エピソード2 『夜に立つ子』
確かに、死んだはずだった。
だが、いまルークの家の扉の前に立っているのは、間違いなく息子のマルクだった。
ルークは壁際に置いた椅子に腰を下ろしたまま、身じろぎひとつできずにいた。握りしめた両手は、汗で濡れている。
息子は、獣に殺された。遺体は村の者たちと一緒に探しに行って、森のなかで見つけた。そして、この手で、土に埋めた。
それなのに。
両手を組み、額に押し当てる。
ルークは、歯を食いしばった。
開けてはいけない。
それが、息子ではないことは、分かっている。
分かっている、はずなのに。
扉の隙間から、外の様子を窺ってしまいそうになる衝動を、必死で押し殺す。
そうしているうちに、扉の外の気配は、遠ざかっていった。
深いため息とともに、ルークはその場に崩れ落ちた。
「それが……最初の夜だ。確か……十日前になる」
そう言って、ルークは大きく息を吐いた。
頬はこけ、肩は落ち、見るからに憔悴しきっている。
そんなルークの姿を、目の前に立つ狩人はまるで気にする様子もなかった。
「続きを聞かせて」
頭巾付きの外套を頭から被り、小づくりな身体よりも頭ひとつ分大きな杖を持って、狩人はルークを見上げていた。
ルークは小さく喉を鳴らすと、静かに口を開いた。
「……最初は、ただ立っているだけだったんだ」
ルークは、指を強く組み合わせたまま、床に落とした視線を上げようとしなかった。
「夜中に、気配がする。扉の向こうに……誰かが、いる気配だ。だが、物音はしない。咳払いひとつ、足音ひとつ立てずに……」
ごくりと、喉が鳴る。唾を飲み込む音が、やけに大きく部屋に響いた気がした。
「最初の晩は、気のせいだと思おうとした。疲れて、幻を見たんだと……そう思い込もうとした」
ルークは、かすかに首を振った。
「だが、次の日も、その次の日も……そいつは来た」
短く、息を吐く。呼吸が、徐々に荒くなっていく。
「三日目の夜だったか……今度は、音がした」
組み合わせた手が、微かに震える。
「……ノックだ。だが、普通の叩き方じゃない。こつ、こつ、って……爪で木を引っ掻くみたいな、軽い音だった」
重たい沈黙が落ちる。
窓の外から聞こえる木々のざわめきが、ひどく遠く感じられた。
「妻は、気づかなかった。あいつは……マルクが死んでから、ずっと、抜け殻みたいでな。呼びかけても、返事もしない日が多かった」
狩人は、ただ黙って聞いている。
「俺は、布団の中で、耳を塞いでいた。聞こえないふりをして……やり過ごすしかなかった」
唇を噛む。
「……そのうち、ノックは、毎晩になった」
しばらく言葉を探すように沈黙し、ルークは再び口を開いた。
「……七日目、だったと思う」
顔を上げないまま、言う。
「そいつは……喋った」
震える声を、懸命に絞り出す。
「マルクの声で……扉の向こうから、呼んだんだ」
喉が、ひくりと鳴る。
「『父さん』って……『開けて』って……」
しばらく、言葉が続かなかった。
「声は……間違いなく、あいつだった。間違えようがない。何度も、何度も、聞いてきた声だ」
ルークは、瞼の奥になにかを押し込めるように、ぎゅっと目を閉じた。
「……だが、俺は開けなかった。開けちゃいけないって、分かってたからだ」
拳が震える。
「……だが、妻は……ベスは、違った」
ゆっくりと、息を吸う。
「ある晩……あいつは、むくりと起き上がって……『いま、マルクの声がした』って、そう言った」
声が、掠れる。
「そして……扉に向かって、歩き出した」
ルークは、かすかに首を振る。
「俺は……必死で止めた。掴みかかって、押さえつけて……二人で、床に転がった」
「……扉の向こうでは、マルクの声が……ずっと、呼び続けていた」
沈黙が落ちる。今度は、長い沈黙だった。
「その夜……ベスは、泣き疲れて眠った。だが……次は、きっと、止められないと思った」
顔を上げ、狩人を見る。
「……だから、領主様に願い出た。もう、限界だった」
そこまで言って、ルークは、長い溜息をつき、口を閉じた。
ルークが話し終えると、狩人はひとつ小さな息を吐いた。
「……まだ足りないわね」
そう言って、狩人は頭巾を下ろした。
その下から現れたのは、長く美しい金の髪と、澄んだ碧い瞳をした、まだわずかにあどけなさの残る美しい少女だった。
「あんたが……狩人、なのか?」
「アリスよ。がっかりさせたかしら」
頭巾の下から現れた予想外の人物に、ルークは呆気にとられたが、アリスの胸元で鈍く光るものに気づき、すぐにはっと我に返った。
一本の縦線が円盤の中央を貫いている――それは、装飾品と呼ぶにはあまりにも簡素で無骨な首飾りだった。
「いや、すまない。……あいつを、殺してくれるなら……誰でもいい」
そう、とアリスは呟くと、村の様子を見てくると言い、その場をあとにすべく踵を返した。
「ああ、そうそう」
そう言って立ち止まると、肩越しにルークを振り返る。
「扉、開けなくて正解よ。もし開けていたら、あなたたち二人とも、今ごろそいつの胃のなかだったでしょうね」
アリスの言葉に、ルークは頭を抱えこむ。
その手が、ぶるぶると震えていた。
村は、どこか陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
マルクの件が、まだ生々しい傷として、住人たちの心に爪痕を残しているせいだろう。
誰もが口に出さず、だが忘れることもできない。そんな重苦しい沈殿が、村の隅々にまで染み込んでいた。
まだ昼間だというのに、どの家の戸も固く閉ざされている。
アリスは頭巾を目深に被り、通りを歩いた。
すれ違う人々は、みなアリスへと視線を向けながら、アリスが顔を向けると、ふい、と顔を背けてしまう。
「少しいいかしら」
アリスは、井戸のそばに立つ、二人の女に声をかけた。
女たちはなにも言わず、逃げるようにその場を足早に去っていく。
(これじゃ埒があかないわね)
そんなとき、不意に声をかけられた。
「狩人よ、こっちだ」
声がした方へ目を向けると、軒先に置かれた椅子に腰かける老いた男が、アリスに向かって手招きをしていた。
アリスが側によると、男は椅子に座り直し、背もたれに身体を預けた。椅子が、ぎしり、と鳴いた。
「マルクのこと、聞きたいんだろう?」
「あなたは?」
「オラフだ。ルークと一緒に、やつの息子を埋めたんだ」
「……知ってることを、教えてちょうだい」
オラフは、唇を湿らせるようにかたわらに置いたワインを舐めると、背もたれから身体を起こし、ゆっくりと語り始めた。
「ある夜、家を出たマルクが帰ってこないと騒ぎになった」
静かにゆっくりと、思い出すようにオラフは言葉を継いでいく。
「隣にある弟夫婦の家に遊びに行くといって家を出たらしい。そこの息子とは兄弟のようで、毎晩のようにどちらかの家で遊んでたらしい。よくある話さ」
一瞬の沈黙。
「ところが、その日は遊びに来てないと、弟夫婦はいったらしい。妙な話だ。確かにルークとベスはマルクを見送ってるんだからな」
村の大人たちみんなでマルクを探し、ほどなく森の入り口で変わり果てたマルクを見つけた。
「正直に言って、あんな死に方は見たことがない」
オラフは皺だらけの手を、膝の上で強く握り締めた。
「最初はな、狼か熊にやられたんだと思った。森じゃ、珍しい話じゃないからな」
だが違った、とオラフが言う。
アリスは、ただ黙って続きを待った。
「近づいてみて、すぐに違うと分かったんだ。肉が裂けてるのに、噛まれた跡がひとつもないんだ。まるで手で掴んで、力まかせに引き裂かれたみたいだった。それに……」
オラフは言葉を切り、再び喉を鳴らした。
「それに……木の幹に、手形が残ってたんだ。爪痕じゃねえ、人よりずっと指の長い、妙な手形が……」
その言葉に、アリスが、わずかに目を細めた。
「村の連中も、口には出さないが分かってる。あれは普通じゃないってな」
そこまで言うと、オラフは大きな溜息とともに、背もたれに身体を預けた。
「俺が話せるのはこれだけだ」
そう言ったオラフの顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。
「ひとつ、確認させて欲しいのだけれど」
「……なんだ」
「子供の顔は、どうなってた?」
アリスの言葉に、オラフは大きく目を見開いた。
うつむき、怯えるように、手が震えている。
「……ひどい有様だったよ。辛うじてマルクだとわかったが、ぐちゃぐちゃに……引き裂かれてた……」
「歯の痕は?」
「いや、……ついてなかった、と思う」
その言葉に、アリスは納得したように頷くと、オラフの前を辞去し、マルクの遺体が発見された場所へと向かった。
それは、なんの変哲もない、静かな森だった。
遠くから聞こえる鳥の声、風に揺れる梢、どこにでもあるありふれた昼の森。
湿った土を踏み、森のなかへ。
しばらく進んだところで、アリスは足を止めた。
地面の色が、わずかに違う。
雨に流されかけた血の跡が、土に薄く染み込んでいる。
アリスは杖を脇に立て、しゃがみこんで土の表面を確かめる。
踏み荒らされた様子はない。
少し離れた位置に、一本の木が立っていた。
幹の低い位置に、不自然な痕が残っている。
アリスはそこへ歩み寄り、しばらく眺め、それから自分の手を重ねた。
――合わない。
指の長さも、開き方も、人の手とは微妙に違う。
アリスは手を下ろし、もう一度、地面の血の染みへと目を向けた。
オラフから聞いた話を思い出し、アリスは、小さく息を吐いた。
「……思ったとおりね」
そう呟くと立ちあがり、森をあとにした。
「擬態?」
ルークは、アリスの言葉に、戸惑ったように眉根を寄せた。
「ええ、いるのよ。擬態する『獣』が」
「なぜ……うちの息子に……?」
ルークの問いに、アリスはほんのわずか、言葉を探すように視線をふせた。
「これは、推測でしかないけれど――」
そう前置きし、アリスは口を開いた。
擬態する『獣』は総じて辛抱強く、狡賢い。
夜が訪れるたび、闇のなかで村を観察し、獲物を物色していたはずだ、という。
「マルクは、陽が落ちてからも頻繁に出歩いていたそうね」
「弟夫婦の家が……隣にある。確かに、よく遊びに行ってたけど……」
ルークの顔が、みるみる青ざめていく。
「そのとき、目をつけられたんでしょうね」
マルクに擬態し、ふたつの巣にいる者たちを欺くために。
アリスの言葉に、ルークは頭を抱え込んだ。
アリスは続ける。
「闇のなかから何日もマルクを観察し、声や仕草を覚えた。そうして最後に――」
顔のつくりをつぶさに観察するために、分解した。
そう言いかけたところで、ルークが叫んだ。
「やめてくれ!」
そして、力無く崩れ落ちていく。
「頼むから……もうやめてくれ。わかったから……」
泣き崩れるルークに、アリスが告げる。
「協力してもらうわよ」
アリスの姿が見えなくなって、三日目の夜がきた。
ルークは家のなかで椅子に座り、落ち着かなさそうに足を揺すっている。
ベスは相変わらずふさぎ込んでおり、抜け殻のようにベッドに横たわっていた。
窓の外はしんと静まっていて、闇は、揺れることなく溜まっているようだった。
――三日以内に奴は来る。
アリスはそう言った。
理由を問うと、
「勘よ」
と、短く言った。
(……本当に助けてくれるんだろうか)
『獣』が現れたら、扉を開ける。
それが、アリスと決めた手はずだった。
油断させ、背後から仕留める。
「あんたが家のなかで待って、奴が来たら始末してくれるんじゃないのか?」
というと、アリスは首を振った。
「擬態する奴は辛抱強くて狡賢い。……そして――」
アリスは忌々し気に目を細めた。
「極めて――用心深い」
家のなかに違う匂いがあれば近づいてこないのだという。
そしてアリスは姿を消した。
そうして今日が、三日目の夜だった。
(本当に奴はくるのか……?)
そんな疑問が頭をよぎった、そのとき。
扉を叩く音が、聞こえた。
――こつ。
――こつ、こつ。
それは、爪で引っ掻くような、軽い音だった。
ルークの心臓が大きく跳ねる。
――こつ。
――こつ、こつ。
心臓の鼓動が、耳の奥で、早鐘のように鳴り響いていた。
(扉を……開けなければ――)
手筈どおり、扉を開けようと、震える手を伸ばす。
その手が、扉の取っ手に触れようとしたとき。
マルクの声がした。
「お父さん、開けて」
「お母さん、寒いよ」
ルークの手が止まる。
分かっている。
マルクは死んだのだ。
そこにいるのはマルクではない。
そんなことは分かっている。だが――。
扉を開ければ、そこにはマルクの姿をしたものが立っている。
そして、扉を開ければアリスが――。
一瞬の逡巡。
そのとき――
ルークの脇を、人影がすり抜けた。
それは、ベッドで抜け殻のように横たわっていたはずの、ベスだった。
ルークが制止する間もなく、ベスは扉を開けて、外へと飛び出す。
ベスの肩越しに、マルクの姿が見えた。
ベスは、マルクの姿をしたそれを、抱きしめようと両手を広げ駆けよる。
そのとき、ルークは見た。
マルクの顔が、醜く歪んでいくのを――。
「ベ――」
手を伸ばすが届かない。
マルクの口が、ありえないほど大きく裂け、ベスの肩に覆いかぶさろうとした。
次の瞬間、鈍色に光る塊が、闇を裂いた。
肩口から斜めに裂かれたマルクの身体が、ベスの腕のなかに落ちる。
「おかあ……さん」
呟くような断末魔。
ベスの慟哭が、闇のなかに響き渡る。
涙を流し、声にならない声をあげる。
その腕のなかで、マルクだったものは徐々に崩れ落ち、あとには黒い灰だけが残った。
「……これで終わりよ」
その声に、ベスは顔を上げた。向けられた視線は、子を奪われた母親のそれだった。
ルークはただ、言葉もなく立ち尽くしていた。




