1-3 視線
伊吹が言うには、逸れてしまっていたのはハルとナツの二人だけだったそうだ。
伊吹や他のクラスメイト達は、一時間ほど前に口無村へと到着していたらしい。
「二人は最後尾を歩いていたし、視界も悪かったせいだろうな。本当に悪かった。無事で良かったよ」
「そうですねぇ」
ハルはそう返しつつ、それは少し妙だなと思った。
確かに伊吹の言う通り、土砂降りで前が見づらく、雨音で声も搔き消されてしまったため、周囲の様子が分かり辛かったのは事実だ。
しかしハル達からすれば、あまりに忽然と目の前から人が消えている。
(皆と逸れた事に気付いたのはいつでしたっけ……)
その時の事を思い出そうとハルは記憶を辿るが、どうにもその辺りがぼんやりしていて思い出せない。
考えようとすると頭に靄でもかかったように記憶がぼやけてしまうのだ。
はっきりと覚えているのは、気が付いたら目の前に誰もいなかったという事。そしてナツだけは隣にいたという事だけだ。
先ほどまでは状況が状況だけにそこまで考えていられなかったが、改めて思い返せば奇妙な話である。
ハルは別に足元ばかりを見て歩いていたわけではない。
なのにああも目の前から人がいなくなるなんて事があるだろうか。
(それにあの狼は……)
どうにも不可解な出来事が続いている。
……おかしな事にならないと良いのだけれど。
漠然とした嫌な予感を感じながらそう考えていると、
「どうした、ぼうっとして?」
心配した様子の伊吹に声をかけられた。
「あ、いえ。すみません。たぶん疲れたんだと思います。しばらく山の中を彷徨っていたので、人の姿を見てちょっと気が抜けました」
「そうかぁ。……うん。とりあえず、ほら、傘をさしな。身体がもっと冷えちまうから」
そう言って伊吹は番傘を渡してくれた。
村で借りたものだろう、ずいぶん古風な雰囲気である。
そうして歩き出すと、前に伊吹が、隣にナツが、そして周囲には雨合羽を着た村の大人達が三人が並んだ。
「…………?」
歩いていると、ふと、村人達からじろじろとした視線を向けられているのを感じた。
見られているのはどうやらハルとナツの顔の辺りのようだ。
――何とも居心地が悪い。
助けようとしてくれた人達に向ける感情ではないのだが、ハルはそう思ってしまった。
「ええと、私達に何か?」
「……いや、別に」
もしかしたら何か言いたい事でもあるのだろうかと思い聞いてみるが、返答はそれだけだった。
ついでにサッと視線を逸らされてしまう。
気のせいだろうか。そう思いながら再び前を向けば、少ししてまた同様の視線を感じた。
(……気味が悪い、と言うか)
どうもその視線は好意的なものとは思えない。
「ねぇねぇハル」
「うん?」
「僕達モテるねぇ~」
すると隣を歩いているナツが、そう小声で言って来た。
どうやらナツも同じように感じているようだ。
顔を向けるとナツはわざとらしく肩をすくめてみせた。
形容しがたい居心地の悪さは歩いている間ずっと続いていた。
理由の分からない不気味さを感じながら伊吹について行くと、少ししてハル達は立派な屋敷に到着した。
「うわ~大きな屋敷。旅館みたい」
「伊吹先生、ここは?」
「ああ、この村――口無村の村長の、灰鐘さんの家なんだよ。雨が落ち着くまで、ここで泊まらせてもらう事になったんだ」
伊吹の言葉に双子は目を丸くした。
「全員がここで?」
「そうそう」
恐る恐る聞くと伊吹は頷いた。
ハル達のクラスは全部で三十人いる。いくら目の前の屋敷が大きいとは言え、三十人全員が泊まるとなると大変どころの話ではない。
「それはちょっと、と言うか、だいぶ無理をなさっているのでは……?」
「あと食べ物とか大丈夫? 僕達、育ち盛りの高校生だよ。迷惑……はこの時点でかけちゃっているだろうけど、この人数だし。蓄えが底をついちゃうよ」
「ああ、近所の人からも手伝って貰うからって言ってくれた。あと、その辺りで掛かった費用は、後で学校から支払ってもらう事になっているよ。だけど、それを言う前に二つ返事で受けてくださったんだ。良い人だよなぁ」
「ああ、ええ、そうですねぇ……」
伊吹が明るく笑って言うので、ハルもとりあえず曖昧に笑ってそう返した。
正直に言えば、ここへ来るまでに起きた奇妙な出来事と村人達からの不気味な視線がなければ、ハルも素直にそう思っていただろう。
(……疲れているせいでもありますかね。どうにも悪い方へと考えてしまう。)
本当にただの親切心で受けてくれたのであれば、疑いを持って申し訳ないと思うけれども。
そう思いながらハルは番傘を畳んで屋根の下に入る。
すると屋敷の中からこちらへ向かって、足音がバタバタと元気な音を立てて近づいて来る事に気が付いた。
ややあって、ひょっこりと見慣れた顔が現れる。
ハルやナツと一番仲の良いクラスメイトの藤森ヒナだ。
「あー! 声が聞こえたと思ったら、やっぱり! ハルちゃんとナツくんだー!」
ヒナは双子の姿を確認すると、転びそうになりながら靴を履いて、こちらへ駆け寄って来る。
そしてハルの手を、両手でぎゅうっと握った。冷えた手にヒナの手の熱が心地良い。
「うわぁん、良かったぁ、良かったよぉ……! 怪我していない? 大丈夫? 大丈夫?」
ヒナはぼろぼろと涙を流しながら二人の無事を喜んでくれた。
心配してくれる彼女の気持ちが嬉しくて、くすぐったい気持ちになりながら双子はふわりと笑顔を向ける。
「心配をかけてごめんなさい、ヒナさん。ヒナさんも無事で良かったですよ」
「そうそう。ごめんね~、ヒナちゃん。心配してくれてありがとね」
「いいよぉ……無事だったならいいよぉ……」
双子がそう言えば、ヒナはぐすぐすと鼻をすすりながら泣き笑いの表情を浮かべる。
ハンカチでも差し出せれば良かったが、今の自分達は濡れ鼠だ。ハンカチだって本来の役目を果たさない。
どうしようかな、とヒナを前に双子がちょっとわたわたしていると、見ていた伊吹が小さく噴き出した。
「ヒナ、とりあえず手を放してやりな。そのままだと二人が着替えられないからな。さすがに夏でも風邪を引いちまう」
「はぁい……」
伊吹の言葉にヒナはそっと離れた。そして両手でごしごしと涙を拭っている。
うん、と伊吹は小さく頷いてから、今度はハル達の方を向く。
「ハル、ナツ。灰鐘さんがお風呂の用意もしてくれているから、借りておいで。着替えも貸してくれるって」
「あっあっ、じゃあ、私も案内するぅ……!」
するとヒナが元気に手を挙げた。
「そうか? それじゃあ、よろしく頼むな~。俺も灰鐘さんに報告するから、途中までは一緒に行くよ」
「はぁい! あのね、ハルちゃん、ナツ君。ここのお屋敷ね、男女別でお風呂が二つもあるんだよ。すごいよね……!」
「ああ。お客さん多いからって言ってたな~。着替えもその時のために用意してあるんだってさ」
伊吹とヒナはそう言いながら歩き出した。
色々と気になる部分はあるが、お風呂や着替えの事はとてもありがたかった。
頭のてっぺんから靴の中まで濡れていて気持ちが悪いし、ずっとこのままだと冷えてしまう。
着替えに関しても、泊りがけの林間学校だったから用意はしてきたが、幾ら防水仕様の鞄だってあの豪雨の中で無事かどうかも分からない。
なのでとりあえず今はご厚意だろうと考えて、お言葉に甘える事にしよう。
「……ま、とりあえずはさ、合流出来て良かったよね」
「ええ、そうですね。皆の無事が確認出来て、ホッとしました」
双子はそんな事を話しながら、伊吹とヒナの後をついて行った。




