エピソード1 『狩人』
雨が降っている。
曇天の空を支配するように一面を覆っている鈍色の雲のせいで、まだ昼だというのにまるでまもなく夜がやってくるかのようにあたりは薄暗い。
その空の下を、杖をつきながら歩く小さな影があった。
膝下まである黒い頭巾付きの外套を、頭からすっぽりかぶったやや小づくりな身体に、背丈よりも頭ひとつぶん大きな杖をつきながら、影は足早にぬかるんだ道を進んでいた。
不意に強い風が吹き、外套を巻きあげた。
外れた頭巾の下から現れたのは、長く美しい金の髪と、澄んだ碧い瞳をもった、まだわずかにあどけなさの残る美しい少女だった。
少女は濡れた頬に張りついた前髪を忌々しげに耳にかけると、頭巾を被りなおして再び歩き出した。
ぬかるみをけって道を進んでいく。
やがて七軒ほどの家が点在する集落へとたどり着いた。静まりかえっている、というよりもむしろ陰鬱な雰囲気を醸しだしているのは、雨のせいばかりではなさそうだった。
七軒のうちで、もっとも大ぶりな家の前に立ち、扉を叩く。
奥から、警戒心を露わにする女の声が返ってきた。
「……誰だい?」
「この集落にハンスという人はいるかしら」
若い女の声に、やや警戒心が薄らぐ。
「ハンスはうちの亭主だけど、なにか用かい」
「『獣』の件できた、といえばいい?」
そう言うと、ややあって扉が開き、口髭をたくわえた中年の男が出迎えた。
「俺がハンスだ。あんたが……狩人か?」
「そうよ、『獣』について話したいのだけれど」
外套の頭巾を外し、澄んだ碧い目でハンスを見る。
「あんたが『狩人』? 冗談だろ、ほんの小娘じゃないか」
「あなたがどう思うかは勝手だけど、正真正銘あたしは『狩人』だし、あなたは領主に助けを求めた。そしてあたしはここにきた。でも依頼主はあなた。どうするかはあなたが決めればいい。ただ——」
碧い瞳がハンスを見据える。
「領主に『獣』の被害を訴えてから何日たった? 十日? 十五日? もっと経っているかしら。次の『狩人』が来てくれるのはいつになるかしらね」
冷たく微笑むアリスに、ハンスはごくりと喉を鳴らす。
確かに領主に願い出てから、すでに二十日が経過していた。ハンス自身、もう『狩人』は来ないのではないかと途方に暮れていたのもまた事実なのだ。
なおもアリスは続ける。
「あたしの知る限り『狩人』はそれほど多くない。ましてや高額な報酬が期待できない、こんな小さな集落の依頼に応じてくれるような物好きなんているかしら」
返す言葉もないハンスは、アリスの言葉にうつむき、忌々しげに歯噛みする。
「どうする? いつ現れるとも知れない新しい『狩人』を待つ? それとも、『狩人』と名乗る小娘に狩りを依頼する?」
「……だが、あんたが本物の『狩人』だという証拠がどこにある」
なおも疑うハンスに、アリスはうんざりとしたように大きく息を吐いた。そして、手に持っていた自身の背丈よりも大きな杖を、ハンスに向かって手放した。
杖が、自身にむかってゆっくりと倒れてくる。
「お、おい」
ハンスはとっさに右手を伸ばし、杖が倒れないように受け止めた。
——次の瞬間、慌てて左手をそえ、倒れそうになるのを両足で踏ん張って支えた。
「——な、なんだこりゃ」
重い。
見た目こそ変哲もない杖だが尋常な重さではない。少なくとも、人間が片手で扱える代物ではない。
アリスは眉ひとつ、唇の端すらも微動だにさせず、慌てるハンスの手から杖をひょいと——いとも軽そうに取り上げた。
「これであたしがただの小娘じゃないと理解してもらえた?」
まだ疑うのなら、とアリスは胸元にぶら下げた黒ずんだ円盤を指で弾いた。
一本の縦線が円盤の中央を貫いている――それは、装飾品と呼ぶにはあまりにも簡素で無骨な首飾りだった。
「……あ、ああ、すまない。……悪かった、謝るよ」
「話を聞かせてくれるかしら」
ハンスは、重い口をゆっくりと開き、事情を話し始めた。
「……狼かなんかの仕業だと思ったんだ」
最初に襲われたのは、村で飼ってる家畜だった。
それが、人間に変わるまで、それほど時間はかからなかった。
「四日前の朝、家畜の見回り当番だったトマスが見当たらないことに気づいた」
トマスは生真面目な男で、朝は必ず日の出とともに起きて野良仕事をしていたという。
「……家畜小屋の付近に、血の跡があって……男どもで、跡をたどったんだ」
「死んでいた、というわけね」
ハンスは黙って頷いた。
「……あんなの、見たことねぇ。あんな……惨い……」
その光景を思い出したのか、ハンスの言葉は、力なく震えていた。
「家畜小屋と、トマスを見つけた場所へ案内してくれるかしら」
ハンスは頷くと、黙って歩き出した。
その途中、通り過ぎる家の窓から、覗き見るような視線に、アリスは気づいた。
その多くは、彼女の顔ではなく、胸元に下がる黒い円盤に向けられている。
不快気に眉間にしわを寄せる老人、いやらしい笑みを浮かべる男、覗き見ようとする子供を叱る母親。
嫌悪、好奇、恐怖。
視線の質は様々だが、好意的な視線を向けるものなどほとんどいない。
(狩人なんてそんなもの)
半ば諦念に似た自嘲を、アリスは秘かに飲み込んだ。
「……ここだ」
ハンスがいうと、アリスは足元や周囲を観察するように家畜小屋の周りを歩き始めた。
粗末な小屋に小さな柵、そのなかに数頭の山羊がいる。
小屋の外壁に、鋭い爪の跡があった。
引っ掻いた、というよりは、抉るような爪痕。
アリスはしげしげと眺めると、それを指先でなぞる。
「……爪痕の間隔がひろい。普通の大型動物の仕業じゃないわね」
そう呟くと、ハンスへと向き直る。
「次はトマスの死体があった場所ね」
「……こっちだ」
ハンスに案内されたのは、集落から外れたところにある林を抜けた、小高い丘の上だった。
「……ここだ」
ハンスの声は、わずかに強張っていた。
アリスは無言でしゃがみ込み、注意深く観察する。
雨に洗われてなお残るその染みが、流れた血の量を物語っている。
「……家畜小屋にはこれほどの血痕はなかった。つまりここまで運んできて、そして……」
アリスはひとりぶつぶつと呟くようにこぼした。
「トマスの身体はどうなってた?」
「……食われてた」
「具体的に教えてくれる?」
アリスに問われ、ハンスはかちかちと歯を鳴らし始めた。
「身体はどうなってた?」
「……ぐちゃぐちゃだった。噛みちぎられた、っていうより……力まかせに、引きちぎられたみたいに」
「牙のあとは?」
「分からんが……狼じゃないのは、確かだ」
「骨は?」
「もういいだろ! 勘弁してくれ!」
もう限界だと言わんばかりに、ハンスは頭を抱える。
「……一度、戻りましょう」
集落に戻るころには、日はすでに傾きはじめていた。
まもなく夜がやってくる。
「おそらく、今夜あたりにまた出るわ」
アリスがそう言うと、ハンスは明らかに狼狽し、あたりをきょろきょろと見回した。
「いまはまだ大丈夫、『獣』が活動するのは日が落ちきってからよ。ただし、村の人間には今夜は外に出ず、戸締りをしっかりして、灯りを消すように言っておいてちょうだい」
ハンスは激しく点頭すると、ほとんど転ぶような勢いで走っていった。
「あたしも……準備をしなくちゃね」
いつの間にか、雨はやんでいた。
夜になった。
小高い丘の上で、ぽつりと火が灯っている。
アリスは小さな焚き火の前に正座し、目を瞑って呼吸を整えていた。
深く、ゆっくりと、心を落ち着けるように。
――背後で、大きななにかが土を踏む音が聞こえた。
低い唸り声。
吐き出される呼吸とともに漂う腐った肉の臭い。
それは、焚き火の灯りに誘われてやってきた。
(……きたか)
アリスは杖を手に取り立ち上がる。
そこに立っていたのは、闇に溶けるような細長い影。
それは、黒い毛皮に覆われた、二足で立つ獣だった。
闇に光る赤い目、大きく裂けた口。
アリスは小さく息を吐いた。
「やっぱり、『獣』か」
咆哮とともに、『獣』が飛びかかる。
アリスは『獣』の横面に、力まかせに杖を叩きつけた。
焚き火の上に『獣』が転がり、火の粉が激しく闇に散る。
起き上がり振り向いた『獣』の頬は肉が抉れ、血が吹き出していた。
だが次の瞬間、ぶくぶくと血の泡を吹きながら、頬の傷が内側から盛り上がり、破れた肉が押し戻されるように元の形に戻っていく。
ほんの数秒で、『獣』の頬は何事もなかったかのように元の通りになった。
「まあ、当然治るわよね」
アリスが言うや、『獣』は後方へと跳躍し、闇に紛れた。
一瞬の静寂。
「――――!」
次の瞬間、鋭い爪の一撃が、背後からアリスを襲った。
その爪が、アリスを背後から貫いたと思ったとき、甲高い金属質の音が鳴った。
吹き飛ばされたアリスが、杖を支えに立ち上がる。
「……やってくれたわね」
そう言って、アリスは外套を脱ぎ捨てる。
その背から、アリスの背丈と変わらぬほどの、巨大な刃が姿を現した。
刃を支える留め金を外す。
ずん、という重い音とともに、刃が地面に突き立った。
そうして刃の根元に杖を突き立てる。
杖と思われたものは、巨大な剣の柄だった。
『獣』が、一際おおきな咆哮をあげ、夜気を激しく震わせる。
次の瞬間、アリスの喉元目掛けて飛びかかった。
アリスは身構えると、その巨大な剣を『獣』へと叩きつける。
振り下ろされた刃が『獣』を脳天から真っ二つに切り裂き、土埃をあげた。
『獣』が、血を噴き上げながら、倒れる。
アリスは、全身を返り血で真っ赤に濡らしながら、『獣』が動かなくなるのを見下ろしていた。
夜明けとともに、『獣』の死体は煙のように消え、黒い灰と、焦げた匂いだけが残った。
村に戻ったアリスを、ハンスが出迎えた。
「……『獣』は、片付いたのか?」
「ええ」
ハンスが、金の入った袋をアリスに手渡す。
「ありがとうよ、これは報酬だ」
そういうと、申し訳なさそうに、小声でそっと囁いた。
「すまんが、さっさと出て行ってくれるか。みな、あんたを怖がってる」
そういわれ、アリスは周囲を見まわした。
誰もアリスに近づこうとせず、遠巻きに眺めながら、何やらひそひそと話をしている。
『獣』の血に濡れたアリスが恐ろしいのか、投げられる視線に、『獣』を始末したことへの感謝は見られなかった。
(……いつものことだ)
小さくため息をつくと、アリスは報酬を受け取り、懐にねじ込んだ。
村の入り口へと歩いていく。
母娘連れが、アリスを見ないように目を伏せて通り過ぎようとした。
そのとき、
「お姉ちゃん、ありがとう」
それは、微か聞こえた小さな声だったが、確かにアリスの耳に届いた。
ふり返ると、少女の小さな手が、ひらひらと揺れている。
柔らかな微笑みに、アリスもまた、静かな微笑みで答えた。




