八作
10月11日、家康が駿府城を出発し、同月23日に京都の二条城に入る。時を同じくし秀忠も六万の兵を連れて江戸を出発した。
豊臣恩顧の大名である黒田長政や福島正則等は念のため江戸城に留められている。
秀忠が将軍になった時に西国の大名達に忠誠を誓わせていたため、豊臣からの徴兵に表向きはほとんどの大名がしたがっていない。
それでも戦の優劣勢を見極めている者がいるかもしれない。直孝も彦根で兵を揃えて出発した。
25日に家康は戦の先鋒を藤堂高虎、片桐且元に命じた。
秀忠の到着がまだだったため、直孝は先に二条城に入り、家康に彦根での事を報告に向かった。
公の面会ではなく、護衛が数人いるくらいの緩い面会であった。
「………という顛末になりました。
我が兄ながら家臣がまとめられていない事を目の当たりにするとは………」
「うむ、直政も少し戦場に居すぎたのかもしれんな。
おぬしらにあまり構えず逝ってしまったのは儂が抑えられなかった部分のせいでもあろう。
武勇をもって人を導く時代を終わらせる事ができたのも儂らなら、終わらせてしまったのも儂らなのだ。
時代の移り変わりの狭間で変化の影響を受ける者達には重荷を背負わせているのやもしれぬ。
直政は己に厳しく他者にも厳しい男であった。
口で語るより己が背中で引っ張る男であった。
それは戦場では敵を恐れさせ、味方を鼓舞した。
まさに戦国に生きる武将そのものであったと思う。
惜しむべきは戦場以外でも優秀な男であった事を広める前に逝ってしまった事だ。
おぬしらにも伝えたい事や伝えきれなかった事も多くあったであろう。
此度の戦は真に戦国に幕を閉じるものだと思っておる。父のような活躍を当たり前のように望むのは直孝にとって重荷やもしれぬ。おぬしはおぬしの活躍をせよ。
期待はしておるがそれは直政の子だからではない。武勇をもって今一度、井伊の名を戦場に響かせよ。」
「はっ!」
11月18日、茶臼山陣城に先に入っていた秀忠と家康は軍議を行った。こうして、少しずつ戦の気運は高まっていった。




