1-2 矢絣柄のリボン
同時刻。
長野県のとある山中は、今、土砂降りの雨が降っていた。
雨のせいで昼間なのに薄暗く、数メートル先すら見えないくらい視界が悪い。
そんな中を双子の姉弟が、雨具も使わず、手を繋いで前へ前へと進んでいた。
少女の方が村雲ハル、少年の方が村雲ナツと言う。黒い瞳に黒い髪をした、そっくりな顔立ちの十六歳の高校二年生だ。
二人は今、林間学校でここへとやって来ていた。
天気予報は晴れだったので安心しながら、キャンプ場へと向かうために歩いていたところ、御覧の通りのとんでもない雨が降り出した。
このせいで二人は、先生やクラスメイト達とはぐれてしまっている。
人の声も、獣が動く音も、何一つこの雨音で掻き消されてしまう。
少し離れるだけで見え辛くもなるため、これ以上逸れないようにと、双子は手を繋いで進む事にしていた。
「天気予報は晴れだったから油断しました。折り畳みの傘か、合羽辺りを持ってくれば良かった」
「ほんとほんと! 山の天気は変わりやすいって言うけど、これ最悪だよね~。スマホ壊れていないといいんだけど」
そう言ってナツは、自分の背負った鞄へとちらりと目を向ける。
一応、二人の鞄は防水仕様ではある。この雨量だと心配だが、何とか無事であると信じたい。
まぁ、心配だからと言って、中身を確認するにもさすがに今の状況で取り出すわけにはいかない。
今の時点で壊れていなかったとしても、出したとたんにダメになりそうだ。
(壊れていないといいんですけれど)
そんな事を願いながら、ハルは顔を前へ戻した。
「でも、山に入って少し歩いたらコレなのは、本当に変わり過ぎですよ」
「ね~。あれだよ? 本家のオッサンの顔色みたいに、一気に変わっちゃったよね」
「ンッ! ……ふふっ。もう、ナツったら、想像しちゃったじゃないですか」
「アッハ」
ただまぁ、こんなやり取りが出来る程度には、ハルとナツはまだ余裕があった。
今はいわゆる非常事態とか、異常事態とか、そういう状況だ。
しかし、こういうった事にはアルバイトの関係で慣れている。
このまま何時間も山を彷徨う事になればもう深刻な顔にはなるが、今の段階ではまだまだ精神的には落ち着いていた。
――まぁ、一番の理由は、この二人が元来、図太い性格だからだが。
とは言え心配事だってある。
(ナツの体調が心配ですね……)
ハルの双子の弟は、寒さにはあまり強くないのだ。
このまま雨に打たれ通しならば、身体が冷えて、確実に熱を出すだろう。
(せめて雨宿りが出来る場所が、見つかれば良いのだけれど)
歩きながら、それっぽいところを探そうとするが、なかなか見つからない。
今の雨の勢いでは、その辺の木陰では防ぐ事は出来ないだろう。
岩陰か、建物か、もっとしっかりした巨木か。
その辺りを見つける事が出来たら良いのだが、そうそう上手くはいかない。
「山を登った方が良いのか、下りた方が良いのか、どっちですかねぇ」
「悩ましいねぇ。だいぶ道もルートから外れちゃってるみたいだから。さて、どうしたもんか」
そう言いながらナツは足元へ目を落とす。
歩いている内に、気付いたら二人は獣道に入ってしまっていたのである。
「適当に動いて、変なところに出たらって考えると悩むよね~」
「今も遭難みたいなものですけれど、さらに悪くなりますからねぇ」
「ね~。……ところでハルは大丈夫? 寒くない?」
「大丈夫ですよ。ナツこそ大丈夫ですか?」
「まだまだ平気さっ!」
ナツは明るくそう笑う。
とにかく雨を凌げる場所を探さなければ。そこにさえ辿り着けば、連絡の取りようもあるだろう。
ハルがそう思っていると、
「ん?」
「どうしました?」
「いや……今、何か聞こえなかった?」
ナツが足を止めて、周囲をきょろきょろと見回し始めた。
何かと言われても。雨の音が酷くて、他の音は掻き消されているような状況だ。
他の音なんて……とハルが思っていると、
アオーン、
と、雨の音の中で微かに、そんな遠吠えが聞こえた。
(――狼だ)
こんな見通しの悪い山中で出会うなんて最悪である。
どこから……と思いながら視線を走らせていると、
アオーン、
ともう一度遠吠えが聞こえ、草を掻き分けて何かの音がこちらへ近づいて来る。
「…………」
「…………」
双子は静かに音の方へ目を向ける。
身構える。
すると次の瞬間、ガサリと音を立てて茂みの中から、一匹の大きな白い狼が飛び出して来た。
否、ただ白いだけではない。毛並みが薄っすらと光を放っている。またこの雨の中にあって、その毛並みは一切、濡れていないように見える。
ただの獣ではない。いわゆる怪異の類だろうか。それならば自分達がしている仕事の範疇だと、双子は目の前の狼を見つめる。
しかし。
「ナツ」
「うん。……嫌な気配はしないね」
ナツはそう言った。ハルも同じ意見だ。
敵意、害意、その類のそれが、狼からは感じられない。
狼は尻尾を揺らしながら静かにこちらを見ている。
襲い掛かって来る気配はない。
(……あれ?)
ふと、ハルは狼の尻尾にリボンが結ばれている事に気が付いた。
矢絣柄の、赤と白のリボンだ。
異様な姿の中で、そこだけが妙に現実的で目を惹く。
なぜ。
そう思った時、狼はくるりと向きを変え、歩き出した。
興味を失くしたのだろうか。
目でその動きを追っていると、狼は数歩進んで足を止め、頭だけでこちらを振り返る。
それを二、三度、狼は繰り返した。距離は開いたが、光っている事もあって、まだ目で負える範囲だ。
「……ついて来いって言っているみたいだ」
ナツが呟く。確かにハルにも狼がそう言っているように思えた。
着いて行くか否か。一瞬迷って、ハルは空を見上げる。
相変わらずの土砂降りの雨だ。
このまま行く当てもなく彷徨っても、現状が変わらないのならば、変化がありそうな方へ行ってみるのも有りだろう。
「行ってみましょうか、ナツ」
「そうこなくっちゃ!」
好奇心旺盛なナツはニカッと笑う。
ハルもそれに笑い返すと、狼について歩き始める。
狼は二人が自分の後をついて来ると分かったためか、今度は振り返らずに、それでいて二人が追い付ける程度の速さで進んで行く。
「…………」
「…………」
ふうふうと息を吐きながら歩いている内に、自然と会話が少なくなった。
ずぶ濡れの身体が重い。雨が足の先まで熱を奪っていく。
唯一、ナツと繋いだ手だけは温かかった。
どれだけそうして歩いていただろうか。
突然、狼が足を止め、
『……お願い。兄さんを、助けて』
人の言葉を話した。
二人が「えっ」と目を丸くしていると、狼を中心に強い風が巻き起こる。
雨を巻き込んだその風に、目が開けていられなくて、二人は思わず目を瞑る。
少しして風が止み、恐る恐る目を開けると、そこにはもう狼の姿はなかった。
その代わりに、狼がいた場所の先に灯りが見えた。
「……ハル、今の聞いちゃった?」
「聞いちゃいましたね。絶対に普通の生き物じゃないですよ、あれ」
「だよねぇ……。……言葉の意味は不明だけど、助けてくれたのかなぁ」
「さあ……。あれが怪異だったのなら、基本的に親切じゃないでしょうし」
村を前に、驚きながらもハルとナツがそんな話をしていると、
「ハルー! ナツー!」
と村の方から自分達を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。
声の主は二人のクラス担任である伊吹先生だ。雨合羽を着ている。
お節介で人の良いこの先生は、ハルとナツに手を振りながら駆け寄って来た。
そして二人の顔を確認してホッとした顔になり、へなへなとしゃがみこんだ。
「良かったぁ~……無事で……。今から探しに行くところだったんだ」
「アハ。ありがと先生、心配してくれたの~?」
「俺の教え子だ。当たり前だろ。……後ろを確認した時に、お前達がいない事に気付くのが遅れてすまなかった」
「いえ。私達がちゃんと前を見ていなかったのが悪いので」
「いいや、監督責任は俺にあるんだ。……二人共、怪我はしていないか?」
そう言うと伊吹は立ち上がって二人の顔を覗き込む。
「……あんまり顔色が良くないな。寒かっただろう。村の人達には話をしていあるから、おいでおいで」
そして二人を手招きして歩き出す。
ハルとナツは顔を見合わせた後、伊吹の後について歩く。
村の中へ入る時、入り口辺りで古い看板が見えた。
「口無村……」
そう書かれていた。
何となく嫌な響きの名前だなとハルは思った。