8 図書館
教室を出た三人は、ユリの案内で二階にある図書館へと向かった。
空はもう夕焼け色に染まり始めている。暗くなる前に何とかしたかったため、良かったとハルはそっと息を吐く。
それから周囲をぐるりと見回す。
なるべく足音を立てずに進んだからか『手』はハルたちにまだ気づいていないようで、図書館へ到着するまでの間に襲われることはなかった。
体力を使わなくて済んでありがたい――そう思いながら図書館の入り口を見ると、開いたままのドアから『手』が伸びているのが見えた。
青白い腕が、ちょうどハルたちとは反対側に向かって伸びている。
それを見てナツがニッと笑って「当たり」と呟いた。
腕に触れないように、その下をくぐる形で図書館の中へ入る。するとユリの教えてくれた姿見をすぐに見つけることができた。
図書館の奥。そこに姿見が二枚並んでいて、その内の一枚から『手』が伸びている。床には少々日焼けした白い布が落ちているが、姿見にかけられていたものだろう。
「ナツ、始めましょう」
「オーケー。『手』はどうする? 一度斬っちゃう?」
「その方が安全かも。後ろからこられると厄介ですので」
「分かった」
ナツはそう言うと、竹刀袋から彼の愛刀である白雉丸を取り出し、すらりと抜いた。清廉な銀色の刀身が、窓から射し込む夕焼けの灯りに照らされ、まるで燃えているように輝く。
ナツが刀の棟を指先でつうとなぞると、白雉丸は彼の霊力を纏って淡い光を放ち始めた。それを見てユリが「きれい……」と呟く声が聞こえる。ナツは機嫌を良くしたようで、口の端を上げた。
「ユリ先輩、少し離れていてね」
「う、うん!」
ユリは頷くと、入り口からも姿見からも離れた壁際へと下がる。
良い判断だと思いながらハルは扇子を開く。ナツと目で合図をし合うと、白雉丸で『手』の腕を斬り飛ばした。
霊的なもののみを断つ刃に触れた『手』は、砂のようにサラサラと消えていく。やはり刀を使った方が効き目もある。
そんなことを思いながら、ハルがナツと共に姿見に近付くと、不意に鏡面がぐにゃりと揺れた。
「っ!」
ハルとナツが身構える。ほぼ同時に姿見から『手』が二本生えてきた。その『手』は姿見の縁を掴むと、ぐぐっ、と力を込めるような素振りを見せて――その直後、鏡面から青白い『頭』がぬっと出てきた。
髪も生えておらず、顔ものっぺらぼうで、何もついていない『頭』だ。警戒しながら様子を見ていると『頭』だけに留まらず、姿見からは『体』まで出てくる。身長や体格はハルたちよりもずっと大きい。
「うわ、何これ」
ナツがポカンと口を開けた。
見た目はデッサン人形に近いだろうか。妙に作り物感が強い何かだ。
――しかし、どうして人型が。
先ほどまでは『手』だけだったのに、どうして今回は全身が出てきたのだろうか。そう考えたハルの頭に浮かんだのが鏡の違いだ。
(もしかして、姿見だから全身が……?)
もともとは『手』じゃなくて、この人型が出てくる術だったのかもしれない。しかし、トイレの鏡はこの全身が出るにしては小さすぎた。だから手しか伸ばせなかったのだとしたら、おまじないが行われていたのがトイレで良かったとハルは心の底から思った。
もしも図書館の姿見で行われていたら、あの手の数だけ人型が現れていたことだろう。
(一体ならまだ対処の仕様がある)
そう思いながらハルは開いた扇子を姿見へ向ける。そして今までの鏡と同じく術を焼き始めると、姿見から出てきた人型が、ぐにゃぐにゃと体を揺らし始めた。骨なんてないような、ありえない動きだ。
その不気味さにユリが「ひっ」と小さく悲鳴を漏らす。
「何をしようとしているのか知らないけどっ!」
先手必勝とばかりに、ナツが床を蹴って人型へ向かう。
淡く輝く白雉丸で人型の胴を狙った、その瞬間。
白雉丸が触れるか触れないかのタイミングで、刀にこめられた霊力が僅かに、人型の方へ吸われるのが見えた。
すると――、
「え?」
のっぺらぼうだった人型が、ナツの姿へと変化したではないか。
「なるほど、ドッペルゲンガー!」
ヒナが見たのはこれだったのかもしれないとハルは理解した。
霊力を吸ってその人の姿に変化する。この術をどう使うつもりだったのか分からないが、今回のドッペルゲンガー騒動の原因はこれだ。
「うわ~、嫌だねぇ、こういうのさっ!」
ナツは言葉通り嫌そうに顔をしかめると、ドッペルゲンガーを蹴り飛ばした。
姿見とドッペルゲンガーの間に距離ができる。それからナツは奴が姿見の方へ戻れないように、その間に滑り込んだ。
そして視線をドッペルゲンガーに向けたまま、ハルに向かって叫ぶ。
「ハル、解除よろしく!」
「分かりました!」
ハルはそれに応えると、姿見に仕掛けられた術の解除を続ける。幸い姿見の術は、他の鏡の術と差異はない。これならば早めに片を付けることができるだろう。
そう考えながら横目でナツの様子を確認すると、ちょうどドッペルゲンガーが拳を振り上げたところだった。
『手』だけの時もそうだったが、怪異や霊的な現象の類にしては、あのドッペルゲンガーはやけに物理的な攻撃手段を取っているなとハルは思った。
(ナツの姿に変化したところを見ると、ドッペルゲンガーに準ずるものを作る術……?)
生徒たちからおまじないを利用して霊力を集めて、アレを作り出す。
――やはり意図が分からない。学校への恨みでそうした可能性はあるけれど、だとすればもっと大ごとになりそうな場所を選びそうなものだけど。
思考を続けながらハルは術を焼き続ける。
ドッペルゲンガーも、それに合わせて徐々に動きが鈍くなり始めた。
「それにしてもっ、自分と戦うなんて変な感じっ!」
ナツはそう言いながらドッペルゲンガーの右腕を、その肩ごと斬り飛ばした。
とたんにドッペルゲンガーの体にヒビが入る。
同時にハルの方の作業も完了した。術が消える。
「完了です!」
ハルがそう言えば、姿見とドッペルゲンガーの身体がパリン、と音を立てて割れ――ドッペルゲンガーの姿は砂のように崩れて消滅した。
じっと姿見を見つめて、異変が起きないことを確認してから、双子は同じタイミングでため息を吐いた。
「…………。っ、はぁぁぁ……今回は、さすがにちょっと疲れたよ……」
「お疲れ様です、ナツ」
「ハルもお疲れ~」
ハルとナツはお互いに労い、笑い合う。
ひとまずこれで事態は終息しただろうか。もちろん念のため、旧校舎内をもう一度しっかり確認して回った方が良いだろうけれど。
「――ありがとう。“おまじない”を止めてくれて。――巻き込んじゃってごめんね」
するとその時、何故か耳元でユリの声がした。気配がないのに妙に近い。
えっ、と思ってハルが声の方へ振り返ると、そこにユリの姿はない。図書館をぐるりと見回しても、どこにも彼女はいなかった。
ただ、彼女が立っていた壁際に『月夜のヨナガにおまじない』というあの本が落ちているだけだ。
「ハル、今の聞こえた?」
「ええ……。ユリ先輩、どこですか?」
少し大きめな声でユリに呼びかけてみたが、反応はなかった。
ハルとナツは不可解そうな表情になる。図書館の入り口から顔を出して廊下を覗いてみたが、やはりそこにも彼女はいない。
静かになった旧校舎内は、まるで最初からそこには何もいなかったと言うように、物音すら聞こえることはなかった。




