこなのか気づく。

 花道が途切れた位置は、丁度一室の前だった。屋敷の端部屋である。

 巨漢が震える手で閉ざされていた障子を開くと、黒い髪を頭上で結った少年が背を向け座していた。

 人の気配に気づいたのか、力強く、鋭い眼差しで振り返ったが、その頬には大粒の雫が幾つも伝った跡があった。慌てて両手で清い筋を処理すると、声もかけず戸を開けた俺たちに一礼し足早に去っていった。

 よく知った顔。この屋敷の年若い住み込み医師だ。戦で負傷したりすると彼に診てもらう。当然、病に倒れた輩を診るのも彼の役目だった。そして死に逝く者を見届けるのも彼の役目だ。

 角を曲がった幼い医師の細い背を見送ると巨漢が後頭部を掻いた。

「悪いことしたな」

 部屋には乱雑に放り散らかされた書物や仕事の書類、押し入れに片付けられていない夜具など、何一つない。生活感の溢れない部屋を、眉を顰め見つめる俺に巨漢は、この大柄な体のどこにそんなものがあるのか、と疑いたくなるような優しい声を絞り出す。

「絶対、乱世を終わらせよう。何も成せなかった利春のためにも…な」

 語尾を震えさせ、俺を慰めるかのように呟いた巨漢は、先に行った医師を追うようにその場を去った。部屋を見つめる俺の眼が、かつてそこにいた友を思い出しているかに映って、悲哀に暮れる俺に同情したのだと思われる。厳つい顔からは想像できないほど涙脆い男だった。

 ざまあみろ。

 俺がそんな気持ちで部屋を見ていたとも知らず、あの巨漢は人目を避け、いなくなった男と残されたその友の絆の深さに改めて触れ、涙を流すのだと思うと、可笑しくて皮肉めいた鼻笑いを漏らさずにはいれない。

 かつてこの部屋の住人だった男、利春とは確かによく会話はした。明るく陽気で、他人のことを放っておけない性分。愛想のない俺にまで寄りつくほど。奴を嫌う者はまずいなかった。

 戦国の世。俺と利春は同じ時期に同じ主君につき、主の天下取りを支えた。同い年なこともあってか特別仲が良いと周りには映っていただろうが、俺にとっては心底迷惑な話だ、と次第になりつつあった。

 そうこうしているうちに利春が病で倒れた。肺の流行り病にかかり、感染を恐れられ一歩でも外に出ることを禁じられた。勿論面会も無意味には許可されなかった。

 いい気味だな。

 この時にはすでに表面上の友情。戦場にも行かず延々と隔離されている奴を思うと、一人になった夜の自室、喉を鳴らしながら笑わずにはいられなかった。

 無駄に顔を合わせることもなくなり、無価値な会話を交わす必要もなくなり気が楽になるかと思えば、そうでもなく。先日若くして病死した利春という不快な存在を自分の中から全て吐き出した気になっても、奴に対する嫌悪が消えることはなかった。

 心の奥底に仕舞いこんだ片鱗の想い。まるで心臓に埋められた針のようで、胸が軋むと刺激してくる。そして針にこびりついた錆の如く、必ず利春のことも思い起こされる。

 何で利春の所なんだ。

 胸が軋む。針が心臓の肉片を抉るかのように動く。赤い花々を引き抜き滅茶苦茶にしてしまいたい衝動に耐えながら心頭で訴えた。

 花々が揺れる。生温かい風が、汚れた陣羽織ごと体を包んだ。胸の痛みのせいで眉間に刻まれていた線が、徐々に薄くなっていく。

 一陣の風はまるで人の手のようだった。温かく、冷たい、丁度人肌くらいの温度で、俺の煤まみれの頬に触れてくる。そしてその手が一瞬にして答えをつきつけた。

 受け入れられない現実。

 認めたくなかった事実。

 花道が利春の部屋の前で終わる、もしくは始まる訳を考えると、心中に広がる虚しさに顔を歪めた。

 自分が今来た道を眼で辿る。花道は風に吹かれ、沖へ引いて行く波の如く揺れている。先へ俺を誘っているようだった。

 知りたくはない、判りたくもない。だが手招きするかの如く波打つ彼岸花には刃向えず、足は屋敷の角を曲がって先に伸びる花道に沿い進んだ。


 騒音が聞こえた。物を叩きつける打撃音に木材を割る破壊音。しまいには茶器でも割ったような甲高い音まで響いた。その後に板の間を駆ける音がし、土を踏む音がすると遠ざかっていった。

 閑散とする屋敷に胸騒ぎを覚える。

 書物を読むのをやめ、自室を出て玄関へ行くと、半開きの戸が出迎えた。微かに覗く外の景色に、髪を一つに束ねた女の、腰を浮かせてしゃがみ込んだ背が、細められた俺の目に映る。女の目前には四、五本の彼岸花が束で咲いていた。

「鈴乃」

 涼しい顔を出来るだけ作り上げる。土間に下りて近づいていくと、彼女は丸めていた背を伸ばし、ゆっくり振り返った。

 切り眼に備えられた、太く長く伸びた睫毛。その真下の頬に妙な色がある。雪のように白い肌に浮かぶ瑠璃色。中には小さな茜色の斑点が散りばめられていた。予想していた胸騒ぎの理由だ。

「利春か」

 眉を下げ、失笑しながら目線を花へ戻す鈴乃。普段から眼つきのよろしくない俺の機嫌の悪さなど誰も気づかないのだが、彼女の場合は敏感に察知した。

「病の悪化が著しいから気がたってるのよ」

 あの人は悪くないの、と言いながら手前の一輪に両手を伸ばす。生傷の絶えない、少し叩くと折れてしまいそうほど脆そうな細い手だ。

 あいつまた……。

 唇を、苦痛を殺して噛みしめた。皮膚の裂ける音と同時に血の味が口内に広がる。

「お前女だろ。いい加減にしないと痣、一生残るぞ。それに手や体の傷だって―」

「いいのよ、これくらい」

 早口に、強い口調で喋ると花弁の乗る萼を両手で包み、次いで彼女は鈴の音のような笑い声を零した。先の口調からは想像出来ない、小さく、乾いた声が庭の隅に響き渡る。

 黒地に赤い彼岸花が、大柄で幾本も刺繍された陣羽織をまとう彼女は、戦場で細身の刀を振るうつわものだった。利春が倒れた数ヶ月前からだ。元々武士の家柄に生まれたこともあってか、武芸は達者であった鈴乃の前に出る命知らずはいない。手の切り傷は、大方戦場で負ったものである。だが頬の痣は違う。

「あの人の代りに私が戦うの」

 呟く鈴乃の声に潤いはない。胸に埋め込まれた針が俺を殺さんばかりに動いた。

 自分が彼女をどんな眼で見ているか重々承知している。そして鈴乃が奴に向ける感情もおおよそ推測出来た。

 眼の裏に、とある屋敷での光景が浮かび上がる。

 洗濯をしようと、汚れた衣服を両手で抱え、縁側を駆け回っていた侍女の姿だ。侍女は忙しなく動かしていた足を絡ませ、そのまま庭に転び落ちてしまった。

 屋敷に引き上げられ、地に打ちつけた肘から止めどなく溢れていた朱を、籠手に覆われた手で、丁寧に濡れた布で拭われていく。その手を見る女の耳が熱を帯びていくのを、襖を片眼ほどの幅開き、覗いていた。言い表せぬ不快さが身を循環した。

 奴の人柄を考えれば、俺など足元にも及ばない。

 けれど、今なら……。

 脳を掠めた自身の声に、体全体に力が入った。無意識に両の手に拳を作る。

 病に倒れて以来、利春は半狂乱になっていた。健在だった時は親しく利春を取り巻いていた同僚たちが、面会の許可が下りないことをいいことに近寄らないほど。

 いくら感染症とはいっても、健康体の人間にはそう易々とはうつらない。たまにくらいなら通ってもいいだろうに、誰もそうしなかったのは、毎日通う鈴乃の柔肌に浮かぶ瑠璃色の痣が日に日に増え、奴の発狂ぶりを語ったからだ。

 珍しいことではない。彼女が利春の元へ行き痣を増やすのは、ここ数カ月で当たり前になりつつあった。だが、それまでの鈴乃は素知らぬ顔で屋敷内を闊歩していた。腹の煮え繰り返る思いで、俺はその痣を見ていたが、彼女が何も言わず、触れて欲しくないと言いたげな眼でいたから、利春の部屋へ殴りに行こうという感情は抑えた。

 だが今回は相当深手を負ったらしい。彼女の眼には一切光がない。

 利春に茶器でも投げつけられ心が弱っているであろう今なら、と画策して口を開いた折。

「彼岸花の下に人が埋まっている迷信。あながち嘘じゃないと思うのよ」

 遮られた。背を向けたまま、まるで何を言おうか理解されていたかのような間合いだった。

 渋々口を閉ざすと、花弁を包んでいた両手の片方を引っ込めた鈴乃は、もう片方の手を鶯色の茎へと這わせ、さらに下がって土へと触れる。

「私、この花は人の生まれ変わりだと思うのよ。輪廻転生って、よく言われるけどそんなに信じてないでしょ? 後世って、あるようでないようなものだと思う。だって、また人に生まれてくるって嫌じゃない。醜い争いばっかりして。惨いし、汚い」

 腹の底から吐き出した鈴乃。彼女は人が争いながら権力を拡大していくこの乱世を生きる人全てを否定した。当然、その戦国を生きる自分も含めて、だ。鈴乃の肩が震えている。

「それに比べて、この花って綺麗じゃない? こんな複雑な作りの花って、なかなかないでしょ。これはきっと仏様がくれた奇跡なのよ。可哀想な醜い人間に一時の美しさを、みたいなね」

 自分でも胡散臭いこと言ってるな、と吹き出す鈴乃の背は笑っていない。伸ばされた背筋は真剣さを物語っていた。

 衣擦れの音がする。背後からでは判りづらいが、彼女は手の平を合わせ、彼岸花に向かって神仏にでも祈るかのように目を閉じたかに思われた。

「仏様。もし私が死んでも、こんな素晴らしい花になんて、して頂く必要はありません。また、醜い人の姿で十分です。その代り……」

 鈴乃の声が震える。途端、嗚咽が漏れ響く。その音が妙に耳につき、胸に込み上げた胃酸が喉の半ばに留まった。嚥下しようと努めるが、なかなか下らない。歪んだ表情を一層歪ませ、下睫毛には涙が溜まった。

「その代り、もし彼が、後世を生きることを、望んだならば、彼の苦を、全て私に下さい……」

 嗚咽を漏らし続ける鈴乃の背は小刻みに震えている。小さな背が、より一層小さく見えた。

 喉まで上りつめていたほとぼりが、外に出たいとばかりに騒ぐのを、唇を噛みしめやっと嚥下した。

 何でそこまで……。

 哀愁の感情ではない。何故それほど利春を想うのかという遺憾の感情が渦巻いた。鈴乃を宥めるどうこうより、利春に対する悪感情が凌駕した。決して彼女に同情した涙ではなかった。

 しゃがみ込み、祈り捧げる鈴乃を一瞥すると、背を向け屋敷に戻った。

 もし、あの時。利春に嫉妬の念を抱かず、鈴乃を慰めていれば、彼女は俺のものになってくれただろうか。

 いや、それ以前に鈴乃をあの時止めていれば――


 孤独は夜にやって来る。

 何の音もない、庭にいるはずの虫の音さえ聞こえない夜。開け放たれた障子の向こうに広がる、星一つない紺碧の空。浮かぶ半月の光が異様に眩しい。

 いや、眩しいと感じるのは、自分が奈落の底へ落ち、無様な惨い人間になり下がってしまったからだろう。

『一日中床に臥す男を、お前笑いに来てるんだろ。きっとそうさ。家中の者は皆、泰平だのと言っておきながら成せずにいる男を笑ってるんだ』

 白い顔に茫然を浮かべた女の眼は、真っ直ぐに俺を見据えた。雪色のような腕や頬には薄れた瑠璃色の染みが浮かんでいる。

『お前はその先駆けでここに来てるんだ!人を労わるかに見せかけてお前は……!お前など……偽善者同然だ!』

 とある昼の話、手近にあった茶器をとっさに引っ手繰るかのように掴み振り上げた。それに触れていた時の冷たさが今、夜具を握る手に蘇る。

 肺に夜の風を吸いこんだ。不能になりつつあるそれは、その冷たさに驚きつい咳き込んでしまう。手で口を押さえ音が漏れるのを抑えた。

 波が去ると一息つき、自身の手を見た。半月の明かりに照らされたどす黒い液。それは夜中に見たせいで何か、と判断しづらいが、日中見慣れている分、状況把握に時間は費やさなかった。

 部屋の暗がりの中、憮然と手を見つめていると、布を持った生傷だらけの手がその液を拭いとってくれた。その手は月明かりを浴びているにしては少し明るすぎたし、白すぎる。

 手はゆっくり離れていく。その後を眼で辿っても部屋の片隅には何もない。暗く、陰った深い闇があるだけだ。よく見ると手にはまだ漆黒の液が残っていた。

 孤独はやって来た。

 あれほど想ってくれていた彼女はもう、いない。

 白く柔らかい、ほんのりと温かかった手が、悪疫の証を拭ってくれることはもうないのだ。

 はたはたと、手に雫が落ちる。

 黒が澄んだ液と混じり合い、粘り気を含まなくなった。

 夜具を蹴り飛ばし、広縁に出ると庭に飛び下りる。痛いほど冷たい夜風が、肌蹴た寝巻の間から覗く肌を射る。

 誰も止めになど来ない。例え止めに来ても止まる気はなかった。

 屋敷に沿って走り、角を曲がってさらに沿って行き裏門を潜る。薄暗い山道、緩やかな斜面を走り上ると目的の場所に着く。

 木々に覆われていた道は開け、草一つ生えない広い土地に出る。滑り込むように目指した場所で止まると、手が勝手に地を穿った。何度も何度も、湿った土を掻き分けた。

 どれくらい掘ったか判らない、あと少し、と念じたところで背後から両手を掴まれる。

「利春様、もうおやめ下さい」

 見慣れた、毎日毎日薬を与えてくれる若い手だ。

 その手が、今自分が最も欲している手と重なって映った。

 悔恨の想いが眼から溢れる。

 ちゃんと言葉で伝えたいのに思うように口が動かない。漏れた嗚咽では、彼女には届かないではないか。

 後世だ、後世こそ必ず……


 花道は裏門まで続いていた。さらにその先の山麓に続き、堂々と道の真ん中を陣取りながら奥へと続いている。

 日はとっくに沈み、月が昇っているのだろうが、山中からは木が邪魔して窺えない。だがその場が蝋燭に火を灯したように明るいのは、俺を誘う彼岸花が、淡く赤い光を発しているからだ。

 道を歩く足取りは重い。鎧を身につけたまま水にでも浸かったかのようだ。

 この先が何か知っている。行きたくない、行きたくないとごねるのだが、足は止まってくれない。

 気がつけば、煤だらけの頬に雫の伝った線が生まれていた。その線は一歩進むごとに増えていく。

 一歩、一筋。二歩、二筋……と。

 ようやく足が止まった時には、顔は濁流でも浴びた有様だった。

 喉がひりひり熱される。溢れようとするものを、必死に唇を噛みしめ抑えたのだが、隙間からするすると溢れ出してしまった。山中に響く音は、最早人が発するものではない。

 鈴乃は神仏に祈りを捧げていた次の日の戦で死んだ、と後日知った。果敢に奮戦する様は一端の武人であり、女人に負けじと味方兵の士気も煽られた。

 だが、前日の弱みが祟ったのか、彼女は急に馬上で戦のさなかに空を仰ぎただ一点、何かを見つめると涙を流していたらしい。そこを敵の火縄銃で狙われ撃ち落とされたそうだ。

 見事に急所を射抜かれた彼女を救いに行った味方兵は、彼女の浅い息を肌に触れ死を悟った。敵に首を取らせまい、せめて遺体だけは女人らしく綺麗にしておいてやりたい、と一心に陣中へ運んでいるさなか、彼女が一言、

『後世は必ず』

 と呟いたという。それを最期に鈴乃の息が、この兵士の肌に届くことはなかった。

 無念にも儚く戦場で散った女武士の言葉は家中に涙を誘った。

 現世で成せなかった泰平。それを後世で成してみせると誓ったかに思われる彼女の意思は、俺以外、多くの兵を奮い立たせた。

 ここはそんな彼女の墓である。生き残った兵に意思を継がせ、勇気を与えた鈴乃が、歪な形をした墓碑の下で眠っている。

 俺よりも倍の高さを持つ墓石を目の前、はらはらと頬を伝い、顎へとやって来た雫が零れ、土を潤した。その雫を追うと真下の土、所々浅く穿ってあった穴に落ちる。歪んだ視界、さらに暗闇の中で覗き込むと、よくは見えない。だが、木々の隙間から現れた半月の薄い光がそこを照らすと、だんだん頭に答えが流れ込んできてしまった。

 勝てるものか、こんな醜い俺が。

 切れるものか、こんな固い絆を。

 嫉妬と憎悪の渦に巻き込まれ忘れていたことがある。例え何があろうと、人を想い、決して見捨てることのない彼女の優しさだ。

 武士の駆け出しだった時分、大戦で死へと誘う大傷を負って、もう無理だ、と屋敷へ粗野に運び捨てられた俺を生へ引きずり戻してくれた侍女であった鈴乃。俺はそんな彼女に惹かれたというのに。

 仏様。釈迦か菩薩かあるいは異国の神か、何でもいい――

 気がつけばその場に座り込んでいた。そっと鈴乃にかけられた土に手を伸ばし、愛でるように撫でる。彼女が死んでもう何年になるか。

 神様――……

 徐々に静まりつつあった涙が、また溢れた。だが、今度は悲しみのものではない。安心と喜びのものだった。口元には笑みさえ浮かんでいる。

 もし俺が死んだら、彼女のように、また人にして下さい――

 月を仰いだ。半分欠けていたが、それが発する光は異様に眩しい。思わず濡れる眼を細めた。

 ――その代り、もし後世で二人を見つけたら、羨望や執着、憎悪ではなく、彼らを祝福し、見守れる“眼”をください――

 手の甲で濡れた頬を拭う。両手で乱暴に拭うと、手が真っ黒になった。それが可笑しかったのか、それとも久々にここまで泣いた自分を馬鹿にしたのか、口から失笑が出た。

 ゆっくりと立ち上がり、今来た道を振り返った。そこにはもう、雑草が所々生え、小石の散らばる山道しかない。どこを見回しても、この山の中には人の転生らしい花の姿は一本もなかった。


 鐘を打つ音が次第に耳に届いてきた。だんだん大きくなる音に重く閉ざされていた瞼をゆっくりと上げる。

 何の音だろう。ああそう、チャイムの音だ。どうやら昼の五時間目の授業を寝て過ごしてしまったらしい。頬杖をして眠っていたせいで、頭を支えていた腕の感覚がない。

 教卓にはもう教師の姿はなく、代わりに障害物が取り除かれ、難なく見えるようになった黒板が、俺の眼に数学の不可解な公式を直接見せつけた。

 ため息が漏れる。隅から隅まで埋め尽くされた白い数字が、けたけた笑うかのように揺らいで見えた。

 いや、本当に揺らいでいた。心に寂しい想いが染み渡ると、何の表情もない顔から涙がぽろぽろと溢れ、白紙のノートに斑点を作る。

 窓際の席。教室には殆ど人が残っていないのが幸いだった。濡れた眼を手で乱暴に拭い、騒がしい校庭を三階から見下ろした。

 授業を終え帰る生徒がわらわらと駆けている。その中に目聡く、一人の男を見つけた。

 手提げ鞄を肩に掛け、ポケットに手を突っ込んで歩く彼に、背後から女が駆けて来た。彼女は男の腕に自身の腕を絡め、そのまま校門を潜って帰っていく。

 広がっていた虚しさ。まるでさっきまで見ていた夢のように忘れ去られる。

 公衆の眼を気にせずにいられるあの二人に、頬杖をして思わず鼻で笑ってしまった。けれど何の嫌味もない。口元が思わず綻ぶ。

 その眼には何の欲望もなかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] コバルト文庫新人賞おめでとうございます。 素晴らしい小説で涙が出ました。 [気になる点] 是非、長編を書いて下さい。 [一言] 私も未熟な戦国時代小説家ですが、お互い読者の皆様に喜ばれる…
2013/10/31 16:04 退会済み
管理
[良い点] 鈴乃の一途な思いがまっすぐ伝わってきました。 ラストの直前までは切ないまま終わってしまうのかと思いましたが、「後世」のそれぞれの様子があったことで後味もよく、爽やかだったと感じました! […
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