十四作
真田丸の戦いから数日が経つと和議を考える家康と総攻撃を考える秀忠の対立が戦場に広がっていた。
淀川の水量を減らす工事も終わり、大阪城に対する防備もかなりゆるくなってきている。
さらに大砲やイングランドから購入したというカルバリン砲やセーラー砲等も到着して、徳川方の攻める準備も着々と進んでいた。
更に家康の作戦により毎晩三度ずつ鬨の声と共に大阪城に向けて火縄銃を撃ち続け、相手側の不眠を誘うなど精神的な追い込みもかけていた。
この間も和議の交渉が続けられていたが暗礁に乗り上げてしまっているらしい。
相手側の兵糧も徳川方が買い占めた事により底をつきかけている頃だろう。
ここに来て国友から大砲が更に届いた事で大阪城への砲撃が激しさを増した。
伝え聞いた話では、砲撃のひとつが淀殿の居室に当たり淀殿の侍女が数人亡くなったらしい。
これもあり淀殿は和議に前向きになったとかならなかったとか色々な話が流れている。
真田丸の戦いから二週間ほど経った17日、後水尾天皇の勅使が和議の仲裁に現れたが家康はこれを拒み、あくまで主導権を徳川が持つ事にこだわった。
その翌日の18日、京極忠高の陣に置いて徳川方から本多正純と家康の側室の阿茶局、豊臣方から淀殿の妹で忠高の義母にあたる常高院(浅井 初)が交渉にあたった。
その翌日には和議が成立し、22日には誓約書が交わされて大阪の陣は終結した。
徳川方からの条件は大阪城の本丸は残し二の丸、三の丸を破壊し、惣溝の南、西東堀を埋める事と淀殿の代わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事が出された。
豊臣方からは豊臣秀頼の身の安全と本領安堵、城中諸士の安堵をする事が出された。
直孝はこの後の事もあり戦後処理にはたずさわらずに近江へと兵を連れて引き上げた。
心なしか行きに比べて兵が直孝に対して好意的になっているような気もしたが、この時の直孝にはそれを考えるほどの余裕はなかった。
家康より『味方を奮い立たせた』と誉められはしたが500人近い兵を失う大失態を犯している。
それは近江の民であり、これから自分が治める領地の民になるはずだった者達だった。
この失態に対し兄の直継は何と言うだろう?
兄に使える井伊谷からの家臣はどう思うだろうと気が気ではなかった。




